投稿

5月, 2011の投稿を表示しています

スライド:情報美学概論A 第3回|ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1945ー1984

イメージ
東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 第3回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1945ー1984→ スライド 年表みたいなもの ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1945ー1984 ( メディアアートの教科書 の年表をもとに作成) 関連するメモ メディアアートはさらに夢をみるのか? 参考資料 書籍 思想としてのパソコン サイバネティックス 第2版―動物と機械における制御と通信 パソコン創世「第3の神話」―カウンターカルチャーが育んだ夢 新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来 人工現実―インタラクティブ・メディアの展開 (アジソン ウェスレイ・トッパン情報科学シリーズ) アラン・ケイ (Ascii books) 映像 FIRST COMPUTER ENIAC Ivan Sutherland : Sketchpad Demo (1/2) IBM 360 Programming the PDP11, part 1 of 4 Experiments in Art and Technology (E.A.T): Nine Evenings Doug Engelbart 1968 Demo - 4 of 9 Xerox Alto Computer Myron Krueger - Videoplace, Responsive Environment, 1972-1990s Videoplace (1985)

スライド:映像文化 第3回|映画:1つのスクリーンに映る映像をみんなで見る

イメージ
愛知淑徳大学:映像文化 第3回 映画:1つのスクリーンに映る映像をみんなで見る→ スライド 参考資料 書籍 情報映像学入門 (情報メディア・スタディシリーズ) メディア論―人間の拡張の諸相 狩猟と編み籠 対称性人類学2 (芸術人類学叢書) 映像学・序説―写真・映画・テレビ・眼に見えるもの テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説 映像 クレショフ効果 エイゼンシュタイン,戦艦ポチョムキン 10ミニッツ・オールダー コレクターズ・スペシャル [DVD] ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD] -- 「クレショフ効果」は,まったく実証されなかった.私たちの映像に対する感覚は変わっていくということを実感した瞬間だった.あと,「 名古屋シネマテーク 」はまったく知られていなかった.

スライド:映像文化 第2回|「見る」映像と「使う」映像

イメージ
愛知淑徳大学:映像文化 第2回 「見る」映像と「使う」映像→ スライド 関連するメモ メモ:「見る」映像と「使う」映像 参考資料 書籍 瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方 ゴダール的方法 The Language of New Media (Leonardo Books) ニコニコ動画が未来をつくる ドワンゴ物語 (アスキー新書) 不完全な現実―デジタル・メディアの経験 映像 原発避難区域は犬や牛の群れが闊歩する無法地帯に 映画『ゴダール・ソシアリスム』予告編 東北地方太平洋沖地震発生時の全テレビ局同時マルチ映像 三大弾幕動画集 スーパーマリオブラザース(クリア最速タイム?) B767フルフライトシミュレーター 体験ツアー

スライド:情報美学概論A 第2回|情報美学とは?

イメージ
東京藝術大学  芸術情報センター :情報美学概論A 第2回:情報美学とは?→スライド 関連するメモ ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだを考えるために、帰省のバスの中で書いたメモ 5層のレイヤー 参考資料 人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice) 情報美学入門―基礎と応用 アートとコンピュータ―新しい美術の射程 アルゴリズムとしてのアート,山形浩生 Avant-garde as Software, Lev Manovich New Media from Borges to HTML, Lev Manovich 思想としてのパソコン エキソニモ×ドミニク・チェン「仮想世界のリアリティとは」 ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書) Interacting with an interface, or what happens when you switch on LG Chocolate., Lev Manovich Criticism as an Approach to Interface Aesthetics, Olav W. Bertelsen, Søren Pold 写真とは何か?「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」 ホンマタカシB,平倉圭

メモ:インタラクティヴィティとメタファー(2)

イメージ
前に書いたメモ 「掴む」行為と「指し示す」行為とを組み合わせた「マウス+カーソル」から生じる新たなインタラクションに基づいて,0から新しい身体感覚を作り上げた.組み合わされたふたつの行為がヒトの基本的行為であることと,0からの立ち上げゆえに,GUIはヒトとコンピュータとの共進化の実験の場であり,その成功から共進化を促進したと考えれる. メディアアートとコンピュータのユーザ・インターフェイスはともに,メタファーを使ってヒトの身体をコンピュータの論理世界を入れ込んでいった.その際に,メディアアートは慣れ親しんだ身体をそのまま用いたインタラクションを創造したのに対して,インターフェイスはマウスという新しい道具に対応した身体を用いた,新しいインタラクションを創造した.メディアアートは目に見えている身体行為をそのままコンピュータの世界に移行するためにメタファーを物理的インターフェイスに活用している.インターフェイスにおけるメタファーは,身体感覚の深層の領域,身体スキーマと呼べるような基本的な図式を,ヒトの世界からコンピュータの世界へと移行した. メディアアートはヒトとコンピュータとのあいだの情報のあり方を「個別化」し,インターフェイスはそれを「汎用化」した.「個別化」といっても,それは元々のヒトの行為のあり方を,できるだけ現状を保ちつつ,コンピュータに移行させたもの.対して,GUI には,一度まっさらな平面を作り、そこから新しい驚きを作ろう,という感覚があるように思われる.つまり,「汎用化」は,マウスとカーソルという限定された道具環境で,ヒトが長いの歴史の中で蓄積してきた行為や感覚のあり方を一度0にすること.0から始めた結果.ヒトの行為とディスプレイ上のイメージを組みあわせ,様々な行為に適応させることができた. メディアアートとユーザ・インターフェイスは常に交わっているから,今では,ユーザ・インターフェイスが「汎用化」した感覚を,メディアアートが「個別化」して示すことで,私たちが築くことが難しくなっている,コンピュータと触れ合っているときの感覚を呼び起こしてくれるようになっているのではないろうか.

メモ:1998年から2010年のあいだとこれから

1998-2010年のあいだでのインターフェイス|メディアアート|インターネットを考える際に,Googleを中心に置いてみる.Googleが生み出しだ「信仰」は,膨大なデータを扱うことができる.すべてを「データ」としても扱えるということ. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69677517073686528 すべてが「データ」としても扱えると信じることで,「情報としての自然」というタイトルの展覧会が開催されたり,プログラムの変更が世界の変更でもあることをしめすようなエキソニモの《FragMental Storm》などが作られてきたのではないだろうか. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69678116519428096 そうした中で,2005年にGoogle EarthとYouTubeが出てくる.ひとつはまさに神の視点から地球を眺めるかのような体験を与え,もうひとつは多くの視点が地球をそれぞれの座標から見ているという状態をつくり出した.神の視点と間主観的視点の往来可能性. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69678914485755904 ネットアートで扱われていたプライバシーの問題が,Facebookのマーク・ザッカーバーグによって全世界的に実験され始めるようになった.アートではなく,インフラのようになっていっているシステムでのプライバシー実験.ザッカーバーグの信念に基づく実験はアートなのか? http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69679946687188993 2007年にiPhoneが発表されて「メタファー」に覆われていた仮想世界の世界が「リテラル」なものに移行していった.エキソニモの《断末魔ウス》は「メタファー」から「リテラル」への移行を示すかのように,カーソルというリテラルなインターフェイスの質感を示す. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69680982097264640 1998-2010年のあいだのメディアアートは,その前の世代の作品が身体を仮想にフィットさせようとしていたのに対して,身体的・感覚的に現...

メモ:1984年から1998年のあいだ

1984年から1998年のあいだ,ヒトとコンピュータとのインターフェイスはGUIから抜けだそうと,ユビキタス・コンピューティング,タンジブル・ビットというアイデアを実現していったが,それは研究レベルにとどまるものであり,一般に浸透するまでには至っていない.その間に,GUIは,Windows95 で爆発的に世界に広まっていく. インターフェイスがGUIから抜け出せないあいだ,メディアアートは自由にインターフェイスを次々と創り出し,新たな「インタラクション」を形にして作品化していった.それの多くは「 教科書 」と名付けられた書籍に載せられている.ある意味この時期のメディアアートは,ヘッドマウントディスプレイを装着して,仮想世界と現実世界とを自由に行き来するといったような,大きな夢をもってきらきらと輝いていた「黄金期」だったとも言えるかもしれない.けれど,この時期のメディアアートにおける「現実世界」と「仮想世界」は,身体が存在する「現実世界」と探求すべき「仮想世界」とに明確に分離しており,それらがひとつに融合していっている2011年からみると,ある意味面白みのない世界観に思える. 「黄金期」の作品にあるのは,「仮想世界」とのインタラクションだけであり,決して「現実世界」に存在する私たちの身体には何も影響を与えていないのではないか.この時期のメディアアートは「仮想世界」をあらゆる手段で探索していたが,その間,多くの人はGUIやテレビゲームで,マウスや十字キーのコントローラといったメディアアートから見れば不自由なインターフェイスによる貧しいインタラクションで,「仮想世界」をその存在を意識することなく日常的に探索し始めていたと考えられる.この日常的な探索が始まったからこそ,メディアアートが特別な「アトラクション」として輝いたのかもしれない. ネットはGoogle以前であり,まだ生態系が生じる前のカオスな状態であるともいえる.だからこそ新たな表現の場としてネットアートが盛り上がっていた.今ではもう見ることができない作品があることが,ネットアートの物質性の希薄さゆえの儚さを具体的に示すとともに,場所性がないがゆえに,どこでも,そして恐らく,いつでも見られるというネットアートの理念との齟齬を示していて興味深い.