メモ:仮想世界を示す映像_仮想世界への慣れ?

マトリックス3部作とサマーウォーズ,電脳コイルから,仮想世界を考えてみる.
複数の映像→緑の映像=コンピュータの論理・バイナリ→ 白/黒の世界→ ゼロベースの発想=0から1,もしくは,0か1→ 現実と仮想とが重ね合わされた映像=インターフェイスとしての「使う」映像→ 仮想世界に触れる→ 仮想世界での私たち
3つの世界
仮想世界の前提として,至る所に映像があることが考えられるのではないだろうか? 映画からテレビ,そして,ケータイ,コンピュータのディスプレイなど.しかも,その中で映されている映像の役割が異なっている.

まず映像の役割が「見る」だけでなく「使う」ようにもなったように複数化し,ディスプレイのサイズが多様化する.そして,さらに映像の用途が多様化していく.そのプロセスの中で仮想世界がメタファーからリテラルなものになっていく.

仮想世界を示すために,まず複数・大量の映像が前提となる.そこにソリッドもしくは数字で示された映像が現れる=論理・バイナリの可視化.それが何もない世界,白もしくは黒の映像をつくる=仮想世界.そこにまたソリッドな映像を作り上げるか,それともゴチャゴチャした生活の「場」のような映像を作り上げるか=仮想世界を覆うイメージの世界.

ここまでが「見る」ことから,仮想世界を示す映像を考えてみたこと.
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ここからが「使う」ことから,仮想世界を示す映像を考えてみたこと.

一見すると,これらの映像を見ても何も違和感を持たない人が多いのではないだろうか.それは,私たちがふつうにコンピュータを使っているからであろう.しかし,なんとなく受け入れているこれらの映像を「触る」という点に関して改めて見てみたらどうだろうか?

私たちは仮想世界に慣れることができるのかどうかを考えることが大切である.そこは触れることができない,身体は自由に変えことができるという,私たちにとって何もかもが未体験の場所である.私たちは,まさに「今」,その未体験の場所をゼロベースから創り上げていっている.現在,映像作品として提示されている多くの映像を,仮想世界の設計のための青写真として捉えてみると,今までとは異なる映像の見方ができるのではないでしょうか.

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