投稿

8月, 2009の投稿を表示しています

Seeing the ‘light-colour’ seduces a new kind of touching

When we use a computer, what do we do? Almost all of us look at some image on an electric display, grab and move a mouse, and type on a keyboard, then our right hand holds the mouse in order to point to an image called an icon on the display. This is very 'natural' for us; if our body makes some actions, then the images on the electric display change. However, this relationship between our body and the image did not exist until the computer, and especially until the Graphical User Interface, appeared. I call this phenomenon 'Display Acts': the action formed by connecting our body action with the change of images on the electric display. (Mizuno, 2009) Through living with the computer, we have acquired new actions in order to inhabit this new image world. In other words, 'Display Acts' is the first step for our new actions in the man-computer world. I have already discussed ‘Display Acts’ on the first computer graphic system, Sketchpad, concerning the action of ...

the new realm of tactility with the 'light-colour' entity and the smooth materiality

After seeing 'light-colour' for a long time, we just begin full-scale investigation for the new realm of tactility with the smooth materiality. David Katz writes, メWhat has been touched is the true reality that leads to perception. [Emphasis in original] (Katz, 1989, p.240) We re-train our body with the smooth materiality in order to touch and generate new reality of 'light-colour'. Before, we touch something physical in order to feel the weight (in the flow of cause and effect). Now, we touch something smooth in order to give the weight to the 'light-colour' entity (for making its smoothness in the information flow). This demand us to believe our bodyユs weight and density in the 'light-colour' world. And this belief creates new diverse bodily sensations in ヤDisplay Actsユ.

fluid-solid body

We can say that the body as substance is sometimes ‘not there’ in everything smooth. Our body is fluid-solid like a plastic in smooth information flow.

Light, Plastic, Apparent motion: The ability to recognize the ambiguity of ‘not there/be there’ in the video game

This paper investigates what we experience in the video game. When we play the video game, we not only see the video image on the display but also touch the game controller. Therefore, we need double description of seeing and touching in order to make clear what the video game experience is. In order to make the double description, I focus on the light, the plastic and the apparent motion because they are fundamental components of seeing and touching in the video game; the light makes the video image which we see, the plastic makes the game controller which we touch and the apparent motion makes ‘motion’ in the flashing lights which we see again. The light has no materiality but we feel fresh on the video image. The plastic leads us to the loss of recognition for the material, but there is the shape and color which we can touch and see. The apparent motion has no physical motion but just ‘apparent’ motion. The characteristic common to all these three is ‘presence in absence.’ Therefor...

shape is vanished in the electric light

It is a very strange situation. When dark, we can't see anything, but the electric display does not matter because it radiates the light. In the dark room, we can not see anything. But the image made of the electric light, which is the electric display, is vivid for us to see. Not there. Be there. We can believe 'not there'. We can believe the color without the shape in the electric light. It changes everything. We have not been able to touch the color until now. Now, we can touch it. Maybe, it is virtual. But we can believe it. The shape vanishes. It means that the material vanishes. There is no material in the electric light. There is only the color. We should re-consider the relationship between the color and the shape in the electric light. The color achieves autonomy. Electric light merges figure and ground, light color, contour, no contour, color and shape; A shape vanishes in the electric light.

私たちの身体が情報の過程のどこにあるかを考えるための参考文献(途中)

環境知能のすすめ システム現象学 物質と記憶 基礎情報学 基礎情報学(続) クラウド化する世界 Digital Ground Where the Action is? デジタルサイネージ革命 パターン,wiki,xp 社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム アーキテクチャの生態系 自分で考える本 「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学 インタフェースからインタラクションへ Designing Interactions

「ビデオゲームにおける「ない」けど「ある」という曖昧な認識」の参考文献・ULR

参考文献・URL Barthes, Roland. Mythologies, Paris : Editions du Seuil, 1957.(=2005, 下澤和義訳『現代社会の神話 1957:ロラン・バルト著作集3』みすず書房) Bateson, Gregory. Mind and nature : a necessary unity, London : Wildwood House, 1979.(=2006,佐藤良明訳『改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論(普及版)』新思索社) Dagognet, François. La Maîtrise du Vivant, Paris : Hachette, 1988.(=1992,金森修・松浦俊輔訳『バイオエシックス──生体の統御をめぐる考察』法政大学出版局) 藤幡正樹『カラー・アズ・コンセプト──デジタル時代の色彩論』美術出版社,1997年 藤幡正樹『不完全な現実──デジタル・メディアの経験』NTT出版,2009年 Goodman, Nelson. Ways of Worldmaking, Indianapolis : Hackett Publishing Company, 1978(=2008,菅野盾樹訳『世界制作の方法』筑摩書房) Huhtamo, Erkki. Tactile Temptations: About Contemporary Art, Exhibitions, and Tactility In Interface Cultures: Artistic Aspects of Interaction, edited by Christa Sommerer, Laurent Mignonneau, Dorothee Kin, 129-139. New Brunswick ; London : Transaction Publishers, 2008. 北野圭介『映像論序説──<デジタル/アナログ>を越えて』人文書院,2009年 小町谷朝生『色彩と感性のポリフォニー 』勁草書房,1991年 Lakoff, George and Johnson Mark. Metaphors we live by, Chicago ; London : University of Chicago Press, 1980...

「ない」けど「ある」を納得できる感覚を示すメタ情報

ビデオゲームが触れるメディアの最有力の領域になっている要因が,光の画面に密接に寄り添うと同時に,私たちの手にフィットするように工夫されたプラスチック製のコントローラの存在である.私たちの手元にあるコントローラは,画面上のキャラクターと一体化するためのものである.私たちとキャラクターが一体化している際に,コントローラの存在は忘れられる.忘れられることが一番大切なのだ.その際に,プラスチックの認識不可能性が大きな役割を果たす.触れているものは認識できないが,目の前の映像は理解できる.その時に,コントローラを触れているという触感は,映像へと投射される.この投射が,映像に触れているような感覚をもたらす.私たちは,映像を見ることで,今自分が何に触れているのかを認識するのであって,手元のコントローラからではない.手にフィットしたコントローラはその存在がなくなる.映像と結びついたプラスチックは,物質という認識から離れ,映像との関わりの中ではじめて認識されるものなのだ.つまり,コントローラを含めビデオゲームを構成するプラスチックは自らが認識されることを,映像に委ねているのである. 光に触れるためには,物質に触れなくてはならない.しかも,それは光に触れるという未知の体験に適応した物質でなけば,拒否反応が起こってしまう.そこに,私たちの物質への認識を一度リセットしたプラスチックという「変質した実質」が差し出される.プラスチックは,私たちの体内に拒否反応なしに入り込んだように,成型の自在さを駆使して,光の世界に入り込んでいく.プラスチックの薄い膜が,私たちを手で直接魚や肉を触れたときのヌメッとした感じから遠ざけてくれるように,私たちの物質の認識を一度リセットするプラスチックは,光の明滅が作り出す映像から生じる物質がそこにそのままあるような「生ぽっさ」と,それが光で形成されてるがゆえの「物質感のなさ」というふたつの状態から程よく距離をとってくれる.プラスチックという認識不可能性を示す物質は,光の明滅と仮現運動が作り出す「動き」と一体化して,自らの認識の可能性を映像に委ねる.映像に自らの認識を委ねたプラスチック製のコントローラは,映像との心地よい一体感の中で,「ない」けど「ある」を納得できる感覚を示すメタ情報を,私たちに与えてくれる.

3つの比較

イメージ

「ある」と納得しかけたときの感覚は残る

「ない」ところに「ある」が生まれる. 光と仮現運動との関係. でも,それは,もともと「ない」ものである. 物質との関与がない. 光と仮現運動との関係に,プラスチックを入れ込む. プラスチックも, 認識を促す要素は「ない」が,形は「ある」ものである. そこで,光と仮現運動との関係に,同じ構造をもった物質が関わってくる. 「ない」けど「ある」けど「ない」を, 見るだけでなく,触れてみて,また見ることで, そこにあるものが,「ない」体験でありつつも「ある」ものとして一度納得しかけて, やはり「ない」となる.一度,分かってしまうとなるところで, 新たな感覚が生じる.そこで認識している対象は,また「ない」の方へ行ってしまうのであるが, 「ある」と納得しかけたときの感覚は残る.

光,プラスチック,仮現運動

イメージ
光の明滅で構成される仮現運動を見ながら,プラスチックに触れるということ.このことが意味するのは,<動き>の中で,光と物質との間を常に行き来することである.物質性は「ない」けど,<生っぽさ>が「ある」光の明滅と認識を導く要素が「ない」 けど,物質としての形は「ある」プラスチック.この2つが交わるところに生じる,物理的な運動は「ない」けど,見かけの運動が「ある」仮現運動が,常に「動き」を生成している.ここには,常に何かが「ない」まま,「ある」が生じている.光の「ない」けど「ある」.物質の「ない」けど「ある」,<動き>の「ない」けど「ある」.これらの「ない」と「ある」をつなげていくことで,ビデオゲームは成立している.映像だけでもなく,コントーラだけでもない.それは,見ているだけでも,触れているだけでもなく,これらがつながることによってはじめて成立する領域なのだ.「ない」けど「ある」けど「ない」という流れが動き続けること.「ない」けど「ある」へ,そして,「ある」けど「ない」へ.この流れを淀みなくなめらかにすることによって,プレイヤーとキャラクターの「心地よい統一感」が生み出される.同時に,この流れが,未生の感覚を生み出す回路でもあるのだ.

なめらかさをめざして

 光の明滅を見ながら,プラスチックに触れるということから,何が生じるのか.ここには従来とは異なる世界が広がっているという予感.それが<ワープ>という表象である.パックマンは,左の通路から右の通路に瞬間的に移動するにも関わらず,私たちはそれをとてもなめらかな動きの中に見てしまう.右から左へ,左から右への移動がとてもなめらかなのである.恐らく,ここには「なめらかさ」を基準にした世界がある.マウスを動かして,思ったよりもカーソルの動きが遅いとき,何かひっかかりを感じ,マウスが重たく感じる.私たちの運動感覚も,重いものを動かしているような感覚を示す.ビデオゲームのおいて,操作がスムーズに行えるかどうかという基準がある.それは言語化できるものではないが,私たちは確かにそのなめらかさを感じている.それは映像とコントローラとの間の感覚を行き来をスムーズにしていくことである.なめらかな領域を確保することと抵抗とのバランスであり,私たちは光の明滅とプラスチックとを組み合わせることで,「なめらかさ」の基準を作った.同時に,その基準を構成する視覚と触覚との新たなつながり,前感覚的なリンケージも形成したといえる.  そして,新しい身体行為をゲームやヒューマンインタフェースにとりいれていくこと.そのために生じるなめらかさの変化.その変化に対応するために,よりなめらかなものを求めた結果として,プラスチックが担ってきた機能を代用する物質がでてきている.そこでは,マルチタッチのためによりなめらかな表面を提供するためのガラス,3次元のゲーム空間に対応するためにひっかかりを求めた結果としてのシリコンゴムなどといった物質が使われている.それは,物質だけのなめらかさだけでなく,ディスプレイ上の光の明滅と物質との関係から,私たちの身体がよりなめらかに感じ,動けるようにするためである.なめらかさという前感覚的な領域へのアプローチは,デジタルだけでなされるものではなく,映像と物質を含めたつながりによって可能となるのである.そのつながりから,私たちの身体に未生の感覚が生まれ,それはゲームをプレイしていたり,コンピュータを操作しているときに,自然と受け入れているものなのである.