「Retinaディスプレイに触れる」というのは…

「Retinaディスプレイに触れる」というのは「網膜に触れる」ということであって,面白なと思っています.コンピュータのディスプレイにおいて「見る」と「触れる」の問題があるのと考えているのですが,それらが文字面において直結してしまった感じ.で,「Retinaディスプレイに触れる」という時,「実際には何に触れているのか」ということを考えてみたいのです.そんなことを書くとすぐに「ガラス」に触れているとツッコまれますが,それはもちろんそうだけれども,もう少し考えてみようということです.まずはアップルのサイトからiPhone4SとあたらしいiPadにおけるRetinaディスプレイの説明のテキストを引用します.
Retinaディスプレイなら,iPhone 4Sで見るもの,体験するもの,すべてが驚くほど美しくなります.Retinaディスプレイはピクセル密度がとても高いので,人間の目ではひとつひとつを識別できないほど.ゲームも,ビデオも,写真も,画面から飛び出しそうなほど生き生きと映し出されます.本,ウェブページ,Eメールのテキストは,どんなサイズでもくっきりと鮮やか.見るものすべてが,いっそうシャープになります.
新しいiPadを手に取った瞬間,すぐに気づくでしょう.あなたの指は本当に写真に触れ,本当に本のページをめくり,本当にピアノを弾いているのだと.あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません.実際に体験することをさらに魅力的なものにするために,ディスプレイ,カメラ,ワイヤレス接続機能といったiPadの基本になる重要な要素が一段と進化しました.そして生まれたのが,あなたの想像をはるかに超えたことまでできる,新しい第3世代のiPadです.
「ピクセルが識別できない」というのが「Retinaディスプレイ」と言われる所以であるとすれば,「Retinaディスプレイに触れる」というときに,ユーザはヒトの眼の限界を超えたものに触れているものになるわけです.ピクセル単位で操作を行うことはほとんどないにしても,識別できないものを操作している,しかも実際に触れながら操作しているというのは興味深い.

iPadのテキストでは,「ピクセルが識別できない=本当に〇〇に触れる=あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません」となっています.となると,「ピクセルが識別できない」ことは確かに私たちの眼の限界を超えていることなのだけれど,それは「現実世界ではいつものことだよね」ということになるのでしょうか.ピクセルが見えないように,アトムだって見ないよねという感じ.この流れで,アップルの公式アプリは現実のモノを模したデザインになっているのでしょう.

自分が最小単位を識別出来ないものに触れることが普段の出来事だとすと,Retinaディスプレイはごくごく当たり前のことを実現したに過ぎないことになります.だから,その「すごさ」もすぐに収まって,当たり前のことになってしまうのかもしれません.

触れることがないRetinaディスプレイであるMacBook Proの説明文をついで引用してみると,次のように書いてあります.
私たちがこのMacBook Proに載せたかったのは,あなたの想像力と同じくらい色鮮やかなスクリーン.つまり,見るものすべてが圧倒的に鮮やかで,細部までシャープに映し出されるスクリーンです.そして生まれたのが,世界で最も解像度が高いノートブックのディスプレイ.これまでで一番あなたを驚かせるRetinaディスプレイです.
MacBook Pro Retinaディスプレイモデルも特に上の2つと変わりがありません.触れるにしろ触れないにしろRetinaディスプレイは「見るものすべてが圧倒的に鮮やかで,細部までシャープに映し出されるスクリーン」ということになります.あまり「触れる」ということとの関係はないのかもしれません.なので,少し「触れる」ということを考えずにディスプレイで私たちが見ているものを考えてみたいと思います.

高精細なRetinaディスプレイに表示されるがそれに見合った高精細な映像なら特に問題なく,見る人と画像・映像とのあいだがまさに分け隔てることない状態なると思うのですが,もともと低解像度のGIFアニメーションなどを見たときはどうでしょうか.高解像度化していく画像・映像に反して,GIFアニメーションは低解像度を「売り」にしているところもあります.それがRetinaディスプレイだと,とても鮮明に見える.Retinaディスプレイは,劣化したものも鮮明に見せてくれる.それはいいことだと思うですが,谷崎潤一郎の陰翳礼賛ではないけれど,すべてが鮮明になっていく方向とは別の方向もあるのかなと考えるわけです.
80年代半ば,我々の前に突然現れたアイコン(「書類」を,四角い図形の端を三角に折ったように見えるアイコンで表す方法)の出現は,革命の幕開けを感じさせました.四角い図形に三本線を入れれば「テキストファイル」,45度に傾けて「アプリケーション」…….これらのアイコンに始まるデザイン,展開されるディスプレイの風景……白黒1ビット72dipで,当時の新聞のアミ点写真より粗雑なはずの画面が,なぜかヒトの眼には,繊細なハーフトーンを湛えているように見えました.ギザギザであるからこそ,ユーザーはそれらの文房具に自らの記憶を投入し,想像を走らせたのです.まさにユーザー・インターフェース・デザインという体験.これがその日常と歴史への登場でした.(p.86) 
装丁のデザインなどで有名な戸田ツトムさんの指摘です.これを引用して昔の方がよかったということではなくて,低解像度には低解像度の力というのがあり,こちらの方向にもインターフェイス・デザインは行くことができるのかなと思うわけです.デジタル写真や映像が銀塩写真や35ミリフィルムの解像度を抜いてしまう高解像度になっていくなかで,低解像度の想像力というもありではないかな.

と書きながらも,もうRetinaディスプレイ以前には戻れないなと思うほどに,自分の網膜はRetinaディスプレイを望んでいるし,Retinaディスプレイに対応していない画像など見ると,ボヤーとしていて気が散ったりするのが現状です.

「Retinaディスプレイに触れる」ということに戻ると,単に高精細なディスプレイに触れるだけのことというか,本当に「触れる」という部分はほとんど重要ではないように思えてきました.タッチということを売りにしたiPhoneが,今ではRetinaを売りにしていること.タッチ・インターフェイスに慣れて指がある程度ディスプレイに触れる解像度を上げたところで,眼の方の解像度を一気に引き上げることで,見て触れているものが「本物」になったということなのかもしれない.

それはユーフラテス「君の身体を変換してみよ」展で展示した《ミクロ職人修行》という作品で行われたことに近いのかもしれない.
ペン先を60倍まで拡大できる特殊カメラの映像を通して,極小サイズの「計算ドリル」に挑戦します.集中して問題を解いたのち,ふと自分の手元を見ると,想像よりもはるかに小さな文字を書いていたことに驚くでしょう.
「目の解像度=細かいものを判別する能力」よりも,「手の解像度=指先を制御する能力」が高いことに気づかされる作品です.
「手の解像度」はタッチに慣れればもともと細かく制御できるようになるので,技術的制約の突破とともに多く人の「手の解像度」の仕込みが済んだ時点を見計らって,Retinaディスプレイを発表して一気に「目の解像度」 を上げる.iPhoneの場合は細かい文字が書けるというわけではないけれど,解像度の変化にも関わらず操作が普通に行える.今までどおり何だけれども,眼と手の解像度は上がって,見て触れるものが「本物」になっているということかもしれない.

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