[インターネット アート あれから]から考えた「実体験」としてのネット体験 など

2月16日(土)に,インターネット・リアリティ研究会の座談会[インターネット アート あれから]がICCで開催されました.展覧会[インターネット アート これから]から1年がたった今,展覧会を振り返りつつ,「次」を考えようというのが座談会の目的でした.他のメンバーが紹介する事例やその考えがとても刺激的で,自分からはほとんど発言することができず(リアルタイム多人数チャットのスキルを上げる必要があります),結局,自分の振り返りだけでいっぱいいっぱいでしたが,考えるヒントがたくさんつまった座談会でした.

座談会の流れは,畠中さんによって「インターネットのリアル化のふたつの方向」と簡潔にまとめられていると思います.ひとつは文字どおりの「インターネットのリアル化」で,もうひとつは「インターネットがリアルと同様に不便になるという意味での「リアル化」」.今回は後者について思いつくことを書いてみたいと思います.

まず考えてみたいのが,渡邉さんが言っていた「制約や劣化によってネットの時間に逆らうモノ感」ということです.自分も以前,GIFがTumblrの流れのなかで,その流れを「分岐[リブログ]」させるモノのような感じがすると考えたいたので(座談会のときに思い出せよー),とても気になる表現でした.とくに近頃のウェブはタイムライン上に次々に情報が流れていくので,そこに「モノを置く」ことによってによって,ネットの時間を乱すことができるのではないかと思うわけです.

TumblrではGIFだけでなく,すべてがリブログされて,しかも,それは延々とリブログされて,時間の感覚を持てない感じが面白いのですが,そのなかでもGIFはテキストでもなく,映像でもなく,画像でもでもなく,そこらへんの「石」のようなモノで,それを拾って投げるように「リブログ」している感覚になります.TumblrでのGIFは,ネットがすべてを記録しているということによって,「あとで見ればいいや」という感じとともに生まれた「どんどん進んでいく時間」という感覚に最適化されているような感じがします.そしてそれがリブログにリブログを重ねてグルっと回って戻ってくるというような,時間の流れという「線」が知らないうちに「円」になってしまっているといるのが,Tumblrとそのなかを流れていくGIFの面白さだと思うのです.

そして,渡邉さんが例としてあげて,メンバー全員が興味を持っていたPokeは,ネットの「どんどん進んでいく時間」に逆らう感じがします.それは,一度しか見ることができないという「制約」をアプリ自体に課すことによって,「聞き逃した」ものはもう聞けない,「見逃した」ものはもう見れないということです.でも,「もう一回送って」とも言えないので,「うんうん」という感じで受け流して,スルーする.というか,そうするしかない.それはリアルの会話と同じようなことになっているわけです.ネットでの時間,すべてを記録することによって,「あとで」を延々と可能にしていくことだともいうことができると思うのですが,それを「一度きり」と「制約」してしまうことによって,そこにネットとリアルとが地続きになるような契機が生じるということでしょうか.

Pokeに関しては,谷口さんが動画を送る側と見る側が「同じ操作をする.行為の同期の気持ち悪さ」があるようなことを言っていました.これもとても興味深かったです.Pokeは動画を撮る時にディスプレイに触れていないとダメで,動画を見る時には映像の時間分だけディスプレイに触れている必要があります.撮影する人と見る人が,同じ時間だけディスプレイに触れている,ただそれだけのことですが,この「行為の(擬似)同期」は何か気持ち悪い感じがします.それは,知らないあいだに誰かと「行為の(擬似)同期」が行われてしまっているということかもしれないし,「ディスプレイに触れる」という,今の私たちには当たり前になった行為(でも,まだそれが「設定」されて日が浅い)を,改めて思い出させるからかもしれません.

このことをiPhoneで,六本木を歩きながら書いているのですが,それはとても疲れる行為です.指はせわしくなく動き,眼はディスプレイを見つめつつ,周りも見る.眼だけでなく,大きなリュックを背負った肩と背中,歩き続ける足など,全感覚を使ってテキストを書いている感じがします.わざわざこんなことを書いているのは,インターネットとフィジカルの問題が渡邉さんから提起されたからです.

「インターネットをフィジカルに降臨させる場」としてのIDPWという話があって,そこから「踊りながらインターネットをする」など,全感覚的にインターネットと接するということが言われて,「フィジカルの強さがインターネットの降臨には必須」ということになります.これって,「インターフェイス」をとばしている感じがして,とても面白いことだと思うわけです.「インターフェイス」を気にすことなく,それは今までのコンピュータのかたちを超えて,インターネットと接続することなのかなと考えられます.そして今その第一段階として,iPhoneなどのスマートフォンによる変化があるわけです.例えば,六本木の地下を歩きながらこのテキストの入力をしていたわけですが,そのときは「インターフェイス」への意識よりもフィジカルを介してリアルとの関係を保ちつこと(人にぶつからない,モノをさけるなどなど)が第一に求められていて,その上で「ネット」というか「コンピュータ」に入り込むのかが大切な感じがします.だから,まずはリアルでのフィジカルの鋭敏さが求められます.それができなければ,人通りのないところに立ち止まってテキストを入力しなければなりません.リアルのなかで動きながらウェブにいくときには,リアルとのフィジカルな絡みがネットに行くためのひとつの障害というか不便として立ちあがってきて,そちらに多くの意識をさくために,逆説的に「インターフェイス」を意識しないということが起るような気がします.「インターフェイス」を意識しないことの行き着く先は「電脳」だと思うのですが,その前の段階としての「全感覚的インターネット」というものがあるのかもしれません.

「インターネット」というものがリアルとなめらかにつながるようになってきて,そこにあったネット的な場所がなくなってきました.それは,エキソニモの千房さんが言っていた「古き良きインターネットの終焉」ということかもしれません.同時に,アバターやカーソルなどと,それを操作する「インターフェイス」を意識することなく,それらをすっ飛ばしてインターネットに「イントゥ[into]」してしまう感覚が現れつつあるのかもしれません.(そのとき,「インターネット」とはどこにあるものなのでしょうか?)私は「かもしれない」と書きましたが,今回の座談会ではこの感覚はもうあるものとして,メンバーがそれぞれ「「実体験」としてのネット体験」を語っていたということを,栗田さんが最後に言っていたのが興味深いです.そうすると,今まではマウスやカーソルなどの「インターフェイス」によって制限されていた感覚では「ないもの」とされて気づくことのなかった「路地」的なものが,「インターネット」の場所と場所のあいだにあることに気づいていくのかな.そこは萩原さんが言っていた「ネットとリアルのあいだの不気味な谷」なのかもしれません.そして,そこを乗り越えるというよりは,ヒョイとかわすことで,「GIFは硬い」とはまた異なるかたちでのネットとリアルとの関係を結ぶあたらしい感覚を手に入れられるのかもしれません.


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