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テクスチャー主義

テクスチャーの出現と非ストーリーテリング的アートは,例えば二〇〇五年一〇に上野で展示されていたアーニッシュ・カプーアの Japanese Mirrors にも鮮明にみることができる.カプーアの今回の作品は,漆を材料にした覗けない漆黒の鏡である.金属でもプラスチックでもないその光沢は,独自のテクスチャーを構成する.光沢を帯びてぬめぬめとした,しかし掴むことのできないテクスチャーは, 視覚的な刺激による触覚的刺激を引き越す 作品である.pp.203-204 ひとつの運動のスタイルから別のスタイルへの変遷を 因果的 に捉えても理解できない.これは因果的というより,”the way thing go”(なりゆき)的なのである.しかし,実はそうした多重なアフォーダンス(可能な行為の束)こそ知覚の本質なんだということを論じた.p.218 つまり,ストーリーテリングにとってかわるテクスチャー重視型記述とは, 因果よりも「つながり」に注目する ということだ.時間発展の根底にあるのは,「横」の通常の時間発展である「どう展開したか」であると同時に,「縦」の仮想の時間発展である「つながりかたの可能性」の総体である.この縦と横はフッサールの現象学が基本とする縦と横の志向性にもつながり,能動性や自由意志を考えて行く上にますます考えなくてはならない二つの軸となる. p.218 池上高志『動きが生命をつくる』 -- 視覚と触覚の二重記述. 重なる世界. 重なった領域が空集合だったら,そこをどのように埋め合わせるか. それとも,どのようにして空集合のまま受け入れるか. 身体の態勢をどのように決定するのか.

Vision is touch-like

Vision is touch-like. Like touch, vision is active. from Action in Perception by Alba Noe. 見ることは触れるようなこと. わかっているようで,わかっていないこの感覚. 視覚と触覚とが重なるところにある空集合としてのディスプレイ上のイメージ. 幻想と仮想の間. actuality と virtuality との間. A field which vision and tactile are overlapping is the image on the electric display as an empty set. Between imagery and virtual. Between actuality and virtual.

windows 7 touch

windows7 も touch. スクリーンに触ることの障壁が,iPhone でなくなった. 心理的な問題.技術的な問題.商業的な問題. 私たちの知覚はどうなるか. 「Windows 7」のタッチ機能--普及の鍵は何か

ユビキタスと直接操作

シュナイダーマンの「直接操作」 ディスプレイ上のイメージへの直接的な働きかけ. 私たちの手も「カーソル」に. 今では,比喩的な意味ではなく,タッチで実際に. 意味論的距離(semantic distance)と接合距離(Articulatory Distance) 意味論的距離を縮める. 意味論的距離を縮める際に,実は,ヒトの身体感覚を多大に利用していた. 接合距離も縮めていた. マークワイザーの「ユビキタス→穏やかな技術」 物理的なものへの直接的な働きかけ. アフォーダンスと消えること. コンピュータは消えていく. 意識にのぼらなくなるという意味で. 暗黙知.訓練.身体でおぼえる. 接合距離(Articulatory Distance)を縮める. 意味論的距離を縮められていないのではないか. 身体行為を重視しながら,ディスプレイ上のイメージとの関係を見失った? 最後は,物理的な物への注目.

非対称性

インターフェイスの非対称性. 表象と言語との非対称性. イメージと言語との非対称性. イメージと言語と行為の間の非対称性. 3つの関係における非対称性とは? 非対称的なものを対称的なものにするという意識をもつのか? 非対称性を非対称性のまま扱えるような意識をもつのか? もしくは,行為がイメージと言語との間の非対称性を是正するのか? 行為があるからイメージと言語との間に非対称性が生じるのか?

「一つの絶対知」としてのインタラクティブ経験

たとえば,私が机のまえに立ったままで居て,両手でもってそれにのしかかっているという場合,私の手だけが強調されていて,私の身体全体はまるで彗星の尾のように手の背後へと流れて行っている.というのも,私の肩なり腰なりの位置が私にわからないからではない.テーブルのうえに突いた両手のその支えのなかに,私の姿勢の全体位置が言わば読みとられるからである.また,私が立って居て,私のパイプをを手で握りしめているという場合,私の手の位置というものは,私の手の位置が私の前腕とのあいだでとる角度,私の前腕が私の上腕とのあいだでとる角度,私の上腕が私の胴体とのあいだでとる角度,最後に私の胴体が大地とのあいだでとる角度──といったものから次々に推論されて行って決まるものではない.私は自分のパイプがどこにあるかを,一つの絶対知によって知ってしまっているのであり,まさにそれによって,私の手がどこにあるのか,私の身体がどこにあるかも知っているのであって,それはあたかも,沙漠のなかで原始人がそのつど一気に方向を見定めてしまって,別に出発以来辿ってきた道のりや外れて来た角度を思い出したり加算したりする必要なぞないのと相似ている.(p.175) モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』 「一つの絶対知」 マテリアルと身体と間の作用・反作用 As someone who thinks of things from the perspective of creating interactive experiences, I really think that you do need something. from: Q&A: Nintendo’s Shigeru Miyamoto on Mario Zelda, Project Natal and More 宮本さんとメルロ=ポンティを並べてみる. 「一つの絶対知」としてのインタラクティブ経験. そこには,身体が接する何かが必要となる. マテリアルと,マテリアルとしての身体. また, #52 概念を触る指 [Finger touches concepts] 第3章で掲載した角をなぞる図版の延長版であるが,ここでなぞられている角は,点線や括弧など,アクチュアルに決して触る事のできない概念的な要素で構成されている.「概念を触る」という日常で体験できない表...

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Q&A: Nintendo’s Shigeru Miyamoto on Mario , Zelda , Project Natal and More Posted using ShareThis