ucnvさんのアーティストトークとともに考えた「サンプル」と「顕在化」
ucnvさんのトークをICCで聞きました.ICCのオープンスペース2013で展示されている《Tab. Glitch》をずーっと見ていると,何を見ているのかわからない状態になっていたのですが,トークを聞いてその謎が自分的に解けてきたような気がしました.それは,僕は「写真」とか「画像」という形式・メディアにとても引っ張られているなということです.
《Tab. Glitch》はグリッチした「画像」がプリントされた「写真」状のものが整然と並べられています.どれも「グリッチ」されたと感じられる「画像」であり「写真」です.「画像」「写真」という言葉を使った時点で,そこに「オリジナル」を探したり,どれも「コピー」なのかなと思ったりします.また「グリッチ」という言葉から,今見ている「画像」なり「写真」なりの「下」というか,ここには見えていない「文字列」の操作がこの今見えているものをつくりだしていると考えてしまう.
もちろん目の前にあるものは「画像」であったもので,それをプリントした「写真」みたいなもので,そこに写しだされているものには「グリッチ」という名前が与えられているのだけれど,ucnvさんとゲストの谷口暁彦さんの話を聞いていると,それはほんの少し違うように思えてきました.ucnvさんがしきりと《Tab. Glitch》の展示を「昆虫採集」に例えていました.「グリッチ」という現象を採集して,標本化するということです.ここで比喩をあえて文字通りに受け取ると,昆虫採集で採集され,ピン止めされて標本化されるのは「個体」です.「個体」にはオリジナルもコピーもなく,ただそこにいて,採集されて,標本化されているサンプルにすぎません.それは「画像」とか「写真」とかがもつ「オリジナル/コピー」といった意味がなく,単に「サンブル」でしかないのです.このように考えると,《Tab. Glitch》を見ているときの「分からなさ」が少しなくなっていったような気がしました.僕が見ていたのは「グリッチ」という現象のサンプル集だったわけです.それは「画像」や「写真」という形式で定着されているから,そこに意味が引っ張られることがあるのですが,そこには大きな意味はなくて,あくまでもグリッチという現象の「サンプル」ということが重要なのです.サンプルはサンブルで複雑な意味をもつかもしれませんが,ここではとりあえず「オリジナル/コピー」でも,そして「シミュラークル」といったものでもなく,単に「サンプル」だったということにしておきたいです.
ucnvさんは「昆虫」の比喩だけでなく,自分の作品を説明するときに的確な比喩を探しながら話していました.これは多分,ucnvさんがつくりだしているものを語るための言葉は,いままでの映像・写真・絵画を語るところにはないのではないかと思いました.ucnvさんが扱っている「グリッチそのもの」というもの,グリッチという現象を語るためには「◯◯のようだ」という比喩をメタファーを使うしかない状況にあるのかなと思いました.
「比喩」につながることだと思ったのが,ICCの畠中さんがucnvさんにグリッチの作品を依頼するときに重要視したのが,作品とともにある作家の「ステイトメント」だいうところです.目の前の現象を,現象そのものとして提示しても,おそらくほとんどの人がそれを理解する手がかりがない状態のなかでは,「言葉」がその理解の足がかりになるわけです.「言葉がないと理解できない作品はダメだ」とかではなくて,ucnvさんがやっていることは科学の法則を記述するようなことだと思います.記述されて,はじめてその存在が顕在化されるということがそこでは行なわれています.だって,目の前で「JPEG」という「ファイルフォーマット」が顕在化されていたとしても,僕たちは「JPEG」にも「ファイルフォーマット」にもそれほど長く付き合っているわけがないし,それが何であるのかほとんど知らないわけですから,そこにはやはり言葉による記述が必要なのかなと思います.
《Tab. Glitch》はグリッチした「画像」がプリントされた「写真」状のものが整然と並べられています.どれも「グリッチ」されたと感じられる「画像」であり「写真」です.「画像」「写真」という言葉を使った時点で,そこに「オリジナル」を探したり,どれも「コピー」なのかなと思ったりします.また「グリッチ」という言葉から,今見ている「画像」なり「写真」なりの「下」というか,ここには見えていない「文字列」の操作がこの今見えているものをつくりだしていると考えてしまう.
もちろん目の前にあるものは「画像」であったもので,それをプリントした「写真」みたいなもので,そこに写しだされているものには「グリッチ」という名前が与えられているのだけれど,ucnvさんとゲストの谷口暁彦さんの話を聞いていると,それはほんの少し違うように思えてきました.ucnvさんがしきりと《Tab. Glitch》の展示を「昆虫採集」に例えていました.「グリッチ」という現象を採集して,標本化するということです.ここで比喩をあえて文字通りに受け取ると,昆虫採集で採集され,ピン止めされて標本化されるのは「個体」です.「個体」にはオリジナルもコピーもなく,ただそこにいて,採集されて,標本化されているサンプルにすぎません.それは「画像」とか「写真」とかがもつ「オリジナル/コピー」といった意味がなく,単に「サンブル」でしかないのです.このように考えると,《Tab. Glitch》を見ているときの「分からなさ」が少しなくなっていったような気がしました.僕が見ていたのは「グリッチ」という現象のサンプル集だったわけです.それは「画像」や「写真」という形式で定着されているから,そこに意味が引っ張られることがあるのですが,そこには大きな意味はなくて,あくまでもグリッチという現象の「サンプル」ということが重要なのです.サンプルはサンブルで複雑な意味をもつかもしれませんが,ここではとりあえず「オリジナル/コピー」でも,そして「シミュラークル」といったものでもなく,単に「サンプル」だったということにしておきたいです.
【memoへの付け足し】
memoを書くときに頭の中で参照していたネルソン・グッドマンの「サンプル」についての考えを引用してみます.
仕立屋や室内装飾業者の見本帳に貼られた,ありきたりの織物の小切れを考えてみよう.それは藝術作品とは考えにくいし,何かを描いたり表出したりするものでもなさそうだ.それは単に[シンプリー]見本でしかない.韻を踏んで言うなら,シンプルなサンプルである.ではそれは何の見本なのか.肌理,色,織り,厚さ,含有繊維などの見本である.そこでわれわれは,こうした見本の眼目は,ひと巻きの布から切り取られたものだという点,したがって残りの生地のもつすべての特性をそれらがもつ点にあると言いたい気になる.しかしそれは軽率にすぎるだろう.(p.123)
要するにポイントは,見本とはその特性のうちのあるものだけの見本であること───あるいはそれを例示すること───見本がこの例示の関係を保つ特性は状況に応じて変わり,見本がその特性の見本の役をある状況のもとで果たすことによってのみ,これこれの特性ととして弁別されるにすぎないこと,こうしたことなのだ.(p.127)
世界制作の方法,ネルソン・グッドマン【memoへの付け足し終わり】
ucnvさんは「昆虫」の比喩だけでなく,自分の作品を説明するときに的確な比喩を探しながら話していました.これは多分,ucnvさんがつくりだしているものを語るための言葉は,いままでの映像・写真・絵画を語るところにはないのではないかと思いました.ucnvさんが扱っている「グリッチそのもの」というもの,グリッチという現象を語るためには「◯◯のようだ」という比喩をメタファーを使うしかない状況にあるのかなと思いました.
「比喩」につながることだと思ったのが,ICCの畠中さんがucnvさんにグリッチの作品を依頼するときに重要視したのが,作品とともにある作家の「ステイトメント」だいうところです.目の前の現象を,現象そのものとして提示しても,おそらくほとんどの人がそれを理解する手がかりがない状態のなかでは,「言葉」がその理解の足がかりになるわけです.「言葉がないと理解できない作品はダメだ」とかではなくて,ucnvさんがやっていることは科学の法則を記述するようなことだと思います.記述されて,はじめてその存在が顕在化されるということがそこでは行なわれています.だって,目の前で「JPEG」という「ファイルフォーマット」が顕在化されていたとしても,僕たちは「JPEG」にも「ファイルフォーマット」にもそれほど長く付き合っているわけがないし,それが何であるのかほとんど知らないわけですから,そこにはやはり言葉による記述が必要なのかなと思います.
【memoへの付け足し】
ucnvさんが採集したグリッチの「サンプル」は,それを提示しただけではそれがどのような属性を示しているのかはっきりとしないものだから,そこにはサンプルを説明するためのテキストが必要になったのではないでしょうか.テキストがあることで,ucnvさんが提示したグリッチは「グリッジそのもの」の特性を例示するようになった.どこか後出しジャンケンのようですが,ここでは「サンプル」が例示しているものが何であるのかがはっきりしてないから,その「サンプル」がどんな属性を示しているのかもはっきりしないものなります.だからこそ,「属性」をはっきりさせるための状況をつくるためのテキストが必要になっていると考えられます.それは「見本」とその状況を記述するテキストから,いまだにはっきりと輪郭がつかめない「グリッジそのもの」という現象を捉えようとしていると奇妙な状況なのかもしれません.
そしてこの状況をさらにややこしくしているのは,谷口さんが何度も言われていたように「グリッジそのもの」がヒトとコンピュータとのあいだで生まれることです.ヒトだけでは生み出すことできないで,コンピュータという「主体」もその現象が生じるのに関わっています.谷口さんは「コンピュータ」と一括りにするのではなくて,そこには「ディスプレイさん」「CPUさん」といった様々な「主体」が関わっているとも指摘していました.こうなってくるともう何が何だか分からない状況になってきますが,言葉としては安定しかけてきた「グリッチ」をもう一度このカオスな状況から考える必要があるのかなと思います.それは「グリッチ」だけでなく,「コンピュータ」そのものであったり,「メディアアート」ということもまた複数の「主体」の複合体として考えてみようということにつながっていくと思います.そのとき,ヒトはどこまでヒトから離れて「ディスプレイさん」や「CPUさん」になれるのでしょうか.
【memoへの付け足し終わり】