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memo:safari 5.1|← →|chrome 15 beta

前回のエントリーを受けて書いた memo から.  Chrome 15 beta のMac版だとスワイプすると矢印がでてページが戻ったり進んだりするのが興味深くて書いたのだけれど,どうもよくわからなかった.矢印の力はすごいなと思いつつ,それが行為と一致しないなかでも機能する.これらのズレを含んで自分に帰属しているという意識をもってしまうような,情報処理のプロセス.Chromeとユーザとの複合体による情報処理プロセスが生じている.なんかオリジナルな感じがするんですよねー.現実を模していない,行為をしているけれども,それを見ているだけにもなっているヒト.見ているだけでありながら,自分が行った行為をコンピュータが続行してしてくれている.しかも,自分の行為とは異なった方向で.行為の意図には沿っているけれども,そこから生じるイメージが異なるというか.異なると言っても,それはコンピュータ以前,ヒトと道具とのあいだでは想像出来なかったというだけで,今は実際に目の前に起こっている.それを受け入れている.

safari 5.1|← →|chrome 15 beta

イメージ
safari のウェブページを進めたり戻したりするときのアニメーション.指に吸いついてくるような感じで,ウェブページをスワイプすることができる.「進む・戻る」ボタンの矢印とは逆の方向に指を払うことになるのだけれど,そんなことは関係なしにすんなり受け入れることができた.アニメーションを入れることで,指とページがつながり,ページが自分の延長となっているような感じだろうか. chrome も2本指のスワイプでページを戻したり進めたりできていたのだけれど,今まではアニメーションなどの手がかりがなかったので,とても違和感があった.3本指でのスワイプでは「進む・戻る」ボタンの矢印と同じ方向に指を払えばよかったのだけれど,2本指では逆になる.どっちがどっちかわからなくなることがよくあった.それが chrome 15 beta では,2本指でスワイプする時に「進む」なら「→」,「戻る」なら「←」が画面の中央くらいに表示されるようになった. 矢印の表示が指の動きとは別の方向を指し示していることは変わらないが,自分が何をやっているのか迷わなくなって,断然使いやすくなった.手の動きと矢印の方向の一致よりも,アニメーションで動く矢印が示す方向に私の意識は向かっているのだろうか.しかし,上の映像のように手の動きと独立したかたちでみると,矢印の動きとその向きが逆になっていることに何となく違和感を覚える.矢印の向きよりも,指と矢印のアニメーションが一致していることが重要なのかもしれない.自分の身体として矢印を捉えて,思考は「←」もしくは「→」が示す向きに制御される.身体と思考とのあいだに微妙なズレがあるのだけれど,身体とアニメーションによって動く矢印とが一体化することの心地よさによってズレが回収されている.そうして,ページは自分の延長となる. safari はページを直接操っているような感じを身体と一体化したアニメーションで 作っているが,chrome は何だろうか.今までの3本指でページをスワイプしているのとも違うし,もちろん safari とも違う.iPhone のロックを外すような感じが一番近い気がする.ここではロックを外すのではなくて,ページを進めたり戻したりしているのだけれど.いや,一回一回ロックをはずして,ページを進めたり戻したりしているのか...

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」を考えてみるー.レイヤーは横からの見る.最前面ー最背面は上からしか見ることができない.視点の移動がない.垂直構造・統合.視点の移動がないから,そこに重なりが起こっているのかどうか,重ねてみなければ分からない.イラストレーターのオブジェクトの重なりのように.オブジェクトの重なり順はレイヤーのようにすべてを見渡すことができない.レイヤーはマノヴィッチを始め,多くの人が言及しているので,そこの知見を応用しながら,次を考えるために「最前面ー最背面」のあり方を探っていくことはできるだろうか. カーソルはつねに最前面にあり,デスクトップは最背面にある.そのあいだにフォルダが置かれている.「アクティブ」なウィンドウとそうではないウィンドウの重なり.「レイヤー」というとひとつの層すべてを覆うかたちで次の層があるが,「最前面ー最背面」では一部は重なっているが,そうでないところもある.ここにひとつの違いがあるのかもしれない.

メモ:「もうひとつの」→「ひとつの」

「私がこれ」「私はこれ」「これが私」「これは私」.三人称と一人称との往還から生まれる四人称.それはヒトとモノだけの人称だけではなく,コンピュータという新しい思考を含んだ「もうひとつの」人称といういう意味での四人称の設定.   「もうひとつの」という言葉示すリアリティを得ることが大切だと思う.「もうひとつの」ということが常にどこかに現れてくるような世界に生きているというリアリティ.「もうひとつの」と,そこから帰結する「ひとつの」という言葉が示すリアリティを考える.

「私」⇄「あなた」⇒「四人称」

「YouTube」では「私」が「あなた」となり.「Wii」で「私」が複数となって拡張していき「あなた」を呑み込んでいく.コンピュータを介すことによって,「私」と「あなた」の絶え間ない入れ替えが行われていく.さらに考えると,「YouTube」で「You」と呼ばれるのがヒトだとすると,ここでの「I」は,コンピュータによって構築されるシステムということになる.「私」=コンピュータは,いつでも「あなた」=ヒトを受け入れますよという状況が発生している.複数の「私」がシステムである「私」を作り上げ,「あなた」になる.ここでは,今まで確固とした中心であった「私」がひとつの「あなた」になっていると考えられる.そしてまた,個々の「あなた」となったヒトがシステムである「私」を通して,別の誰かと結びつき複数の「私」となり,それが再びシステムを介してその中の「あなた」になるといった感じで,コンピュータを介して,ヒトとの結びつきを繰り返す中で「私」と「あなた」を絶えず行き来して,その領域を拡張しいった結果として,そこには外部がない「四人称」的意識が生じると考えられる.

「最前面|最背面 on レイヤー」みたいなメモ

最前面と最背面をもつ垂直構造.最前面と最背面のあいだには少なくともひとつの面があるはずなので,最小では3層構造.面と層とのあいだにはちがいはあるのかもしれないと思いつつ,とりあえず進めていく.レイヤーのなかで,それぞれ最前面と最背面があるとすれば,「最前面|最背面 on レイヤー」みたいな感じかもしれない.最前面にカーソルがあるとすれば,最背面には何があるのだろうか.データかなとも考えていたけれど,この面がレイヤーに載っているとすると,もっと考えなければならない.それはカーソルの先に何があるのかということで,カーソルがなくなったときには,その「先」だけがのこるわけだから,よりわからなくなっていくような気がする.

「四人称」のためのメモのためのメモ

アイヌの人は自然に対して,私たちとは違った感覚をもっていて,そのために一人称を含んだ三人称という「四人称」を持っていた.私たちの時代には「情報としての自然」という,もうひとつの自然がある.その主な生態系がインターネットであるとすれば,そこの自然に対しても「四人称」が発生することがあるかもしれない.もうひとつの「四人称」が発生する時代.人称を自由に設定することで,リアリティが生じる時代.

メモのメモのメモそのまたメモ

僕はエキソニモの作品を使って「カーソル」がメディアを跨いでいることを示そうといて,それは今までのトランスメディアがメディアを水平方向に並べてその枠を移動しているイメージだったのが,カーソルはメディアを垂直方向にひとつ層を重ねることで起こっている → なんてことを言おうとしていました.そこにグリッチを組み込むと,カーソル|映像|データという層の最背面の部分でのメディアの破壊というか,すべてを壊してしまうような可能性があるのではないかと,つらつらと思ったので,...…

memo20110901+:インターフェイス・リアリティ→インターネット・リアリティ!?

学生CGコンテストのUstream  を見ながら,ふと「インターフェイス・リアリティ→インターネット・リアリティ」ということが思い浮かんだ.インターフェイスが作り出してきたリアリティと,インターネット・リアリティはつながるのか,それともつながらないのか. カーソルを置き去りにスクロールするLion.ここではもうリアリティは変わっている.今のインターネットとともに歩んできたGUIによるリアリティ,マウスとカーソルとのつながりと,そこにあるウィンドウの関係で培われてきたリアリティ.このリアリティはインターネット・リアリティにつながるのか. カーソルのリアリティもよく考えられてこなかったので,その延長でインターネットのリアリティを考えることもやられていない.衰退していっているかもしれないカーソルのリアリティ.衰退していっているからこそ理解できるようになっているカーソルのリアリティ.そこの部分とインターネット・リアリティをつなげてみるとどうなるのか. 傍観者でありながら,直接触れるカーソル.カーソルのこのねじれがインターネットのリアリティをねじまげる.どんなふうにねじ曲げているのかはわからないけれど,とにかく一筋縄ではいかない気がする.コンテンツのリアリティではなくて,インターネットのリアリティ.もちろんコンテンツの分析も必要だけれども,そのコンテンツを生み出している大枠を捉える必要があると思う. ブレンダ・ローレルが演劇のメタファーで捉えたインターフェイス.演劇に「第四人称」を与える外山滋比古.インターフェイスは「第四人称」となるかと思えば,そこでのユーザは当事者でもあるから,傍観者として位置づけられる「第四人称」にはなることができない.けれど,ユーザは傍観者なのではないのかと考え直してみる.インターフェイスではすべてが仕組まれているとすれば,それは当事者でありながら,自らの行為を他人の行為のように眺めるしかない,カーソルを自分の延長のように感じながら,単なる映像とも見なしてしまうような傍観者的な立場にいるのかもしれない.そして,この当事者でありつつ傍観者でもあるような「第四人称」でもあるというのが,インターネット・リアリティを考えるヒントがあるかもしれないと思いつつ.