神が現われる瞬間,感じるのは,畏れである/エキソニモ《神,ヒト,BOT》_作品単体編
「 大古事記 」展で展示されている エキソニモ の《神,ヒト,BOT》について書きました.今回は作品単体編です.この作品については,あとでエキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」からの流れでも書くつもりです. −− ヒトが発光している.ちかごろヒトはよく発光している.でも,そのことに気づかない.発光したヒトを見ているのに,それに気づかないのはそのヒトが「四角」の枠のなかに入っているからだ.「四角」の枠はそこにあるものを別の次元のものしてしまう.「それはそういったものだ」という感覚を見るものに与える. 「神」と言われる存在はよくそれ自体が発光していたり,後光がさしていたりしている.神々しくて,見ると目が潰れると言われたりするが,それはきっと光がまぶしすぎるからだ.太陽を見つめ続けると失明するのと同じ.ちかごろ発光しているヒトは神や太陽ほどは激しくは発光していない.ディスプレイは 明るすぎない光 でヒトを惹きつける.そのこともヒトが発光していることを気づきにくくしている.しかし,様々なサイズの四角いディスプレイのなかでヒトは神のように発光している.エキソニモの千房けん輔はブログで次のように書いている. 大きめの液晶地デジテレビを買った直後,部屋の中でニュースキャスターと相棒が同じくらいの大きさで並んで見えた.このときに、その二つが全く違うものだって強く感じた.一番の違いは,キャスターが自ら発光しているところだった. センボーのブログ:最近ふと思ったこと ここでは大きさが同じになったことから,ヒトの発光の有無が際立っているが,エキソニモの作品《神,ヒト,BOT》は発光するディスプレイを塗りつぶすことによって発光しているヒトを際立たせた.赤,緑,白,黒一色に塗られたヒトが直立不動でディスプレイに映されている.ディスプレイでヒトが映されていない部分は身体に塗られた色で塗りつぶされている.なので,ディスプレイが光っているのではなく,ヒトが光っているように見える.あるいは,発光し続けているにも関わらずモノ感が希薄なディスプレイのモノ感が塗りつぶしによって際立っているとも言えるだろうか. ヒトとディスプレイの境界が揺れている.それはそこに映っているヒトが静止画ではなく動画だからである.ヒトは直立不動だが完全に動きを止めることはでき...