「短絡のスイッチ」が押された後の「有限/無限」

2月13日に日本映像学会中部支部2013年度第3回研究会・特別企画トークセッション「幸村真佐男の情報と芸術」で「ポスト・インターネットのなかに「幸村真佐男」を置いてみる」という発表をしてきました.

幸村真佐男さんはメディアアートの歴史をめぐる記述には必ず登場する「CTG」のメンバーで,まさにコンピュータとアートをむすびつける「レジェンド」です.幸村さん本人を前にしての発表,そして私の次の発表者が指導教官であった茂登山清文さんという状況はかなり緊張しました.そんななかでの発表は,「歴史」のなかに「幸村真佐男」を置くという作業は多くの人がやってくれていると思うので,思い切って,今のネットをめぐるアートの状況に「幸村真佐男」を置いてしまおうというものでした.

また,発表を打診されたメールを読んでいて,

幸村先生の作品は[昔−最近]では区分けできないのではないかと思いました.
それは継続してずっとやっている作品が多いということもあるし,
この前の幸村先生の4つの個展と講演から感じたのですが,
作品が「人格」的なのかなーと考えた次第です.
「人格」的ってなんだ,という話しですが… こんなことで30分話せるのかは不安ですが…

ということを思った点も今回の発表につながりました.でも,発表は「ポスト・インターネット」な状況のなかでの作家紹介になってしまった感が強く幸村さん自身に結びつけることが難しかった.ましてや「人格」的という話までは全く考えられなかったです.

ただ発表のあとに幸村さんと茂登山さんの応答を聴いていたときにデジタルワールドを巡る「有限/無限」という言葉の捉え方がどこか,私の感覚とは異なるところがありました.幸村さんはアートはデジタル化されると「有限」 な存在なると言っていました.それに対して,茂登山さんも何かを切り返していたのですが忘れてしまいました.でも,何かふたりのやりとりのあいだで交わされる「有限/無限」という言葉が,どこか手の届かない感じとともに,その言葉に多くの意味を負わせているような感じがしました.

私が感じていた「有限/無限」というのは,何かもっと軽くて,ネットにはごろごろとあって,そのような言葉自体を考えないというものでした.この感覚のちがいを考えていたときに,佐々木敦さんの「未知との遭遇:無限のセカイと有限のワタシ」を思い出しました.佐々木さんは音楽でも文学でも,それらの歴史は有限なものなのに,近頃の若い人ははじめからその「すべて」には到達できない「無限」なものだと思ってしまうと書いています.そのような認識の原因を,佐々木さんはそれはGoogleに代表されるインターネット検索に求めます.

現在の「すべての把握の絶対的困難」は,時間が沢山流れたせいで数多の出来事,すなわち「歴史」が「堆積」してしまったから,というよりも,どこかのタイミングで,「すべて」イコール「無限」,という短絡のスイッチが押されたからなのではないか,と僕は考えています.そしてまた,そのイコールを「絶対的困難」と感じてしまうような心性が,それ以降,刻々と醸成されていったのではないかとも思うのです.これが,先ほど述べた”根っこ”ということです.
では,そのタイミングとはいつなのでしょうか? 僕の考えでは,それはかなりはっきりと示すことができます.端的にいって,それはGoogleに代表されるインターネット検索が広がってきてからだと思います.(p.23)
未知との遭遇:無限のセカイと有限のワタシ,佐々木敦 

ここで佐々木さんが指摘している 「「すべて」イコール「無限」,という短絡のスイッチが押された」というGoogleなどの検索により早くから触れ始めた世代というのがポスト・インターネットの作家たちだと思います.佐々木さんは「短絡のスイッチ」と言っているようにこの問題を解きほぐして,じゃあ今,このスイッチを押さないためにはどうしたらいいのかということを本で書いているのですが,私がこれまで考察の対象としてきた作家は逆に「短絡のスイッチ」を押したあとにどんな表現がネットでできるかということを考えているのではないかなと思っています.それは「すべて=無限」だからこそ,そこにどんどん作品やアイデアを放り込んで好き勝手に流通させていくような感覚でしょうか.

ここでトークで感じた「有限/無限」への違和感に戻ると,幸村さんや茂登山さんが話していた「有限/無限」は「短絡のスイッチ」が押される以前のものなんだと思います.でも,今,私が実感をもって感じられるのは「短絡のスイッチ」が押された後の「有限/無限」なのかなと思います.しかも,「短絡のスイッチ」を否定するのではなく,肯定したなかで表現をどのように行っていくのかということです.Googleはそこにあるし,10行程度のプログラムで可能な無限のような膨大な数の画像をひとつひとつネットに上げることもできてしまうなかでの「有限/無限」を考えることが必要なのかなと思います.それは矛盾しているようですが,「有限/無限」をインターネットやコンピュータを考えるためのフレームとして用いないことなのかなとも思います.「有限/無限」といった言葉を起点にするのではなく,ウェブページを延々と下にスクロールしていく感じや.次々と関連動画を見続けてもさらに関連動画を提示していくYouTubeになかばうんざりしながら「有限/無限」にぶち当たるということでしょうか.それはインターネット体験していくなかで「有限/無限」を「感じる」ということから,それらを考えるということなのかもしれません.

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