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9月, 2009の投稿を表示しています

身体が空白の輪郭を形づくる

クラウドの中で身体はどこにあるのかを考えるために,いろいろと身体のことを考えているけれども,どうしたものか.身体のことを考えると,「意識」や「考えること」をあわせて考えてしまう.テクノロジーによって身体が変わること.身体が変わると意識が変わること.それらが同時に起きていることをどのように感じて,考えて,記述するか.「記述する」という方法が,もうこれらの現象を表すことに適していないのか.でも,記述する努力をしなくては.そのための練習をしているつもりなんだけど.クラウドの中の身体といっても,その身体はすっかりと忘れ去られるように,今までのテクノロジーによって環境がデザインされてきたとしたら,「身体」という部分が環境からすっぽりなくなってしまうような.すっぽりと抜け落ちた空白として,かつてあったものとして身体が空白の輪郭を形づくる.

内化を突き進めて反転した後の外化

針を刺す.仮想世界に行くために,体内に異物を入れるという発想.で,今のところそんなことはできないし,将来的にブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)で,直接脳と機械をつなぐとしても,首に針は刺さないかもしれないけど,なんでこんな発想がでてきたのかは気になる.ので,ちょっと針を皮膚に刺すことを考えてみた.すぐに思いついたのが,献血です.針を,ぶっすと,いや,ちっくと,いや,ただ目の前で,針の先が皮膚の中に入っていく.というか,皮膚を突き破って,身体の中に入っていく.当然,針の先は見えなくなる.皮膚を境にして,針が見えたり見えなかったり.なんとなく痛みが,針の刺さっている所にある.この針の刺さっている感覚.ちっとも仮想世界と結びついていない.というか,今日このことを考えるまで,献血をしているときに,攻殻機動隊やマトリックスのことなど思い浮かべなかった.腕に針を刺しているからでしょうか.見えない針の先が,見たことがない自分の血管の膜を突き破って,そこを流れている血液を吸い出す.僕は,そのとき,自分の赤い血を見る.皮膚を突き破って,もうひとつ膜を突き破る.皮膚と膜のあいだも何かつまっている.皮膚を突き破って,つまっているものを突き通して,膜を突き破る.このことを反転するとどうなるか.最初に,何を突き破るのか.大気を突き通すのか.大気を突き通した先にもうひとつの膜があるのか.「内化を突き進めて反転した後の外化」を考えてみること.皮膚を突き破り,つまっているものを突き破り,膜を突き破り,流れているを突き破り,また膜を突き破り,つまっているものを突き破り,皮膚を突き破ると,針の先を身体の外に出て来る.さらに突き破るものはあるのかな.もうひとつ,突き破られた皮膚や膜は,また元通りになること.可塑性. Stick a needle in. The idea is to insert a foreign body into the body in order to go to the virtual world. Even if we connect the brain and machine directly with a brain-machine interface (BMI) in the future, we may not stick needles in the n...

身体と意識だけでなく,第3項としての物質

じーっと動かないでいる.そうすると身体が動かない.考えは頭の中をぐるぐる回る.実際はぐるぐると回っているわけではないけど,身体を動かさないでいると,考えもどこにもいかないというか.と感じていたわけではないですが,あくまでもあとから考えたことですが.身体を動かさないでいると,当たり前のように自分の身体が動かないという事実.そこから,動かさないでいると,身体が物質となっていくような.自分ではというか,内側からは動かせないような感覚になってきます.身体の輪郭はわかるのですが,それがどうしたという感じです.自分の腕のある場所は,はっきりとわかる.それは,動かしているときよりも,はっきりとわかる.何かを考えている領域に,必ずほんの少し自分の動かさないでいる腕がどこにあるのかが示されている.考えという領域に,物質がじわーとしみ込んできている感じ.そうこうしているうちに,じつは,動かさない腕が痒くなってしまったのですが,そのときは動かさないから動けない状態になっていて,そうすると痒さもひいていきましたというか,気がつくとなくなっていた.「気がつく」とということは,どういうことか.それまでも確かに痒かったはずなのに,いや,もう実際痒くなかったのかもしれません.ただ,「痒くない」ということに気づいた時点では,痒さは腕にはなかったのであって,気づく少し前,あるいは大分前から痒さはなかったのかもしれません.輪郭はわかるっているに,痒さはいつからいつまでということがはっきりとはわかりませんでした.いつもだったら,痒くなったらすぐ搔きます.搔いたことで痒さがなくなり,搔いたという感触が残る.そしてその感触も消えていく.その消えていくことには意識は向かないけど.実際に起こっている.身体を物質としてとらえることで,実際に起こっていることを意識しないようにする.でも,その物質はまた身体になる.身体と意識だけでなく,第3項としての物質.

ぼわったしてもうひとつの力

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自転車がパンクする.外からの力で,チューブが耐えきれなくなって穴が開いたり,破裂するとパンクする.外からの力に耐えるための内からの力がある.内からの力が弱いと,外からの力に負けてしまう.内からの力が強すぎると,それはそれで破裂する.人間も,外圧と内圧とが均衡を保っているから破裂しない.当たり前のようだけど,人間の身体は,本当に滅多のことがないかぎりパンクしない.で,外圧と内圧とが向かい合うところがインターフェイス,皮膚だろうか.でも,皮膚によって,ここから外からの力で,ここまでが内からの力とはっきりと分けることができないのではないかと思った.皮膚は外からの力も取り込みつつ,内からの力もしみ出してきている.皮膚は表面ではなくて,外の力と内の力の双方が滲んで生じるもうひとつの力なのではないかと思った.外からの力も,内からの力も皮膚に近づくにつれて弱くなっていき,なんか滲んだような輪郭のはっきりとしないあいまいなのものになっていくけど,そのあいまいさが,ぼわっとしたひとつの力となるような.そのあいまいさが,人間の身体をパンクしない,破裂しないものにしているのではないかと思った.

身体の内側と外側の表面

頭が痛いときに,内側でガンガンしていることを感じる.トイレにいきたいときから,内側から外側に出たいものを感じる.足を曲げているときに,関節が曲がっているのを感じる.内側から,身体を感じること.内側ではないけれど,身体の周りを風が通り抜けていくときに感じていること.考えているときに,頭の中の脳が動いているように感じる.頭を重く感じる.後頭部のあたりに力が集中しているように感じる.一度感じて,ふとした拍子に何も感じなくなって.また何かをきっかけとして身体の内側を感じ始める.風を感じている身体が,外の世界に何かがあることを教えてくれるように,内側からの身体を感じる,ではなくて,感じさせられているのかもしれないけれど,どちらにしても何か感じがあるときに,身体の内側を感じているかというと,そうではなくて,身体の表面を感じているような.内側の表面.といっても,実際は,眼に見える外側の表面を内側の表面に置き換えているような感じもする.身体の内側と外側の表面.裏表ではなくて,どちらも表.「どちらも」という言葉もなんかちがって,たんに面.でも,表面.この場合の「表」面,「表」は表裏の表ではなくて,なんだろう「表す」という感じ.

身体に「意識」を向けること

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ペンを持っている手の皮膚の感覚とペンを持っているという筋肉と関節から生じている感覚.それらを感じている「意識」.それらを感じていることを生じさせるように手を制御している「意識」.「意識」とは関係なく(関係なくはない?),皮膚とペンという物質との間に生じている感覚.物質との間に生じる皮膚の感覚が,筋肉と関節を制御している.意識からの制御と物質からの制御.「意識」と物質と身体との間のフィードバック.フィードバックを外から見るのではなく,内側から見るようにすること.フィードバックループの外側から,このループを意識すると,ふたつの別々の平面がある.フィードバックループの中に,見ること(意識)をもっていくと,意識とフィードバックループが同一平面にあることになる. そこでは意識することと感覚することは同じであり,意識することが感覚の中に溶け出していく.それで良しとして,溶けていく中でできる限りの観察をしていくのか.観察をするという態度事態が,意識を保とうとしているのか.溶けていくという感覚を持つこと自体が,確固とした意識をもっているという態度なのか.とにかく,意識と身体と物質のフィードバックループの中にいるということを感じることからはじめてみる.

ステンドグラス

明るさに囲まれた世界. それが,私たちが住んでいる世界で,時代なんだと思う. アーツ&クラフト展にいったときに, 美術館の照明のせいもあるけど, 家具も重厚で,壁紙,タペストリーもなんか暗くて, それらに囲まれていた世界はとても暗かったのだろう. なんて,少しも考えていなかったのですが, そんなときに,ステンドグラスの展示を見たのですが, それは,しっかりと後に光源をもっていて, とても明るかったのです. そのときに,今,私たちがいる時代は明るさに囲まれていると思ったのです. そして,今の時代を基準にすると昔はとても暗かったのだろうと. 当たり前のことかもしれませんが, 私たちの周りを囲む明るさの違いは, 私たちの感覚に大きな影響を与えていると思います. そして,こんなに明るさ,つまり光を自由に扱えるようになったのは, 人類史的にはつい最近のことなのです. 今からみた暗さと昔からみた明るさ. その間の人間の実感を考えること.

「anima: Flip, Flap Animation」のメモ

物理運動を仮現運動として知覚してしまうのではないか? 映像の解像度,極小の光の操作可能性とそれを見ることの可能性. 「見る」だけに徹しても,多くの驚きがある. それは,人の眼がだまされやすいからだろうか. これまでも延々とだまされてきたのに.さらにだまされていくのであろうか. anima,生命を吹き込むこと. この意味をアニメーションは考えなければならないと, 早川さん . 早川さんの作品は,きれいだった. 圧倒的に描き込まれていて,その密度とそれを可能にする技術. インタラクティブなものではなく,見ることに徹することを考えさせられた. インタラクティブなものを経由した「見る」ことを考える. 映像を前にして,デバイスがあって,それに触れる際の筋肉の緊張. そのデバイスが馴染みのものであった場合, 私たちはもうその筋肉の緊張に慣れている. とくに何も感じなくなってしまっている. また,センサーで,私たちの動きを捉えて映像に反映させることは, 私たちの身体に何も影響は与えていない, ただ歩いているいたり,止まったりするだけ. そのときに,映像が変化したとなっていも,ああそうかというだけになっている. なぜか,慣れてしまったから. 映像は,私たちによって変化することに慣れてしまった. そこには,もう anima は起こらないかもしれない. 映像と関係する際に,デバイスを操作する身体に適度の緊張をもたらすこと. この筋肉の緊張が,映像に anima を吹き込むのかもしれない. それは,たとえ,見るだけであっても起こる. 私たちの眼はたえず動いているのだから. 動きながら,「ない中にある」を見ること. 見ることの基本とアニメーションはとても親和性がある. アニメーションも「ない中にある」を見ること. この関係をどのように作っていくかがとても大切なんではないか. そして,映像に囲まれた私たちは, 物理的運動を仮現運動に変換して見てしまうような感覚を身につけてしまっているのではないか? 物理的運動と仮現運動との境界があいまいになっていっていること. だから,見るだけで身体が緊張する. 映画を最初に観た人たちが,そこに映る汽車に驚き逃げた際の身体の緊張に,私たちは回帰しているのではないか? もう一度,「見る」こと...

short and long

Our thinking is becoming shorter and shorter. We write short idea again and again like Twitter. However, this short idea links another our own ideas or someone's one, then the idea becomes longer and longer. Next, this long idea becomes shorter  and shorter again. We make new idea from this cycle and our body action like a click or tap make it possible.