自然|カーソル|破壊:上海での発表のための日本語でのメモ

「トランスメディア」というのが発表のセッションのテーマ.発表のタイトルは「コンピュータにおける自然と破壊」.単独ではなく,共同発表.

発表の基本の流れ(今の段階)
自然|カーソル|破壊

ハイブリッド|メタメディウム|キメラ
アラン・ケイの「メタメディウム」から,レフ・マノヴィッチの「ハイブリッド」へとつながって,これがコンピュータの「深い階層」で起こっていることで,デスクトップのような「イメージ−表層」ではソーレン・ポルドが指摘するようなイメージが「メディア」でもあり「道具」でもあるような「キメラ的性質」が表れている.「メタメディウム」には「ハイブリッド」と「キメラ」という得体のしれないものが存在している.

垂直|カーソル|水平
マノヴィッチとポルドが見落としているもの,それが「カーソル」.なぜか,それは「手」のようなものだから,特別意識しないし,意識していたらコンピュータと行為などできない.私たちが普段「手」を意識しないで,さまざまな行為をしているように.しかし,カーソルはGUIの要素のひとつであるから,メタメディウムの一部であるはず.にもかかわらず,メタメディウムというものからはみ出しているような感じがする.それは,現実に対応したメタファー的存在ではないし,マウスという物質的な存在と強く結びついているから.このような理由から,メタメディウムはすべてがシミュレーションから成立しているが,カーソルはシミュレーションという枠からはみ出るような存在である.そしてこのカーソルがイメージ−表層において常に最前面にあり,アイコンなどを操作しているということ.カーソルは,メタメディウムの中に存在する「ハイブリッド|キメラ」的な何かを操作する存在なのではないか.

このことを考えるために,アレクサンダー・ガロウェイ(Alexander Galloway)が『プロトコル』という本の中でインターネットを説明していた「水平」と「垂直」を援用する.ガロウェイは,TCP/IP はインターネットに「水平」的な自由な情報のやりとりを作り出しているのに対して,DNSというシステムが階層的な「垂直」性をインターネットに持ち込んでいると考える.そして,DNSが導入した「垂直」性は,インターネットを「人間化」する.そこで,カーソルに戻ると,それはマウスとの関係でヒトとコンピュータとのあいだに自由な情報の流れを「水平」的に展開しつつ,イメージ−表層ではウィンドウやアイコンといったイメージに階層的な「垂直」性を作り出しているのではないか.カーソルは「水平」と「垂直」,自由と階層との交点なのではないか.それゆえに,この矢印はイメージ−表層において常に最前面にあるという特権的な位置を得ている.

破壊|断末魔ウス|Trans-Trance(超える-忘我)
そんな曖昧なカーソルの存在を考えるためのヒントをくれるのがエキソニモの《断末魔ウス》である.イメージ-表層の常に最前面にあるカーソルは,マウスが破壊されているあいだ,その行為に同調しつつも,映像とPC環境や,過去と現在などのフレームをあっさりとまたいでしまう.さらにマウスが粉々になっても,カーソルは動かなくなっただけで,無傷のまま画面の最前面に位置している.このプロセスから,カーソルというのはマウスとつながっているけれども単に物質的な存在でもなく,画面上の他のイメージとも異なる存在であることに気づかされる.それはもう「スピリチュアル」な何かなのではないか.それゆえに,カーソルはシミュレーションを超えていて,メタメディウムも超えてしまっている.そして,カーソルは文字通りイメージ-表層ですべてをまたぐことができる最前面にある.カーソルは「トランス(超える)-メタメディウム」と呼ぶことができる.

カーソルについて「もうひとつ(one more thing)」.カーソルがハッキングされたときに感じる奇妙な感じは,イメージ-表層での自己喪失につながる.それはある意味「忘我」という宗教的な体験にも近いのではないか.逆に言えば,コンピュータというメタメディウムが示す「ハイブリッド|キメラ」という不気味な存在の中で,ヒトは自己を保ち続けることができているのは,カーソルという存在がひとつの依代になっているのではないだろうか.この意味でカーソルは「トランス(超える)-トランス(忘我)-メタメディウム」と言えるのではないか.

カーソルは情報の流れの中にヒトを入れ込む.その流れの中ではカーソルの方がヒトより高次の存在である.カーソルがヒトを支配する.コンピュータ以前は,ヒトが多くのメディアを超えた存在,つまりトランス(超える)-メディアであったのだが,今ではカーソルがヒトの意識の流れを吸収して,情報の流れの中で「トランス(超える)-トランス(忘我)-メタメディウム」として存在するようになっている.
──
英語で書いているテキストを日本語にすると,英語では上手く言えない部分が書けていいのだけれど,それを英語に戻すことは難しい.今の考えをジャンプさせるために日本語で書いてみたけど,どっか遠くに飛んでいってしまった気がしないでもない… ので,これはこれということにしておこう.

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