思い過ごしているうちに12時をすぎてから幽霊のことをメタマテリアルというとそれがデフォルトなのかハッキングなのかわからなくなる

iPadでカメラアプリを立ち上げる.ディスプレイが世界を映す.世界がフレームで切り取られる.
ガラスのコップの棒が屈折で歪んで見える.それは単に歪んで見えているだけで,棒は曲がっていない.
iPadのフレームで切り取られた世界が歪んだだけで,実際の世界は歪んでいない.
本当にそうなのか? 世界も歪んでいるのではないだろうか? 
世界は歪んでいない.でも,歪んでしまう.

磨りガラスで外が見えなくなっている展示室.磨りガラスに黒のiPadが張り付いている.そこには「映像」が表示されている.遠くからみると,それは外の風景を表示しているように見える.近づいてみて,それが外の風景だということを確認する.単にiPadのカメラアプリでその風景を表示しているように見える.少しおかしい感じもする.磨りガラスで外は見えない.iPadだけが外の様子を表示している.外の様子を映していると思われる映像と磨りガラスが示す外の世界の明るさは対応しているような感じがする.しかし,磨りガラスで外の様子は見えないから,iPadが外の様子をリアルタイムで表示しているのかを確かめることはできない.さらに近づいて見れば,iPadのフロントカメラのレンズの位置に合わせて磨りガラスに穴が空けられているのを確認できる.だから,やはり,iPadのカメラアプリがリアルタイムで外の様子を表示しているにちがいないと思う.しかし,磨りガラスで囲まれた室内からiPadのレンズがとらえている世界を見ることはできない.iPadのカメラアプリだけが外の様子を表示している.カメラアプリが外の様子をリアルタイムに表示していると思っていても,磨りガラスに貼り付けられたiPadが表示しているフレーム内の映像は,レンズの前の世界から切り離されているような感じがする.iPadのフレームには歪んだ世界が表示されているのかもしれない.でも,世界は歪まないし,iPadのカメラアプリも世界を歪めてはいない.けれど,磨りガラスに貼り付けられたiPadのカメラアプリが外の様子をリアルタイムに表示しているという状況が「歪み」を引き起こすということは否定できない.「歪み」だけがiPadのフレームのなかにあるのかもしれない.


《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》と幽霊がでてくる

ICCの「オープンスペース2014」の展示のために,谷口が連作《思い過ごすものたち》につけ加えた新作について考えていると,彼の2010年の作品《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》を思い出す.同じくICCで2012年に開催された「インターネット アート これから」展に出品されたこの作品は,次のように紹介されている.


アナログの壁掛け時計と,その同じ時計が映像として映し出されているモニターが隣りどうしに並べられています.映像の方の壁掛け時計は12時間撮影されたもので,その映像の中の時計の示す時刻は,実際の時計が示す時刻と同じ時刻を示すようにプログラムで制御されて再生されています.ネットにおける擬似同期性とおなじく,映像として記録された時計は,現在の時刻と擬似的に同期することによって,再帰的に重ね合わされた現在が再構成された「幽霊」としての時計ともいえます.撮影時に同時に記録された現場音はそれをさらに強調するものになるでしょう. 

ふたつの時計のあいだで,ニコニコ動画を分析する際に濱野智史が用いた「擬似同期」が起こる.ニコニコ動画の特徴となっている映像に重ねられた字幕が特定の時刻で現われるために,ユーザが異なる時間に映像を再生しても「特定の時刻」を共有できるため,あたかもみんなでその動画を同時に見ているような気分になれる.それと同じようなことが《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》で起こっているという.確かに,この作品を見ているときに,現在ではない「現在」の存在を常に感じる.それは映像として映しだされている時計がかつて存在していた時間である.鑑賞者が見ている現在と映像の時計が示している「現在」が重なり合って,とても奇妙な感じがする作品である.ただこの作品が示す「奇妙さ」はそれだけはないような気がしている.「擬似同期」はトリガーにすぎないのであって,そこからさらに奇妙なことが起こっている感じがする.

その「奇妙さ」は「幽霊」という言葉につながるだろう.作品を見てない人にとっては説明のなかに「幽霊」という唐突に出てくるような感じがするが,作品を見てみるとこの言葉は納得できる.そして,「擬似同期」という言葉よりも「幽霊」という存在の不確かさを示す言葉のほうがこの作品にはしっくりくる.「擬似同期」は「幽霊」を呼び出すトリガーでしかないような感じがある.もともとこの作品は「人は霊感が上がると幽霊が見えるようになると言われている.下記の条件を踏まえて,"幽霊"をつくりなさい」という課題に対してつくられている.「下記の条件」は次のようになっている.

コンピュータとネットワーク,それぞれに関連する技術を用いること
記号としての"幽霊"を描くのではなく,その存在を表現すること
あらゆる人間の生命活動を脅かさないこと
"神"と"ゾンビ"はつくらないこと

この課題は谷口が渡邉朋也と行っている「思い出横丁情報科学芸術アカデミー」での連載「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー:第2回『たにぐち・わたなべのスーパーマイルドセブン』」で出されたものである.課題は「3種類のマイルドセブン」に対する考察から導かれている.「3種類のマイルドセブン」は,

完全なマイルドセブン(実在のマイルドセブン)
不完全なマイルドセブン(絵画の中のマイルドセブン)
想像の中のマイルドセブン(絵を見たことで立ち上がったイメージ)

という3つである.谷口と渡邉はこれら3つのマイルドセブンの差異をそれぞれ考察していくのだが,それは彼らのテキストを読んでもらうとして,ここでは彼らが提起した「完全な◯◯」「不完全な◯◯」「想像の中の◯◯」を使って,《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》を分析してみたい.


3つの時計+もうひとつの時計=幽霊

「完全な時計」として展示室に実在するリアル時計があり,その横に「不完全な時計」として映像の中の時計がある.これらふたつの時計は同期していて,同じ時刻を示している.ふたつの時計が同期していることに気づいた人は,映像の中の時計を見てもリアル時計を見るのと同じように時刻を知ることができる.映像の中の時計は「不完全な時計」としてそこにあり「かつてあった時刻」を示している.そして作品解説にもあるように展示会場で再生されている「撮影時に同時に記録された現場音」によって,映像の中の時計が「かつてあった時刻」と結びついていることが強く示されている.にもかかわらず,映像の中の時計はリアル時計と同期することで,「リアル時刻」を示すという「時計」としての機能を果たすようになっている.

映像の中の時計がリアル時計と同期してリアル時刻を示すことによって,「かつてあった時刻」を示す「不完全な時計」は消滅する.だが,映像の中の時計は存在し続けて時を刻み続ける.映像の中の時計が示している時刻は,リアル時計との同期後は「かつてあった時刻」ではなくリアル時刻になり,リアル時計と映像の中の時計の「擬似同期」が消滅する.しかし,「かつてあった時刻」という存在はなくなることがない.それは「想像の中の時計」とともにその存在を立ち上げる.リアル時計と映像の中の時計という視覚情報からではなく,「撮影時に同時に記録された現場音」という聴覚情報から「想像の中の時計」が立ち上がり,「かつてあった時刻」もその想像のなかで再生され,リアル時計と擬似同期する.その時,「想像の中の時計」は映像の中の時計として目の前に展示されている「不完全な時計」と重なり合い,さらに「完全な時計」としてのリアル時計と同期している.リアル時計と映像の中の時計と想像の中の時計という3つの時計が重なり合う.

《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》では,「完全な時計」「不完全な時計」「想像の中の時計」がすべて同期して,「不完全な時計」が「幽霊」のような不確かな存在になっていくようにみえる.しかし,「不完全な時計」は映像の中の時計として確かに存在するものであるから「幽霊」とは言いがたいところがある.この作品にはもうひとつの時計が存在する.それこそが「幽霊」だと考えられる.それは,リアル時計と映像の中の時計の同期をズラす「想像の中の時計」である.その時計はふたつの時計をしばらく見ている人が抱く「ふたつの時計はいつかズレるはず」という期待や「ふたつの時計はいつかズレるのでは?」という疑問のなかに出現する.視覚情報から立ち上がる「完全な時計」と「不完全な時計」でもなく,「撮影時に同時に記録された現場音」という聴覚情報から立ち上がる「想像の中の時計」でもなく,これら3つの時計がつくる「同期」という状況から逃れようと立ち上がるもうひとつの「想像の中の時計」がある.この時計はリアルな存在になりそうでならないギリギリのところに存在し,見る人の想像のなかだけに立ち上がる「幽霊」なのである.


iPadに捕獲された怖くも不思議でもない幽霊

《思い過ごすものたち》につけ加えられた新作は,《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》で意識に立ち上がった「幽霊」をiPadのフレームで捕獲して,そのディスプレイに表示している.「幽霊」はiPadに表示されているのが当たり前といった雰囲気で,怖くもなければ,不思議でもない.しかし,iPadのディスプレイに映っているのは紛れもなく「幽霊」なのである.

《思い過ごすものたち》の展示室は磨りガラスで覆われている.磨りガラスが窓の外に広がる「完全な世界」を不透明な見え方の「不完全な世界」へと変換する.「完全な世界」と「不完全な世界」とを重ね合わせた状態にする磨りガラスに1台のiPadが貼り付けられている.iPadは磨りガラスに空けられた穴から「完全な世界」を撮影している.そのリアルタイム映像は「完全な世界」からは程遠い劣化した映像であり,それもまた磨りガラスを通した世界と同じ「不完全な世界」なはずである.iPadが表示する映像が高解像度になったとしても,そこに映っているのが「不完全な世界」だと思うだろう.「完全な世界」がiPadというフレームのなかに収まるわけがないという当たり前の考えが,映像が高解像度になればなるほど強く作用する.同時に,高解像度になればなるほどiPadで「完全な世界」を直接覗いているようにも思われるだろう.なぜなら,磨りガラスに「iPad」という薄い板が張り付いている状況が,iPadをカメラのファインダーのように機能させて,ファインダー越しに「完全な世界」を直接見ているような感覚をつくりだすからである.iPadはその映像の解像度に関係なく,磨りガラスに貼り付けられたという状況から「完全な世界」と「不完全な世界」のあいだを行き来する映像を表示し続ける.

いや,磨りガラスで囲われた展示室から「完全な世界」は見えないのだから,iPadが表示している映像がガラスの向こうの世界なのかが,そもそもはっきりしていないともいえる.磨りガラスの向こうは見ることができないのだから,それは想像の中にしかない世界である.磨りガラスに密着させられたiPadが示す映像を見たときに,ガラスの向こうの「想像の中の世界」が一瞬立ち上がるが,それは瞬時に覗き見ている「完全な世界」か,iPadのフレームに区切られた「不完全な世界」に移行してしまう.そのあとはiPadの低解像度の映像を「不完全な世界」と見なして,窓の外を想像しようとすると,iPadは即座に窓の外を覗いて「完全な世界」を示す映像となり,その映像を見ているとそれはやはり「不完全な世界」であり,窓の外を想像しようとすると… の繰り返しになり,磨りガラスの向こうを「想像の中の世界」として立ち上げることが阻害され続ける.磨りガラスに貼り付けられたiPadの映像を見る人は延々と「完全な世界」と「不完全な世界」を行き来するだけ,「想像の中の世界」には行くことができないのである.

磨りガラスの向こうの世界はリアルな存在と思えば,それはすぐに不確かな「幽霊」のような存在になり,それがさらにリアルな存在へと移行する.磨りガラスに置かれたiPadのディスプレイで起こる「完全な世界」と「不完全な世界」という状態遷移の繰り返しが,「想像の中の世界」の立ち上がりを阻害する.磨りガラスの向こうを想像できないまま「完全な世界」と「不完全な世界」とが入れ替わり続ける.《思い過ごすものたち》に追加された新作は「完全な世界」と「不完全な世界」の入れ替わりという「幽霊」的な運動を示すが,それを「幽霊」という存在として想像することができない状況をつくりだしている.それゆえに「iPad」の存在だけが認識される.しかし,《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》で想像の中に立ち上がった「幽霊」は,「iPad」という怖くもなく不思議でもないデジタルガジェットのディスプレイに映っているのである.谷口は「iPad」を適切な状況に置くことで「幽霊」を捕獲したのである.


ハッキングとデフォルトをつなぐメタマテリアルな幽霊

ベルリン在住のアーティスト,Timur Si-Qinは「Metamaterialism」というテキストを書いている.そのなかで,60年代のコンセプチャルアートは仮想的なものを非物質的に扱っていたのに対して,現在は仮想的なものを物質的に扱うようになっていると指摘している.そして彼は,ボードリヤールが言うシミュラークルはリアルなものだとして,それらは「リアルヴァーチャル」だと主張する.Timur Si-Qinがこのように主張する背景にはシミュレーションをひとつの実在として考えるマニュエル・デ・ランダのシミュレーションの哲学や複雑系科学がある.だが,それだけではない.谷口が《思い過ごすものたち》で扱っている,そして,Timur Si-Qinも使っていることは間違いがないiPadなどのあたらしいデジタルガジェットも影響を与えている.ハードとソフトが密接に結びついたあたらしいモノが次々に出てきている.それらはこれまで非物質的に考えられてきたことを物質的に扱えるようにして,「リアルヴァーチャル」を体現するモノなのである.Timur Si-Qinはインタビューで次のように言っている.

デジタル時代はデジタル・マテリアルがフィジカルな物質と同じようにあり,振る舞うということ,そしてその逆もあるということを私たちに教えてくれています.物質やリアリティがプログラム可能といったことであり,それは「すべてがハック可能」といったことです.そうしたことから私たちの世代に起こっていることは物質性の概念の拡張が起こっています. 

物質性の概念が拡張されハッキング可能になったと,Timur Si-Qinは言う.ならば,「幽霊」もハッキング可能になったと言えるだろうし,実際,谷口は「幽霊」をハッキングしている.谷口の《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》は,時計という古くからあるモノの機能をハッキングして,見る人の想像の中に幽霊を呼び出す.今回は追加された新作しか考察できていないが,《思い過ごすものたち》はiPadやiPhoneが示す「薄い板」という物質性をハッキングすることで,そのモノ自体に「幽霊」を呼び出している.前者の見る人の想像の中に「幽霊」を呼び出すことはこれまでのアート作品にも前例があるだろう.しかし,iPadやiPhoneに「幽霊」を召喚することは前例がないのではないのだろうか.谷口やTimur Si-Qinのように物質を「ハック可能」と考えるような態度から,あたらしい「幽霊」が生まれてきているのかもしれない.

Timur Si-Qinのテキストを経由して谷口の作品を考えたのは,谷口の作品が欧米の同世代(谷口は1983年生まれ,Timur Si-Qinは1984年生まれ)とつながっていることを確かめたかったからである.最後に,谷口自身の言葉から「物質のハック可能性」とそこから生じる「幽霊」を考えて,この論考を終わりにしたい.谷口は彼がMV担当した実験音楽家のHolly Herndonとの対談で次のように述べている.

学校で教えている時に,なるべく短いコードで効率的に仕事ができるのが優れたハッカー(コンピューターに対する深い知識と,卓越した技術を持 ち合わせた人のこと)で,究極的には一行もコードを書かないハッカーが一番優れているハッカーなんだということをよく話すんです.僕の作品に,《思い過ごすものたち》 (2013~)といういくつかの作品を組み合わせたインスタレーションがあるのですが,その中にメモ帳のアプリを起動させたiPadの上に水を落とし,iPadに文字をタイプさせるという作品があるんです.でも,コードは1行も書いていないんですよ.すべてiPadのデフォルトの機能だったり,その物質的な特性を使っているんです.そういう考え方が “ハッキング対デフォルト" の間をつなぐものにもなりうるのかな,と最近思っています. 

谷口はガスリー・ロナガンの「ハッキング対デフォルト」を持ち出す.「ハッキング対デフォルト」は初期のネットアートがブラウザーやソフトウェア,さらには社会概念にまで「ハッキング」をするような態度で作品をつくっていたの対して,現在のネットアートはパソコンにもともとある「デフォルト」の機能を使った作品をつくっていることを示している.谷口はこの対立の「デフォルト」をソフトウェアだけなく「物質」にまで拡張して,作品制作に応用している.この谷口の態度自体はとても「ハッキング」的である.谷口は「物質」としてのiPadやiPhoneの性質を追求していく.しかし,その際にモノ的な要素だけではなく,ソフトウェアのデフォルト機能が含まれている点が重要である.iPadやiPhoneなどのデジタルマテリアルはデフォルトのソフトウェアも含めてひとつのモノなのである.このような観点からデジタルマテリアルを分析して,それをモノとして置いていったのが連作《思い過ごすものたち》ということになる.そこで谷口はコードを書いていないが,置き方でモノを「コーディング」しているといえる.谷口は展覧会「マテリアライジング:情報と物質とそのあいだ」のインタビューで次のように話している.

そこではあり合わせのモノで何とか問題を解決しているのですが,モノがもつさまざまな特性,機能が,ある目的解決のために貫かれて構成されています.これはまさにプログラミングにおけるオブジェクト指向です.いささか倒錯していますが.最近は,そのような物質同士の機能や共有や連なりを,低レベルの知性や思考として捉えるということを考えていて,この問題を作品として制作したいと思っています.(p.54) 

すべてのモノがプログラム可能だと考えることがデフォルトになっている現在,いかにモノを置いていくのか.その際にモノをデフォルトで使うのか,それともハッキングしていくのか.これらを考えていくことで「メタマテリアル」で留まることなく,さらにメタマテリアルに「幽霊」を召喚できるはずである.谷口の《思い過ごすものたち》はiPadとiPhoneというデジタル・マテリアルをいかにリアル世界に置いていくかを考察した作品なのである.そして,その置き方によって,メタマテリアルに「幽霊」が現れたのである.

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