コンピュータとまな板:ヒトは「初期値」を忘れても処理を遂行できる

昨日は京都のメディアショップにマテリアライジング小作品展 in Kyoto を見に行って,トークイベント「情報と物質とそのあいだについて」を聞いた.ふたつとも自分にとってとても興味深いもので,思考をドライブしてくれるものだった.その思考のドライブの結果がこのテキストなので,ここには展示のことも,トークのこともほとんど書いていません.

谷口暁彦さんが言っていた「グリッチは初期パラメーターがちがうだけ」というのは面白いなと思った.初期値がちがえば,その後の処理で出てくるものがちがうのは当然であって,しかも,その処理の結果が見えているということは,処理がうまくいっているのだから,それはデータが「壊れている」ことにならなくて,単に初期値がちがうから結果もちがうということになる.初期値のちがいでしかないものものを「グリッチ」と呼ぶのは,そう呼ぶことがヒトにとって都合がよいからでしかない.コンピュータは与えられたパラメーターを適切に処理しているにすぎない.「にすぎない」と書くのもヒト中心主義的な感じがするから,「処理する」とだけ記述するのがいいのだろう.しかし,「にすぎない」と書いてしまう感覚も重要なように思える.

谷口さんは「ファイルを開くことがシミュレーション」と言っていたけれど,与えられた値からひとつの状態をつくりだしているのだから,これはシミュレーションと呼べるのではないだろうか.コンピュータの状態を決定するシミュレーションを,私たちは1日に何千−何万回も行い,その結果をディスプレイで見ている.その行為のひとつに「ファイルを開く」と名づけている.「ファイルを開く」という処理をひとつの行為として遂行できるコードを書いてくれた人がいたから,それはコンピュータ操作で簡単な行為になっている.誰かが「ファイルを開く」という行為を決定してくれたから,私たちはその行為を実行できるようになっている.

コンピュータ内での行為をあらたにつくることは,コンピュータの状態を組み替えて,そこにヒトの行為を組み込むことになる.コンピュータの内部の状態を決定し,それと同じくコンピュータの外のヒトの行為も決定される.コンピュータが有限状態装置であるがゆえに,コンピュータをコンピュータとして扱うときのヒトの行為は有限になる.しかし,コンピュータをモノとして扱えるようになったとき,それはもともとモノであったのだけれど,ヒトが今のように持ち運びができて,壊れても買い換えられるといった心持ちになれるような状態になったという意味で日用品のよう扱えるようになったとき,ヒトがコンピュータに対して行う行為は変化する.ヒトがコンピュータに対して遂行する行為の状態はコンピュータの有限性を超えでることになる.有限状態装置としてのコンピュータではなく,単にアルミであったり,プラスチックであったり,光ったり,薄かったりするモノになる.そのようなモノとしてのコンピュータを用いた行為をあらたにつくることは,コンピュータ内であらたに行為をつくることと同じなのだろうか.コンピュータ内の状態は有限であるが,コンピュータそれ自体がある現実の状態は定義できない.そのような環境のなかでコンピュータを扱う場合には,そのモノとしてのコンピュータのパラメーターを有限の数の状態にする必要がある.それはコンピュータをモノとして定義して,別モデルのコンピュータつくることである.ヒトがコンピュータをコンピュータとして定義したのと同じようにヒト中心的主義でコンピュータを再定義しているにすぎない.


モデル化して世界を捉えることは,ヒト中心に世界を捉えることになる.言語は「コンピュータはコンピュータ,まな板はまな板」として世界をモデル化して捉えていく.ヒトの理解を超えたような現象には「説明文」「解説文」などの言語がつけられる.言語がないと,現象を理解できない.マテリアライジング展には多くのテキストがつけられ,多くの言葉が語られる.その行為は,ヒトを超えた存在を再びヒトのもとに置こうとする試みである.しかし,マテリアライジングが展示を繰返し行っていることは,ヒト側に置いた現象を,もう一度,ヒトを超えるものとして提示することかもしれない.そのような繰返しのなかで「コンピュータはまな板」という現象がでてきて,ヒトはそれを「コンピュータはまな板」と記述する.そのとき「コンピュータはコンピュータ」という記述は忘れられていないかもしれないし,忘れられているかもしない.もし「コンピュータはコンピュータ」という記述が忘れられた状態で「コンピュータはまな板」という現象が生じたとき,ヒトはコンピュータを用いたあらたな現象とそこに至る行為を身につけられる道筋を見出すのだろう.なぜなら,ヒトはそれが「コンピュータであった」ことを忘れているのだから.ヒトの忘れるという能力がコンピュータをあたらしいモノとして捉えるための突破口になる.ヒトは「初期値」を忘れても処理を遂行できる.ヒトが目の前のコンピュータの有限状態を忘却しながら,その有限状態が遷移していく思考に基づいて「コンピュータ」を再定義できたとき,コンピュータはコンピュータではなくなり,あたらしいモノになる.

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