「The EyeWalkerの制作にあたって」を読む


先日,エキソニモの千房けん輔さんが恵比寿映像祭のページに「The EyeWalkerの制作にあたって」というテキストを書いていた.上の画像は,そこでリンクが貼られているYomiuri Onlineでのエキソニモへのインタビュー映像からです.映像とともに作品の解説がされていて,また「ポスト・インターネット」とも言える,私たちへのネットの影響も語られています.

テキストを読んで,映像を見ながら,山口でも一度体験したことがある《The EyeWalker》をもう一度考えてみようと思いました.エキソニモの言葉から改めてこの作品を考えてみるといったことです.

山口で一度作品を体験した私はこの作品について,「ちょっと手前」ということを考えたらしい(→視線|フォーカス|意識:エキソニモ《The EyeWalker》から考えたこと).画面を見ているのだけど,うまく操作できないという感じで,「ちょっと手前」ということを書いていた.私が「ちょっと手前」と考えていた感覚を,千房さんは次のようにクリアに書いてくれています.
このEyeWalkerシステムでは,画面の風景の中に,四角いポインターが表示され, そのポインターを視線で操作するのですが,ポインターが画面に乗っていると,背景の映像が「見れなく」なってしまうのです.実際に見えなくなるのではなくて, 意識が見なくなってしまう.ポインターがあるだけで,それは映像ではなくてインターフェイスになってしまうのです.「見る」ことが「操作すること」に無意識の内にすり替わってしまい,ちゃんと画面の向こう側を感じなくなってしまうのです.
画面の中に「ポインター」や「カーソル」といった,これは恐らく自分の動き・意志と連動する(と認識することができた)画像が表示されていると,そこではもう「見る」ことの他に「操作する」という意識が入り込んでくる. それは強制的に入り込んできます.この文章を読んで,作品を体験している時,確かに「ポインター」が出た後は,それを動かすことだけに意識を集中していたことを思い出したし,インタビュー映像の中でも意識することなく,四角い「カーソル」を眼が追っていることに気づかされます.

「見る」と「操作する」の意識のすり替えは普段から起こっていることだと思います.例えば,カーソルも「見る」と「操作する」のすり替え,慣れてきたら「切り替え」を瞬時に行なっているものでしょう.カーソルだけに限らず,上の置いた画像で真ん中に「再生ボタン」が重ねられているだけでも,私たちの意識は「見る」と「操作する」のあいだを行き来するのではないでいしょうか.

《The EyeWaker》では「見る」ことが「操作する」ことになっているので,このふたつの意識のすり替わりをダイレクトに体験することができるのだと思います.そうなると,このまえグーグルが発表したようなメガネ型のインターフェイスでは常にこの「見る」と「操作する」のあいだで意識は行ったり来たりすることになります.そうすると,背景の画像,ここでは現実の世界が意識から隠されることになります.「見る」という単一の感覚でこの切替が起こるがゆえに,これはケータイで話しながら歩いたり,車を運転したりするという,複数な感覚の連動のなかで「見る」が意識の背景に消えて行くことよりも,危険なことになるのかもしれないです.

また,もうひとつとても気になったのが,以下のテキストです.
そこで一旦,この視線入力装置がやっていることは何なんだろうと考えてみると,モニタの中の見ている座標をプロットしているのだという単純な原理まで戻り,実はそれは本質的な「見る」行為の中の「見ている位置」という単一の情報を切り出しているだけ,ということに気が付きました.つまり「見る」に含まれる複雑な問題の,ある一点だけにフォーカスした技術なのです.
これはエキソニモが扱ってきた「カーソル」に「座標のプロット」という点でつながるのでとても興味深かった.ある一点の「座標のプロット」をし続けることは,ヒトの世界の認識との関係から考えると,今までにはあまりなかったことなのではないだろうか.《The EyeWaker》を体験しているときに,四角いカーソルが画面上に現れた時に,「ああ今自分はここを見ているんだ」と何度も思いました.私は画面全体を見ているつもりなんだけれども,《The EyeWaker》で使われている視線入力装置「The EyeWriter」は「あなたはこの一点を見ていますよ」と示してきます.これは先程の「見る」と「操作する」につながってくると思われるのですが,全体を「見る」ということと「一点を見る」という視線の「操作」とは,見るという行為でも,全く異なるように感じられます. この異なる行為が同期していくと,またひとつの行為になるのでしょうか.そのときには「見る」=「操作」となり,それは今のヒトの感覚からすると,ひとつの超能力みたいなものにみえると思います.

ヒトとコンピュータとの関係を考えるときに,上のようなわりと「すべて」と結構厳密な「一点」というのはとても重要な気がしています.テキストの最後に,次のようなことが書いてあります.
僕たち人類にとって「映像」とはかなり重大な問題なのではないかと思います.映像が無かった時代を想像すると,目の前に見えるもの以外の空間が存在しなかった(ファンタジーであった)世界であったわけです.昔の人達は,目の前の物理現象に反射していくという,より「動物」に近い生活を送っていたのではないかと思います.映像の登場によって,遠くにある空間がありありと目の前で再現され,世界の構造が大きく変わりました.人間は動物よりも,より一層,人間の側に引き剥がされたのです.
「映像」をめぐるとても大きな問いです.私も映像はヒトにとって大きな役割を担っている思います.しかしです,映像はヒトと同じように世界を「すべて」のかたちで認識しているものだと思うのです.ピントをどこに合わせるという問題があったとしても,それを見る人はその一点だけに集中しなければならないことはありません.ヒトが自分の認識に似たものをつくり出して,それによってさらに自らをより「ヒトらしく」したのかもしれません(もしかしたら逆で,映像が世界を「すべて」で認識して,それを見続けたヒトが世界を「すべて」で認識するようになってしまったのかもしれませんが…) けれど,コンピュータを介した映像=インターフェイスは,見る人に「一点」を見ることを促してきます.それは今までは少し異なる体験であり,これはヒトの側へ引きこまれていたヒトを少し別の存在の方へ,コンピュータの側に連れだそうとしているのかもしれません.世界の構造はまた少し変わり始めているような気がしています.

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