MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる
MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第9回「小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる」が公開されました.
1年間連載をしてきて,やっと9回目です.今回は小林椋さんの《盛るとのるソー》を取り上げました.小林さんの作品はディスプレイが動きます.ひとつの不動点というか消失点であったディスプレイが動くことで,ディスプレイが基点となってモノと映像とが重なり合って,あたらしい画面が生まれてくるのではないか,ということを書きました.
名古屋市立大学芸術工学部の小鷹研理さんが「「展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017」」でエキソニモの《Body Paint》について書いているテキストを,画家・評論家の古谷利裕さんが引用して,次のように書いていました.引用の引用となるので少し長いですが引用します.
このテキストで,エキソ二モの作品に触れることから導き出される,下のような見解はとても重要だと思う.
《おそらく,美術というのは,多かれ少なかれ,現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を,それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして,ポスト・インターネットが,美術の歴史のなかで,何か特別に新しい視座を提供しているというよりは,そういった美術の伝統を,新しい道具を使って,正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない.そのうえで,僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは,ポスト・インターネットが,美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を,非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって,結果的に,美術という難解な装置の,優れたメタファーとして機能している(その意味では,美術であると同時にメタ美術でもあるような),と,少なくとも僕にとってはそんな魅力がある.》
《この「わかりやすい」という印象は,作品の受容において,体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること,とも関係している.つまり,(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること,そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと.これは,ある意味では,美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになるんだけど,逆から見れば,自然科学(および工学)が,従来であれば美術にしか処理できなかった主観世界の諸相にメスを入れるようになってきたという側面もあるわけで,つまり,科学の方から美術に歩み寄っているという見方もできる.》
このような,経験を直接つくりだすテクノロジーそのものであるような「作品」の「わかりやすさ」をどう考えるのか.コンテクストを重視する従来通りのアートの立場からみれは,これは,作品と参加型アトラクションとの混同であり,美術史や教養を無化する,知的な退廃と映るかもしれない.しかし,この「わかりやすさ」は,現実と虚構との「抜き差しならなさ」そのものの露呈であり,それは「気持ち悪さ」として立ち現われる.この「気持ち悪さ」に立ち会うことそれ自体が知性なのではないかと思う.
2017-04-05,嘘日記@はてな,古谷利裕
今回,小林さんの作品にはエキソニモの《Body Paint》にも通じる「気持ち悪さ」を感じました.でも,その「気持ち悪さ」はエキソニモのようにわかりやすいものではなかったような気がします.モノと映像とが重なり合うディスプレイが基点となって,さらにモノと映像とが重なり合う「画面」が立ち上がるプロセスを記述していくなかで,作品の体験が「気持ち悪く」なっていたような気がします.
谷口さんのカバー画像にも,これまでにない「気持ち悪さ」を感じました.これまでも様々なモノがMacやiPhoneのディスプレイと重なったり,突き抜けていましたが,今回は手がデイスプレイを突き抜けています.デイスプレイを突き抜ける手とディスプレイから伸びてくる手が触れている.
私たちがディスプレイを見て,ディスプレイに触れているのでしょうか?
デイスプレイが私たちを見て,私たちに触れているのでしょうか?
引き続き,よろしくお願いします😊😊😊