発表「テクスチャを透かしてモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D-3D」の振り返り
5月31日(日)に日本映像学会第41回大会で発表した「テクスチャを透かしてモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D-3D」のスライドです.
発表はリアルな僕が京都でやると同時にTwitterでも連続ツイートを設定しておきました.
「テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D」というタイトルで発表します.「モデル=テクスチャ」をつくるアルゴリズムによって,現象が3DCGでコンピュータのなかに再構成された.同時に,世界のモデルをある程度つくって,その表面だけを覆う→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
テクスチャ・マッピングという手法もあった.けれど,マッピングは現象の表面だけを強調してリアリティを得るものであり,本質的ではないとされた.マッピングは世界を解釈することなく,その表面だけを借りてきて,「世界っぽい」「現象っぽい」リアリティを生み出す.→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
テクスチャとなる画像はモデルの表面を包むために3D→2Dの座標変換が行われて歪むことになる.この歪んだ画像のパッチワークでGoogle Earthが生まれた.Google Earthは「現実がテクスチャ=イメージ」で覆われているのではないかというリアリティをつくった.→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
藤幡正樹やレフ・マノヴィッチはGoogle Earthのテクスチャはモデルと密着しているがゆえにあたらしいイメージだと考えた.しかし,ポストインターネット世代の作家たちは,Google EarthやGoogleストリートビューの影響から,インターネットに"物質”のリアリティ→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
を感じるようになった.ポストインターネットでは,ネットとリアルとの区別を特に意識しないとなっているが,逆に,区別を意識しないほど密着したネットとリアルに対してちょっとした操作を加えて,その隙間に「インターネットっぽさ」を感じるような奇妙なリアリティをもった作品がつくられはじめた→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
谷口暁彦はネットとリアルとの間の操作で「奇妙なリアリズム」が生まれるとしているが,ポストインターネットでよく用いられる3DCGのモデルとテクスチャの間を操作することでもそれは生まれるのではないだろうか.テクスチャという画像を「物質」のように捉える感覚/扱える操作がでてきている
→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
モホリ=ナギが言った非物質化の先にあるものを,藤幡はナギの考えに沿ったプロジェクション・マッピングに見出す.対して,谷口は「彫刻的」な考えでネットワークやインターフェイスという目に見えない非物質的存在を捉えるための習作を発表する http://t.co/2K4wlLtSt8→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
谷口は従うべき3Dモデルをもっていない「見えないもののテクスチャ」とも言えるものをつくる.そのテクスチャは画像の「伸び」や「歪み」をそのまま見せることで,「物質っぽく」液化・硬化したものである.そして,液化・硬化したテクスチャは「モデル」の存在を透かし見せる→
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
テクスチャを液化・硬化させる実験のなかで,谷口はモデルを前提としない現実世界にはなく,コンピュータ・ネットワーク・インターフェイスといったものだけがもつ理念的なテクスチャを抽出し,そのテクスチャを透してはじめて見える「見えないもの」とそれを取り巻く空間を示す.
— mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 5月 31
発表後の質疑応答ではふたつの質問を受けました.ひとつは「谷口さんとポストインターネットとの関係が明確ではないので,詳しく説明してください」というものでした.自分のなかで谷口さんとポストインターネットの関係は自明なものだったので,とても戸惑いました.「日本でポストインターネットの作家といえば谷口さんなので取り上げました」と全く答えにならない答えをしてしまいました.冷静に考えてみると谷口さんの作品の「見かけ」はポストインターネットの他の作品,特にスライドで見せた「post internet」という語での画像検索の結果とは全く異なるものがあります.
発表を終えて,次の人の発表を聞いているときに先の質問への返答は「もともと発表で取り上げる予定だった.クレメント・ヴァッラとジョン・ラフマンの作品を見せて,谷口さんとポストインターネットとの関係を言えばよかったのではないか,と考えました.谷口さんの作品の「テクスチャ」の液状化・硬化の質感は,ヴァッラのGoogle Earthの作品で行われているテクスチャを布[テクスチャ]にプリントする「テクスチャ on テクスチャ」がつくるテクスチャの「物質感」や,ラフマンの近代絵画をテクスチャにして3Dモデルに貼付け,それをリアルに再現する作品の「物質感」およびそのテクスチャの独特な質感に通じているからです.これらの共通する特徴から,谷口さん,ヴァッラ,ラフマンを取り上げたのでした.この重要なことを質疑応答では言えなかった.
もうひとつの質問は,発表の最後で「テクスチャ」から「モデル」の話に移るが,今まで物質的な扱いを受けてこなかった「テクスチャ」が「物質化」することを指摘して終わったほうがスッキリするのではないだろうか? というものでした.
この質問に関しては,確かにその通りかもしれないと考えました.発表後にご飯を一緒に食べに行く際にも「テクスチャ」の物質化は「新しい唯物論」にも通じるかもしれないという指摘をもらいました.「新しい唯物論」のことはまだ勉強していないのでわからないのですが,谷口さんやヴァッラ,ラフマンらのポストインターネットの作家の作品にはテクスチャとモデルとのあいだの齟齬・緊張感が示されているので,そのときに考察からモデルがなくなってしまうのはマズイ感じがしています.たとえスッキリしなくても,テクスチャからモデルを透かし見ることが必要で,その結果して,モデルがなっくなっているのかもしれないということはいいのですが,最初から「テクスチャの物質化」で終わってはどうもいけない気がしています.スッキリしなくても,そしてその結果不格好になったとしても考察を続ける必要があります.
まずは,今回の発表で得られた考えで谷口さんの個展「滲み出る板」を考察してみたいと考えています.そのあとで,谷口さんとエキソニモの「Photoplasm seires」を対比できたらなと思っています.「情報」と「空間」,「情報」と「身体」の境界とそこの立ち上がってくる隙間について考えることになりそうです.