ゴットを信じる会《告白》について考えたことと,これからエキソニモとゴットのどちらを探るのだろうか?

トークで,ゴットを信じる会の会員であり,「ゴットを、信じる方法。」展のキュレーターである中川恵理子さんが《告白》は私たちへの問いかけによって,私たちのなかにゴットが生まれると言っていたのが興味深かエキソニモの「ゴットは、存在する。」は,私たちに明確な問いかけはない.それは,インターフェイスが私たちの身体=存在の代理となったいるので,私たち=ヒトがそこに必要としないことを示しているからであろう.しかし,ゴットを信じる会の《告白》は,私たちを必要とする.そこが「ゴット」をめぐる大きなちがいであり,この10年間でのインターフェイスのちがいも含まれているような気がする.



けれど,ここでゴットを信じる会がゴットに半信半疑だったことも考えなくてはいけないだろう.マウスとカーソルとの連動の感覚を全面的に内面化していた人たちにとっては,エキソニモの《祈》を見ることはシャーマンの儀式を見ることに近い.そしてそれは,信じるも信じないもなく,アニミズムが活きている状態なのである.カーソルという画像を依代に起こるアニミズムの形態であり,それは信じるも信じないも,そこで実践されている儀式なのである.だが,《告白》においてはもはやアニミズムは活きた状態ではない.いや,マウスとカーソルによる儀式を見るいった他人事ではないものになっていると言えるだろう.《告白》では,見る者自体がシャーマンとならないといけないのである.ここでは傍観者のままゴットを感じることはできない,当事者にならなければならない.




マウスとカーソルといった依代的インターフェイスが,タッチパネルというよりダイレクトなインターフェイスとなり,私たち自身にシャーマンとなるように要請するのである.私たちは,ゴットを信じる信じないにかかわらず,よりゴットに近くになっているのかもしれない.だが,それゆえに,私たち自身がゴットを受け入れるのかどうか問われていると言えるだろう.私にはわからないが,きっと,ここにはインターフェイスをめぐる一つの変化があるはずである.

と,ここまで書いてきたのだが,私は《告白》を見ているときに,ゴットを感じることができなかった.私はゴットを感じるのに「依代」を必要としているのであり,自分自身が依代になれるほどには,ダイレクトにゴットを受け入れられていないのかもしれない.私はあくまでもゴットが召喚される儀式を見る立場の人間なのであろう.


ということをnoteに書いたのであるが,展示全体についても書いてみたいと思う.




「ゴットを、信じる方法。」では,ゴットを信じる会ではなく,エキソニモが目立っていた感じがる.それは「エキソニモ」という存在を考えたときには,仕方のないことではなると思う.しかし,「エキソニモ」という名前がネットの検索にかからない言葉として選ばれたことを考えると,「エキソニモ」が検索に引っかかる前の状態を考えてもよかったかもしれない.

インターフェイスにおける「ゴット」の存在を全面に出して展覧会を構成してもよかったかもしれない.私自身は「作品」にしか興味がない人間であり,展覧会全体について何かをいう立場にはないかもしれない.けれど,エキソニモを匿名の存在にして,ゴットを信じる会が,ゴットを信じることができたかどうかのプロセスをもっと明確に示すとよかったのかもしれないという気はしている.






トークの前に中川さんが見せてくれた,ゴットを信じるための作品の試作・スケッチを展示して,過去にゴットを体験していない人たちが,いかにゴットを信じよう,ゴットを召喚しようとしている様子を展示しても,面白かったと思う.この過去のゴットを体験していないゴットを信じる会が,どうにかしてゴットにたどり着こうしている感じは二階の資料展示に出ていた.ゴットは体験していないものとして空白であって,その周囲を埋めていくという感である.


だとすると,1階で「エキソニモ」を出してしまったのが問題だったのかもしれない.エキソニモもゴットとともに空白の存在として扱うと,「ゴットを、信じる方法」を観客に共有できたのかもしれない.ゴットを信じる会はエキソニモと通じているけれど,観客はエキソニモと通じていない.この非対称性を問題にしないためには,ゴットを展示の中心にする必要があったと思われるのだが,こう書けるのはゴットの存在を疑うこともない狂信者としての私だからであり,ゴットの存在を最後まで確信するまでにはいかなかったゴットを信じる会にとっては,エキソニモこそが信じる対象だったのかもしれない.

と書いたところで,私もゴットではなく,エキソニモを信じているのかもしれないと思ったのであった.そうではない,私はゴットを信じていると言っても,頭の中にはエキソニモが入ってくる.だとすれば,私とゴットを信じる会とは同じ穴のむじなであり,ともにエキソニモ狂信者なのかもしれない.しかし,それでもエキソニモからどうにか自分を引き剥がし,ゴットそのものを探し求めたいと考えるのが私であり,ゴットを信じる会,中川さんだろう.私はこれからもエキソニモを透してゴットを探っていきたいと考えているが,中川さんはエキソニモを探るのだろう,それとも,ゴットを探っていくのだろうか?

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