手にすっぽり収まる小さな装置

マーク・ハンセンは身体中心にニューメディアを考える.身体はデータを処理する場として特別な場所である.データに形を与える身体.レフ・マノヴィッチはデータからニューメディアを考える.ハンセンは,身体を軽視するマノヴィッチを批判する.マノヴィッチの論文が載っているアンソロジー "Small Tech" の編者たちは,データでも身体でもなく iPhone などの手におさまる小さな技術に注目する.

私たちは小さな技術を手の中に収めながら,データを発信・受信し続ける.身体中心でもなく,データ中心でもなく,その「あいだ」で何が考えることができるのか.

小さな技術のひとつとして「マウス」を考えることができるのではないか.手にすっぽり収まる小さな装置.「カーソル」と結びついて,画面上の位置を示す装置.ヒトとコンピュータとの「あいだ」にあり,身体と密接に繋がり,データとも強く結びついている装置.ヒトとコンピュータ,マウスとカーソルの配置の細部を考えること.手がマウスになり,マウスがカーソルになる.これはヒトからコンピュータへの流れ.カーソルがマウスになり,マウスが手になる.これらはコンピュータからヒトへの流れ.マウスを介して,手がカーソルになり,カーソルが手になる.これはコンピュータが身体を手に入れることを意味する(のではないか?)

身体中心でもなく,データ中心でもなく,その「あいだ」を考えるために,ヒトの側からではなく,コンピュータの側から考える.コンピュータが身体を手に入れることを望んでいて,「小さな技術」によってそれを手に入れたと考えてみる.
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To the extent that this shift involves a turning of sensation away from an "object" and back onto its bodily source, it can be directly correlated with the process of digitization currently well underway in our culture: for if the digital image foregrounds the processural framing of data by the body, what it ultimately yields is less a framed object than an enbodied, subjective experience that can only be felt. When the body acts to enframe digital information ── or, as I put it, to forge the digital image ── what it frames is in effect itself: its own affectively experienced sensation of coming into contact with the digital. In this way, the act of enframing information can be said to "give body" to digital data ── to transform something that is unframed, disembodied, and formless into concrete embodied information intrinsically imbued with (human) meaning. (p.13)

この変化に「モノ」から去った感覚が身体的な源へと帰って行くことも含まれているという範囲において,私たちの文化で現在進行中のデジタル化へのプロセスと直接的に相互関係にある.なぜなら,デジタルイメージが身体によってデータを処理する枠組みを前面化するとすれば,究極的に生じるのは,形づけられたモノよりも,感じることだけができる身体的で主観的経験である.身体がデジタル情報を形づけるように行為するとき,もしくは私が見てきたように,デジタルイメージを作り上げようとするとき,身体が形づけるのは,基本的にはそれ自体である.身体独自の感情的に経験される感覚がデジタルと接触する.この方法で,情報を形作る行為は,「身体」をデジタルデータに「与える」と言うことができる.それは,枠をもたず,身体化もされず,形をもたない何かを具体的な身体化された情報にすることであり,それは本質的に(人間の)意味をもっている.

Once again, however, we must ask after the cost of Manovich's neglect of the tactile aspects of the interface. Put bluntly, Manovich seems to overlook the physical dimension that is at issue in the body's experience of space, regardless of whether the space concerned is actual physical space or a simulated, virtual one. (p.40)

もういちど,しかし,私たちはインターフェイスにおける触覚的側面を無視するマノヴィッチが何を失っているかを考察しなければならない.率直言えば,マノヴィッチは問題となる空間が現実の物理的空間であろうと,シミュレートされた仮想空間であろうと関係なく,空間の身体的経験という物理的次元を見落としているように思える.
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The desire to take what normally falls outside of the scale of human senses and to make it visible and manageable aligns data visualization art with modern science. Its subject matter (i.e., data) puts it within the paradigm of modern art. In the beginning of the twentieth century, art largely abandoned one of its key (if not the key) functions ── portraying the human being. Instead, most artists turned to other subjects, such as abstraction, industrial objects and materials (e.g., Marcel Duchamp, minimalists), media images (pop art), the figure of the artist herself or himself (performance and video art) ── now data. Of course, it can be argued that data visualization represents the human being indirectly by visualization her or his activities (typically the movements through the Net). Yet, more often than not, the subjects of data visualization projects are objective structures (such as the typology of Internet) rather than the direct traces of human activity. (p.7)

通常ヒトの感覚のスケールの外にあるものを取り上げて,それを可視化して扱えるようにするという欲望は,データ・ヴィジュアリゼーション・アートと近代的な科学とを同列にする.例えばデータのような主題がモダン・アートのパラダイムの中に置かれる.20世紀初頭,アートは自らの重要な機能のひとつの(それが唯一でなければ)ほとんどを手放した.それは人間を描くことである.その代わりに,多くのアーティストが抽象,工業製品・素材(マルセル・デュシャン,ミニマリスト),メディア・イメージ(ポップアート)や自分自身(パフォーマンス,ヴィデオアート)などに主題を求めた.そして,今はデータである.もちろん,データの可視化は私たちの活動の可視化によって,間接的に人間を表現していると言うこともできる(とくにネット上で活動に関しては).しかし,しばしばデータ可視化プロジェクトの主題は,人間の活動の直接的な追跡というよりも,インターネットの類型学のような客観的な構造である.
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Rather than being an extension of the human body, the hand becomes a small technology in its own right, with the ability to enter into material combinations with other digital devices and material events to create new possibilities for communication and action. Consequently, the emerging handheld culture is signaling a move in emphasis from traditional, visual software interfaces to the ad hoc interfaces created by gestural objects in material ecologies. (p.xiv)

ヒトの身体の延長と言うよりも,手はその独自の権利で小さな技術になるのだ.それは他のデジタル装置との物質的な組み合わせと,コミュニケーションと行為のための新たな可能性を作り出す物質的出来事の中に入り込めるという手の能力によって起こる.結果として,今出現しつつある手に持つことができる装置が作り出す文化は,伝統的な視覚的ソフトウェアインターフェイスから,物資的環境の中でジェスチャーを用いたモノによって作られる特定の目的のための(その場限りの)インターフェイスへと強調点が移っているこを知らせているのだ.

Like McLuhan, Heidegger makes move from center to periphery, but rather than technology causing effects, it combines with many other elements to create conditions of possibility that suggest potential futures rather than determine them. This combination of actual materiality and virtual potentiality is central to any discussion of methodology and small tech. In our current weightless context, as technologies get smaller and smaller, their materiality is less obvious and their potentiality is more powerful. Consequently, their forms of analysis need to focus on tighter, more detailed constellations and their specific conditions of possibility. (p.xviii)

マクルーハンと同様に,ハイデッガーも中心から周縁へと移動する.しかしそれは技術が引き起こす結果としてではなく,限定するよりも潜在的な未来を示唆するような可能性の状態を作ることが多くの他の要素と結びつくような形である.現実の物質性と仮想的な潜在性との組み合わせは,方法論と小さな技術についての議論で常に中心にある.現代の重さを持たない流れの中で,技術はどんどん小さくなり,物質性はますます見えにくくなる,と同時にその潜在性はいっそう力をもつようになっている.結果として,それらの状態の分析はモノの配置のより細部を見て,それらの可能性の特定の状態に集中する必要がある.

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