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紀要論文「《Layered Depths》が示す「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験」が公開されました

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紀要論文「《Layered Depths》が示す「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験」が掲載された 「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第61号」が刊行されました. 紀要論文の要旨です. 本論文は,ヨフの《Layered Depths》の考察を通して,「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験を明らかにするものである.ヨフによる作品説明を前提にして,《Layered Depths》の作品体験を考察していき,以下の3つの主張を行う.まず,彼らの作品の根底にあるコンピュータ以後のメディア体験が擬似空間と鑑賞空間との関係に変化を引き起こしていること.次に,《Layered Depths》が19世紀に生じた「映像を見る」という体験をひっくり返していること.最後に,コンピュータが「映像を見る」という体験に持ち込んだ仮想空間が映像を含んだディスプレイを「行為」の対象にし,擬似空間を鑑賞空間から独立させたこと.これらの主張を通して,映像体験が「見る」だけに留まらず,眼前の対象のより良い認知を求めて自ら変更していく「行為」を伴う主観的な体験になっていることを示す. 甲南女子大学の学術情報リポジトリに PDF が掲載されていますが,紙で読みたいという方がいましたら,以下のフォームから申込ください.抜き刷りを発送します.

「./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。」のシンポジウムに参加しました

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アーティストの 伊藤道史 さんの展示を中心にした「 ./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。 」というプロジェクトでのシンポジウムに参加しました.私が参加したのは,以下のプログラムです.とても楽しかったです☺️ ●Program.03 デジタル・オブジェクトの呼び声 3月15日(土) 19:00-20:30 水野勝仁(メディアアート研究者)× OBJECTAL ARCHITECTS (守谷僚泰+池田美月)× 宇佐美奈緒 (アーティスト)  発表に関するテキストとスライドはこちらです. 266:アイバン・E・サザランド「究極のディスプレイ」|1965年 を読みながら考えた 発表の振り返り OBJECTAL ARCHITECTSの池田さんが,360°カメラで撮影したディズニーランドの画像を見せながら,話したことが面白かった.池田さんは留学先でいきなりデジタル空間を移動する体験を叩き込まれたと言っていて,その体験もあって,360°カメラで撮影したディズニーランドを「知っている」と思ったということだった.360°カメラで撮影した画像は,明らかに私たちの視界とは異なるパースペクティブで世界を捉えるのだけれど,デジタル空間体験を叩き込まれたと言えるほどに身体に作用した状態だと,その異質な画像を「知っている」と感じる感覚が面白かった. 守谷さんが自分たちが手掛けた建築の事例を説明するときに「インターフェイスを介さない」という言葉を使っていて,とても面白かった.それは,私がインターフェイスに介さないで触れられる物理空間とそこにある物質というのが,実は特殊な状況なのではないかと考えているからであった.インターフェイスを介して,同一の情報を複数の視点から異なるものとして体験するということが,情報の体験という点ではノーマルな体験であって,インターフェイスなしで体験できて,同一性が保持される物質というのは,情報の体験としては異質な状態,もしかしたら,プリミティブな状態なのではないかと言えるのかもしれない.このように書くと,物質は情報ではないという反応は真っ先に来るだろうけど,そうではないよということを,アイバン・E・サザランドの「 究極のディスプレイ 」や渡邊恵太さんの『 超軽工業へ 』を引用しながら示したのが,私の発表だったということになる. この言葉がきっかけ...

映像身体論研究会での発表

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「ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界」から考えていることの発表資料 https://www.notion.so/mmmmm-mmmmm/19ca1dc0748180cd9ffbd5f17edd9051 映像身体論研究会の発表を終える.7年前の論文を紹介するというのは,7年という結構な年月をどのように処理していくのかというところを考え続けた,2週間くらいであった.小学校よりも長い年月を過ごしていると,自分の考えも変わっている,いや,考えというよりも知識が変わっている.いや,知識も含めた考えが変わっているというべきだろう.様々なことがリンクしていっているものを,まとめようとすると別の論文やテキストになるけれど,今回は,7年前に書いてテキストに戻るというか,そこをベースにするということは前提として決めていたので,あたらしいリンクを継ぎ足しながら,過去の自分の考えを辿っていくという体験になった.これはこれで面白いものであったけれど,聞いている方にしてみれば,あっちいったと思ったら,こっちに戻ってきてとわかりにくいところはあったと思う.でも,7年という年月を7年前のテキストを活かしながら,語るというのは,こういった,今と過去との間を行ったり来たりになるのではないかと思う.7年前をなかったことにはできないし,今をないものとしても扱えない.そのなかで,自分がどのように考えていて,考えてきたのかということを考える必要があったということになると思う. 発表を聴いてくれた皆様,うまく回答ができたかは心許ないですが,北出さんはじめ質問をしてくれた皆様,そして,発表の機会をつくってくれた難波さん,ありがとうございました☺️

メディア映像史 (2024年度水野担当分)の授業資料

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  今年度も 愛知県立芸術大学のメディア映像専攻 で「メディア映像史」を担当しました.15回中5回を「インターフェイスとともに考えるメディア映像史」という感じで,インターフェイスの歴史を振り返りました. 学生からのコメントから思考を刺激されることが多かった講義でした. 昨年度に比べて,だいぶシンプルになって,よりわかりやすくなったと思います.3回目で「カーソル」を扱うところは大幅に書き直しました.身体とカーソルとのつながりを考えつつ,重なるウィンドウについても考えが進みました.実装の仕方が間違っていたために訂正もありましたが,ウィンドウという1つのデジタルオブジェクトが「重なり」と「リスト」という2つの形式で処理されて,それをカーソルという「ここ」を示すデジタルオブジェクトが選択するということは,とても重要な感じがします.世界は1つではなく,複数の現れになるが,私の現れは1つであるということ.私は1つで,世界は複数である.そして,世界の複数の現れは,エンゲルバード曰く「n次元の情報」を制御できるコンピュータとは相性がいい.コンピュータは1つの私と2つ以上の世界の現れとリンクするののにちょうどいいメディウムとして,私の目の前にあるような気がしますということが,今感じられました. メディア映像史 (2023年度水野担当分)の授業資料 https://mmmmm-mmmmm.notion.site/19ba1dc0748180acb6b7d2ead28e8784?v=19ba1dc07481810795c5000cd25b16cb&pvs=4