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お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_3

記事を書きました→ データ流通に関する2つの事象:《Dead Drops》と「Art.sy」 このブログでも一度取り上げたことがあるアラム・バートルのオフライン・ファイル共有のプロジェクト《 Dead Drops 》と,アート紹介サイトの「 Art.sy 」についてです. バートルを取り上げたエントリー: [インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06

「Retinaディスプレイに触れる」というのは…

「Retinaディスプレイに触れる」というのは「網膜に触れる」ということであって,面白なと思っています.コンピュータのディスプレイにおいて「見る」と「触れる」の問題があるのと考えているのですが,それらが文字面において直結してしまった感じ.で,「Retinaディスプレイに触れる」という時,「実際には何に触れているのか」ということを考えてみたいのです.そんなことを書くとすぐに「ガラス」に触れているとツッコまれますが,それはもちろんそうだけれども,もう少し考えてみようということです.まずはアップルのサイトからiPhone4SとあたらしいiPadにおけるRetinaディスプレイの説明のテキストを引用します. Retinaディスプレイなら,iPhone 4Sで見るもの,体験するもの,すべてが驚くほど美しくなります.Retinaディスプレイはピクセル密度がとても高いので,人間の目ではひとつひとつを識別できないほど.ゲームも,ビデオも,写真も,画面から飛び出しそうなほど生き生きと映し出されます.本,ウェブページ,Eメールのテキストは,どんなサイズでもくっきりと鮮やか.見るものすべてが,いっそうシャープになります. 新しいiPadを手に取った瞬間,すぐに気づくでしょう.あなたの指は本当に写真に触れ,本当に本のページをめくり,本当にピアノを弾いているのだと.あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません.実際に体験することをさらに魅力的なものにするために,ディスプレイ,カメラ,ワイヤレス接続機能といったiPadの基本になる重要な要素が一段と進化しました.そして生まれたのが,あなたの想像をはるかに超えたことまでできる,新しい第3世代のiPadです. 「ピクセルが識別できない」というのが「Retinaディスプレイ」と言われる所以であるとすれば,「Retinaディスプレイに触れる」というときに,ユーザはヒトの眼の限界を超えたものに触れているものになるわけです.ピクセル単位で操作を行うことはほとんどないにしても,識別できないものを操作している,しかも実際に触れながら操作しているというのは興味深い. iPadのテキストでは,「ピクセルが識別できない=本当に〇〇に触れる=あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません」となっていま...

巨大化したアイコンをスクリーンショットで撮る

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Domain Gallery で Emilio Gomariz の個展 External/Internal が開催されています. Emilio はMacOSXのデフォルトの機能を使って作品を作っていて,今回はアイコンを巨大化して配置した作品を展示しています. E/I S02 Screenshot. PNG. Original size: 1920x1200 px. 2012. 「Finder」で「⌘J」を押すとアイコンサイズを変えれて,最大サイズにするとEmilioが展示しているようなアイコンになる.アイコン下に通常表示されている「名前」はどうやって消すのかわからないのですが,アイコンだけは誰でも巨大化できます.それだけでも新鮮です. アイコンが巨大化することで,単なるイメージでありながら若干のモノ感が出てくるところが面白い.Domain Galleryの説明文にも「彫刻的[sculptoric]」という言葉があります. 内蔵ハードディスクや外部接続のUSBメモリなどを示す「アイコン」を巨大化して,彫刻を作るみたいに積み上げて,そのスクリーンショットを撮る.アイコンは「イメージ」で,それを「モノ」のように扱って,最終的にスクリーンショットを撮って「イメージ」にする.あいだにある「モノ」も実際は「イメージ」であるわけだから,始終一貫して「イメージ」なのですが,どこかしら「モノ」感が作品から漂うところが面白い. ギャラリーの説明文に「物理的なハードウェアの存在とそれを示すデジタルな視覚的な表象」という言葉があって,「確かにそうだよね」ととても納得しました.この作品はOSXの機能を使っているわけだから,スクリーンショットで撮られているデスクトップ上にあるアイコンは,実際にパソコンに内蔵されているハードディスクと紐づけられたものだし,USBポートにフラッシュメモリが接続されている状態を示しているわけです.こう考えると,内と外とが突然繋がる感じがありました.そして一度このように考えはじめると,内蔵ハードディスクの方はパーティションを分けているのかなくらいですが,外部の方はどうなっているのだろうと思うわけです.もしかしたら,外部のメモリやハードディスクは実際に積み重ねられているのかもしれないわけです....

[GIF]ボタンに納得がいかない

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iPhoneのtumblr公式アプリには[GIF]ボタンがある.こんな感じのやつ.これがとても気になる. [GIF]ボタン この[GIF]ボタンを押さないと,アニメーションが再生されない.GIFアニメーションが勝手に再生されないから,ちょっと調子が狂う.ひと目で「GIF」だということはわかるけれども,勝手に「再生」されないというか動いていないので,[GIF]ボタンをタッチしてようやくアニメーションを楽しむことができる. GIFアニメーション以外の動画には[▷]ボタンがついている. [▷]ボタン GIFアニメーションは他の動画とは「違う」ことになるが,ボタンを押さないと「動画」を楽しめないという点では同じになっている.GIFアニメーションは[GIF]ボタンを押すとその場で「再生」されるのに対して,他の動画はページが遷移する. その場で動くGIFアニメ 画面遷移 その場で動くから[GIF]ボタンにしたのかもしれないし,ボタンを押した後は短い映像が延々とループするから,YouTubeに上がっている映像などとは区別したかったのかもしれないけれど,GIFアニメーションを見るためにいちいちボタンを押すのは,なんか納得がいかない.GIFアニメは画面に現れた時点で,有無をいわさず動いていて,それも延々とループしていてなんとなくウザイ感じがいいのに,再生のためにユーザにお伺いを立てるGIFアニメーションなんて,GIFじゃない. しかし,tumblrはなぜに[GIF]ボタンを設置したのか? 素人考えでは,iPhoneの限られた処理能力をやりくりするためだとは思うけれど,もっと深遠な理由があるのかもしれない.なんといってもtumblrである.画像流通に関して大きな変革を遂行しているともいえるtumblrが,なぜにGIFボタンを設置したのか.あまりにもGIFアニメがウザイとクレームが来たのか.それとも「動画」としてカテゴライズさせたかったのか,そうだとするとなぜ[▷]ボタンにしないかったのか.[▷]を押して,GIFアニメーションだったときのガッカリ感を軽減するためのなのか. tumblrのダッシュボードを流れてくるGIFアニメーション.パソコンで見るときには,流れてきて画面内に入ってきた時には,既に再生・ループしている.ちょっと...

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06

近頃,「世代」ということが気になっています.と言ってもただ,次のふたりの誕生年が一緒だったというだけなのですが, エキソニモ の千房さんと作品集『 The Speed Book 』が面白かった アラム・バートル( Aram Bartholl )がともに1972年生まれなのです.アラムの『The Speed Book』に関してはCBCNETさんに「 オンライン/オフラインを交差するリアリティ – アラム・バートルによる数々の実験的なプロジェクトを収録した作品集がリリース 」という記事があります(作品写真もとてもきれいに載っているので是非読んでみてください)そのなかで,アラムの作品を含んだ状況の説明がされています. 彼の作品の多くが,インターネットが日常化した(もしくは陳腐化した)現代において,人々が感じるリアリティの変化やその質に注目したものだ.これは今年はじめにICCにて開催された [インターネット アート これから] 展でもテーマとしたポイントであったが,世界中でそういったテーマ性を持った作家や作品が登場している.これは一種のネット・アートの流れとして語られることが多いが,90年代のそれとは多様な変化(インターネット自体も含めて)を見せている.アラムの作品は,あるオブジェクト単体で完結するものではなく,そのシステムやキュレーション,場合によっては状況そのもの,など広範囲となっており,実空間に落とし込んでいる点が特徴的だ.本の中で,アーティストのEvan Rothは彼の作品はニューメディアアートより街で見かけるグラフィティのほうに共通項が多いとし,既存のシステムに入り込み,新たな価値を示す,という意味で「ハッカー」であるとしている. エキソニモも「ハッカー」的ということがよく言われます.じゃ,アラムとエキソニモを「ハッカー」というひとつの言葉で括って,同じように扱えるかというと少し違う感じがしています.ともに「既存のシステムに入り込み,新たな価値を示す」ことはしているけれど,以下のちがいがあるのではないだろうかと思っています. アラムはデジタルの出来事や存在を文字どおりそのままリアルに移植・もってくることで出てくる「ちがい」があたらしい価値を生み出す.  エキソニモはデジタルの出来事や存在から生じている私たちの感覚を抽出して,それをリ...

「\風景=風景」あるいは「システム=風景」

「風景」をめぐる2つの作品, 新津保建秀『\風景』 と ペトラ・コートライト 《 System Landscape 》を考えているけれど,考えれば考えるほど,広がりをもつトピックだなと感じています. 『\風景』では,ページをめくるごとに,意識がネットに行ったり,写真で撮られている「現実」にいったり,デスクトップ上のウィンドウに行ったりする.意識がフラフラする.この意識のフラフラが,最後にある「バックスラッシュ」の説明ですっきりする.「すっきりする」と言っても,写真を見ているときの意識がネットに行ったり,「現実」に行ったりする感じのすべてを理解できたわけではいのだけれど,「あぁ,そういうことか」と思う.池上高志さんが 美術手帖 に書いている「安定した解の存在しない関係式『\a = a』」によって,意識が落ち着く感じがある.今まで見ていたものが風景なのなか,デスクトップも風景なのか,そうしたことが「\風景」として無効化されて,その上でそれが「\風景=風景」となるという感じ. ペトラのときに書いたことでいうと,写真集の写真の隣接性によって意味がわからないけれど,とても強烈な結びつきを感じていたものが,最後の一文によってまとめ上げられて,意味を持つ感じ.これは言いすぎかもしれない,池上さんの「\a = a」という式によってこそ,まとめ上げられるというべきかもしれない.まとめ上げられるといっても,隠喩的なものではなくて,「\風景=風景」という直結回路ができた感じ.メタファーを経由しないから,デスクトップ・メタファーで特権的に位置にある「カーソル」が写真に写っていなくてもいいのかなと思えるようになった.以前は,「カーソル」が写っていないことに違和感を感じたのだけれど,今の解釈だと感じない. 新津保さんはインタビュー( アサヒカメラ2012年5月 :あたらしい「風景」をとらえるために,インタビュー 島貫泰介)で「ネットワーク内の膨大な情報は、第二の自然環境といえるのではないでしょうか。写真は見えるものしか撮ることができないけど、写真が持つ『フレーム』の意味を拡張することで現れる風景があるんです」と言っています.コンピュータのディスプレイに映っているもののスクリーン・ショットを撮ることで,「第二の自然環境」を撮影しているとすれば,ペトラの《System L...

お仕事:ヒューマンインターフェースの歴史 :「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ

TELESCOPE Magazine で「 ヒューマンインターフェースの歴史 :「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ 」という記事を書きました. タイトルのようにヒューマンインタフェースの歴史に関するテキストです.テキストのリード文です. 人間とコンピューターとが触れ合う場,それがヒューマンインターフェースである.マウスを使うとか、ディスプレイに触れるとかの行為だけにとどまるのではなく,これらの行為を通じて人間がより賢く,豊かになっていくひとつの環境なのだ.それゆえにヒューマンインターフェースは、これからの人間のあり方を決める大きな要素とも言える.このテキストでは人間とコンピューターとの関係を決定してきた「ヒューマンインターフェースの歴史」を概観する. 博士課程時代に「インターフェイス」について研究していました.そこではこんな博論を書きました.上のテキストで「インターフェイス」に興味を持たれた方に読んでもらえたらうれしいです. 博士学位申請論文「 GUI の確立にみる『ディスプレイ行為』の形成過程 」,名古屋大学大学院情報科学研究科,2009年1月  コンピュータがアナログからデジタルへとイメージの性質を変化させるだけではなく,道具の変化を促し,ヒトの身体的行為を変化させていることを考察した. GUI というディスプレイ上のイメージの変化ともに,ヒト行為とイメージとが結びつき「ディスプレイ行為」という新たな行為を形成したことを提示した. GUIというものを工学的視点ではないところから考えてみたかったし,今も考えています.近頃,「インターフェイス美学」というものが海外でちょっと盛り上がっているみたいです.私の論文もこういったところにカテゴライズされると面白いなと思っています.そして, Rhizome の記事「 Interface Aesthetics: An Introduction 」が「インターフェイス美学」についてコンパクトにまとめています. この記事を書いた JASON HUFF という人は,「 Beyond the Surface: 15 Years of Desktop Aesthetics 」という記事も書いています.