「身体|カーソル|イメージ」を補完するためのメモ

.review に書いたテキストのタイトルは「身体|カーソル|イメージ:カーソルが切り替える世界」にした.1万字というのは結構短いけど,1つの考えをまとめるにはちょうどいいのかもしれない.でも,もう少し書こうと思っていたメモがあるので,それをここに書いておこうと思う.テキストを書き終えた後なので,メモを修正しつつ,あとでまた参考にできるメモにするために.
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「身体|カーソル|イメージ」の切り替えを可能にしているのは何なのか? このことを考えるために東浩紀が「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の中で,GUI について論じている箇所参照する.
しかしそこで決定的に異なるのは,目と言葉,イメージとシンボル,仮想現実の虚構性を伝える情報と現実性を仮構する情報とが,ともに並んでスクリーンの上に見出せることだ.インターフェイス的主体は,スクリーン上の文字列や図像(アイコン)を,一方で虚構的イメージとして処理しつつ,他方で現実的シンボルとして処理する.(p. 281)
ケイはある論文で,彼が開発した GUI プログラミング言語(Smalltalk)の目的は,「イメージを操作してシンボルを作る」ことだったと簡潔に表現している.イメージによってシンボルを操作すること --- つまり,スクリーンの上の記号,エクリチュールを操作して「見えないもの」を扱うこと,この単純な発想は,おそらく見た目よりはるかに大きな認識論的な変化を通過している.ラカンは前述のように,イメージをシンボルへ飜訳することだけを考えていた.「見えるもの」を「見えないもの」によって,つまり経験されたもの(現象)を超越論的条件によって基礎づけようとするその企ては,哲学的伝統にきわめて忠実なものだ.しかし GUI の開発者たちはむしろ,見えるものと見えないものとが区別されないスクリーン,イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない「エクリチュール」に満たされた,新たな表面の概念から出発しているように見える.(p. 334)
サイバースペースはなぜそう呼ばれるか in 情報環境論集,東浩紀
すべてが見るものに留まっている GUI では,目と言葉,イメージとシンボルを区別せずに扱おうとしている.けれど,そこにはズレがあるのではないか? このズレを調停するために.ズレをズレでなくてしまうイメージでも,シンボルでもないモノが必要なのだ.私たちが触ることができるイメージでもシンボルでもないモノを画面上にデザインすることが必要であり,それが,←の形をしたカーソル.

←:カーソルは,触ることができるモノであることで,イメージでもシンボルでもない存在として画面上に在り続ける.それは単なるディスプレイ上の点の位置を示す位置座標にすぎない.カーソルによって,私たちの身体は軽々と単なる位置座標へと縮減されて,データの流れの中に組み込まれる.カーソルというモノに触れ,データの流れの中に入り込むこと.データの流れの中に触れるもの.カーソルが,見るだけでも,聞くだけもなく,触れるモノとしてあること.私たちの身体は世界の原点なのではなく,「始点|終点」を示す座標データを選択するモノにすぎないカーソルがつなぐひとつのデータの流れの中にあるものになる.データの流れの切れ目である身体とイメージとをつなぐスイッチとしてのカーソル.

私たちの身体も,ディスプレイ上のカーソルとその他のイメージもそれぞれが独立して存在するのではなく,これらはデータを流すためのひとつの回路の導線を構成する.この回路の中で,これらの3つは位置情報を示し続けるモノにすぎない.カーソルは身体とイメージとを切り替え可能な等価なものにしたが,それはこれら3つの「身体|カーソル|イメージ」がデータの流れをつくる回路の中で,位置情報を示し続けるモノにすぎないからなのだ.

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