投稿

10月, 2014の投稿を表示しています

神が現われる瞬間,感じるのは,畏れである/エキソニモ《神,ヒト,BOT》_作品単体編

イメージ
「 大古事記 」展で展示されている エキソニモ の《神,ヒト,BOT》について書きました.今回は作品単体編です.この作品については,あとでエキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」からの流れでも書くつもりです. −− ヒトが発光している.ちかごろヒトはよく発光している.でも,そのことに気づかない.発光したヒトを見ているのに,それに気づかないのはそのヒトが「四角」の枠のなかに入っているからだ.「四角」の枠はそこにあるものを別の次元のものしてしまう.「それはそういったものだ」という感覚を見るものに与える. 「神」と言われる存在はよくそれ自体が発光していたり,後光がさしていたりしている.神々しくて,見ると目が潰れると言われたりするが,それはきっと光がまぶしすぎるからだ.太陽を見つめ続けると失明するのと同じ.ちかごろ発光しているヒトは神や太陽ほどは激しくは発光していない.ディスプレイは 明るすぎない光 でヒトを惹きつける.そのこともヒトが発光していることを気づきにくくしている.しかし,様々なサイズの四角いディスプレイのなかでヒトは神のように発光している.エキソニモの千房けん輔はブログで次のように書いている. 大きめの液晶地デジテレビを買った直後,部屋の中でニュースキャスターと相棒が同じくらいの大きさで並んで見えた.このときに、その二つが全く違うものだって強く感じた.一番の違いは,キャスターが自ら発光しているところだった.  センボーのブログ:最近ふと思ったこと  ここでは大きさが同じになったことから,ヒトの発光の有無が際立っているが,エキソニモの作品《神,ヒト,BOT》は発光するディスプレイを塗りつぶすことによって発光しているヒトを際立たせた.赤,緑,白,黒一色に塗られたヒトが直立不動でディスプレイに映されている.ディスプレイでヒトが映されていない部分は身体に塗られた色で塗りつぶされている.なので,ディスプレイが光っているのではなく,ヒトが光っているように見える.あるいは,発光し続けているにも関わらずモノ感が希薄なディスプレイのモノ感が塗りつぶしによって際立っているとも言えるだろうか. ヒトとディスプレイの境界が揺れている.それはそこに映っているヒトが静止画ではなく動画だからである.ヒトは直立不動だが完全に動きを止めることはできない.ヒトは呼吸を

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_26

記事を書きました→ DISが2016年のベルリンビエンナーレのキュレーションを担当 タイトルの通りのことを書きましたが,2年後のインターネットをめぐる状況はどうなっているのか,とても興味があります.2016年のベルリンビエンナーレで「ポストインターネット」がテーマとなりうるのか,それとももう別の言葉が使われているのか? 「インターネット」という言葉自体が抜け落ちたりするのか?

インターネットヤミ市インタビュー_エキソニモ/渡邉朋也編

金曜日(10/31)の夜からドバイに行きます.ドバイで ISEA2014 (電子芸術国際会議)が行われていて,そこで「A relationship between the Internet and the physical for the art」という発表をしてきます.発表の「インターネットヤミ市」を海外の事例と比較しながら分析するというものです. 取り上げるのはインターネットヤミ市の他に,Send me the JPEG by Winkleman Gallery,DISown by DIS です. 分析は以下のようになっています. −− 作品のJPEG画像をギャラリーのリアル空間で展示したグループ展: Send me the JPEG by Winkleman Gallery がアートワールドで「インターネット」と「現実空間」のあいだに起こる混乱を示している. アートのディフュージョンラインとして小売店舗を模したインスタレーションをリアルに展示し,その後オンラインストアを開設した: DISown by DIS は「インターネット」と「現実空間」の重なりの部分を「ポスト・インターネット」というあたらしい価値観で上書きしようとしている. スマホからポチるキミに悲報.わざわざ行かないと買えない,残念なECこと The Internet Yami-ichi by IDPW は 「インターネット」と「現実空間」のあいだの混乱を避けて,ネットと現実の重なりの余白の部分,つまりネットそのものと現実そのものをハッキングして,リアルに「インターネット的感覚」をインストールしている. DISとIDPWは感覚は似ているが,DISには明確にディスる対象として「アート」があるのに対して,IDPWにはそのような対象がない.その結果としてIDPWは「インターネット」そのものに対して意識を向けている.だから,IDPWはインターネットヤミ市でインターネット自体をハッキングして,インターネットが着地するフィジカルな場所というこれまでにないものをつくっているのではないか.そして,「インターネットヤミ市」自体がひとつのコンセプチャルなアートになっているのではないか,というものです. −− 前置きが長くなりましたが,今回の発表のためにインターネットヤミ市関係者にインタ

お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」

DMM.make で記事が公開されました! インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」 今回はわりと長めのエキソニモ論になっています.エキソニモの作品の流れのなかで彼らがIDPW名義で行っている「インターネットネットヤミ市」を位置づけてもいます.こんな感じでエキソニモ論を書いてみたい.もちろん,ライダー・リップスも登場します.結構長いので,お時間のあるときに読んでみてください!

それはヒトでなくても,犬でもカメでもウォンバットでも,あるいは電動ドリルでもいいかもしれないが,ヒトじゃないとそんなこと意識しないかもしれない_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(2)

イメージ
セミトラ「退屈」展の《6PC 1MC》.ひとつのマウスで5つのカーソルを動かす.どこか落ち着かない感じがしてくる.画像=記号を扱った作品がピクセルとそれが表す記号との「1対1」対応を崩したように(→ 再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1) ),ここでもマウスとカーソルとヒトとの「1対1」対応が崩れている.崩れた結果として,どこか落ち着かない. (いや,画像の作品は符号化と復号化の繰り返しだから,厳密に1対1対応をしようとするけど,コンピュータの外でそれを行おうとするから,どうしてもその対応がズレていくのが興味深いということかもしれない) マウスの作品に戻ると,これは今回の退屈展で,ヒトがコンピュータのなかに入り込める,これは言い方がおかしいかもしれない.ヒトがコンピュータを操作するという実感がもてる唯一の作品になっている.でも,セミトラはその前提であるマウスとカーソルの「1対1」対応を崩しているから,そこにズレが生じる.今回,ズレが生じるのはヒトの感覚である.普段,マウスとカーソルを使っているヒトが多いからこそ,そこにズレが生じる.コンピュータにとっては何一つズレていない.1つのマウスで5つのカーソルが動くようにプログラムされているので,その通りに動いているだけ.カーソルがディスプレイの枠の外にでてしまうのも,そのようにプログラムされているから.5つのディスプレイとその周りの空間がXY座標で区切られていて,その座標とマウスの動きとが対応しているだけのこと.でも,ヒトは5つのカーソルと,ディスプレイの枠の外にでるカーソルを見ると「あれっ」っと思う. 「退屈」展は作品の多くが再帰的構造をとっているが,その再帰のプロセスをヒトは眺めるだけであったり,意図せずそのプロセスに入り込んでノイズとして「機能」したりするのだが,《6PC 1MC》ではヒトは入力ソースとして機能している.再帰構造の画像の作品はヒトを必要としていないと書くのは大げさだけれども,この作品はコンピュータの論理構造をノイズあふれる世界に構築してきて,その反応を見る作品と考えられるので,そこではヒトも温度や湿度,地震によるカメラの揺れなどといった論理世界を表現した回路に対するノイズのひとつにすぎない.しかし,

お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」

DMM.make で記事が(やっと)公開されました! インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」 ネットをメインにとてもコンセプチャルな表現をするエキソニモとライダー・リップスを3回にわたって比較していきます.といっても,初回はもっぱらライダー・リップスについてです. 追記_2014年12月29日 リンク先のテキストは2段落ほど抜けていました. 「リップスはアーティスト活動と並行して、OKFocusというデジタルデザインの会社もやっています。彼は自分のことを「独立(ビジネスオーナー)のことを心配して、(技術、未来について)すぐうんざりしてしまうコンセプチュアル・アーティストだね」(MASSAGE 9( http://themassage.jp/ ) p.84)と言っています。」 このテキストに以下のテキストが続きます. − 空手着を着たリップスに戻りましょう.これは2013年に行なわれた「Hyper Current Living」[http://ryder-ripps.livejournal.com/1099.html]というパフォーマンスの際のリップスの自撮りになります.「Hyper Current Living」は,リップスがRed Bullを飲みながら延々とアイデアをツイートしていくというパフォーマンスです.ツイートするだけなら,別に自分の身体をネット上に出す必要はないのですが,リップスはわざわざ空手着をつくって,それを着て,自らの身体をネットに晒しながら,アイデアを練って,それをツイートしていきます.前回比較したJodiとエキソニモでは,Jodiが「遊ぶ身体」で,エキソニモで「消える身体」だったので,「スポーツ」という言葉を使うリップスはJodiに近いと言えるでしょう. コンセプチャルアートとしてのスポーツ でも,ここで言われている「スポーツ」は「コンセプチャルアートとしてのスポーツ」なんですね.この言葉はとても面白いところがあります.頭でっかちな感じがする「コンセプチャルアート」と身体性が強い「スポーツ」という普段隣り合うことがない言葉が組み合わせされているからです.リップスはこのギャップを際だたせるように空手着を着ているし,身体を強く刺激するRed Bullを飲むわけ

再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1)

イメージ
ggg で開催されている セミトランスペアレント・デザイン の「退屈」展の1階にはモニター,プロジェクターはない.RGBの世界で主に活動してきたセミトラが自らの作品をCMYKに変換している.といっても,これまでつくってきたRGBの作品のスクリーンショットをプリントしているわけではない. スクリーンショットを拡大して見えてくるピクセルをひとつひとつ絵具に変換している.その変換には多くの時間が掛けられているのだろうし,それは「退屈」な作業だったのではないかと想像される.ウェブサイトはそのままのかたちで展示すると,普段,家で見られるものをわざわざ会場で見ることになり,その体験はとても見る人にとって退屈なものである.だからといって,ウェブサイトを「絵画」に変換されても,それはそれでつくる人にも見る人にも退屈なものになってしまうのではないだろうか.最初にそこにあるものが人の手で描かれたものだと知ったときの驚きはあるだろう.しかし,それを長く見ることがあるだろうか.ウェブがリアル絵画になるとそれはすぐさま比較対象がこれまでに圧倒的な歴史をもつ絵画群のなかでその立ち位置を問われて,リアルの前に敗北して真に退屈なものになってしまう. セミトラは簡単に敗北しない.セミトラは「退屈」を引き伸ばす.1階のブルーバックの前に掛けられた絵画は,カメラに撮影され,地下1階に送られ,映像として表示される.絵画は低解像度の画像になる.セミトラはRGBのウェブサイトをCYMKへ,そして再びRGBへと次々に変換していく.ピクセルを絵具に置き換えていったヒトの痕跡があたかもなくなったかのように「ピクセル感」が強調化された低解像度の画像が最終的に出力されている.「ピクセル感」というのは物理的なピクセルを示しているわけではなく,その画像が「ピクセルで成り立っているような感じ」というアバウトな意味である.「RGB→CMYK→RGB」という再帰的な流れの果てに「ピクセル感」が現われる. ブルーバックに合成されているセミトラのアーカイブもそれぞれの作品が徐々にズームアウトされていき,最終的にひとつのピクセルになって,次の作品の一部になるかのような映像になっている.それが「RGB→CMYK→RGB」を示す画像の背景として流れていく.このように

memo:CCC gets physical

以前, メディア芸術カレントコンテンツ [ お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_12 ]  で紹介した「 COPIE COPAINS CLUB 」が 「フィジカル」を獲得した とのこのことです.存命中のアーティストの作品をコピーし続けることはネットだから許されているのかなと思ったら, アートフェスティバル での展示を行われることになるとは… ネットに上がっているコピー作品のすべてが展示されるわけのはフィジカルな制約からか,果たしてコピーという行為の制約からなのか.まあ「コピー」というよりも「オマージュ」と言っているから,許されるのかな.このあたりは微妙なバランスにあるのでしょう. このネットの活動がリアル展示を行うとは考えられなかったけど, DIS が2016年のベルリンビエンナーレのキュレーションを担当するとかあるから,時代の流れは「ネット→フィジカル」なのでしょうか.「ネット」で普通に行われていることを「フィジカル」にもってきて,そこでの差異を楽しんだり,そこでの認識の変化を味あうような「 インターネットヤミ市 」的な感覚というのが広まってきているのかもしれない.いや,もともとインターネッツの人たちには広く共有されていた感覚を制度が取り込もうとしているのでしょう.この感覚が制度に消費されていくのか,それとも制度を変えていくのか,このあたりに注目していきたい.