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大会報告:GIFの質感

6月に九州大学で行われた日本映像学会で発表した「GIFの質感:「 ポスト・インターネット」から考える画像形式 」の大会報告の PDF が公開されました. YCAM のアーティスック・ディレクターである阿部一直さんの基調講演のまとめなども載っている,とても充実した会報です. 大会報告を書いたのは9月の頭で発表からかなり時間が経っていたために,改めて「GIF」について考え直す機会になりました.GIFの部分だけ抜粋.報告にはあと「JPEG」についてと,ちょっとしたまとめが書いてあります. 圧縮ゆえの「軽さ」によってウェブに隈なく流通しているという点で,GIFはJPEGと似ている.しかし,1670万色を表示できるJPEGはウェブ上の「写真」として機能しており,圧縮による劣化が見えにくいのに対して,256色という使用出来る色数の制限によるエッジが際立った「硬さ」を示すGIFは,劣化が剥き出しの状態でウェブに存在している.また,GIFはアニメーションの表示ができるが,1秒間のコマ数が少なくカクカクした動きになっている.データ流通のために「軽い=劣化」を良しとするインターネットのなかで,その特徴を際立たせ「硬さ」というひとつの質感にしているのがGIFなのである.さらに,GIFアニメは「動画」なのだが「再生ボタン」がなく勝手に再生され,しかもループ再生になっている.この特徴と「硬さ」が合わさり,GIFアニメは「画像」でありながらもひとつの「オブジェクト」ような存在感を持つ.それゆえに改変されることが少なく,ひとつの作品としてネットを流通していくのである. ここでGIFについて書いて,メールを送信した日の夜に『 Designing Tumblr 』が届いて,そこに 谷口暁彦 さんの「GIFアニメの質感」が載っていました.そして,GIFアニメについて「そこにありつづけるという質感」という指摘があって,なんとなく重なり合っているなと思った次第です.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_4

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記事を書きました→ 「未知の風景」を描く地図:「The Amazing iOS6 Maps」と《9-Eyes》 http://theamazingios6maps.tumblr.com/ ネットの世界というか,デジタルの世界の流れははやく,もう アップルのiOS6の地図 は「過去」の話のようになっていますが,アップルの地図をいち早く「探検」した「 The Amazing iOS6 Maps 」と2009年からグーグルストリートビューを「探検」している ジョン・ラフマン の 《9-Eyes》 について書きました. アップルとグーグルには,もちろんこの2つの企業に限る必要はないのですが,これからも「未知の風景」を描き続けてもらたいものです.

GIFアニメーションに関するメモ

「GIFアニメーション」と呼ばれるが,その「アニメーション」の部分はクールジャパンで言われているアニメーションではなく,「動き」そのものを現している.だから,アニメーションとしてこれまであまり考えられてこなかった.しかも「動き」と書いたが,それはとても短い時間でループし続けるものでしかないので,あまり動かないと言えば動かない.だから,GIFアニメは「アニメーション」として見なされずに,「Web上でカクカク動くモノ」という存在であった. けれど良く言えば,その短さゆえに「動き」の最も面白い部分を抽出しているとも言えるので,もっとも「アニメーション」らしい表現とも言える.しかし,その動きはカクカクしている場合が多い.そのカクカクさは,YouTubeなどにアップされたアニメの動きの滑らかさとは異なる.動きの解像度の低さゆえに,「動き」という部分が強調されるということが起こっている.というよりも,GIFアニメは「動き」しか楽しめるところがないとも言える. カクカクした動きはGIFが圧縮画像であることが生じている.データを圧縮して「軽く」する.その際に,画像は劣化する.それでもインターネットはより多くのデータをより早く届けることを良しとするがゆえに,「劣化」を受け入れる.だから,GIFアニメは「劣化」した「動き」を示しているとも言える.しかし,それが新鮮に受け取られている.「動く」というアニメーションの基本の部分に,デジタル特有の「圧縮」が入り込み,それが好意的に受け入れられている表現としてGIFアニメを捉えることで,アニメーション概念の拡張が図れるのではないかと考えてみる.

パーカー・イトーのインタビューを読む

DIS Magazine に載っているパーカー・イトーのインタビュー が興味深い. パーカーはインタビューの中で「仮想」と「現実」とが統合されていっているのかと聞かれて,「それは既に起こっている」と返答している.そして,その例として出すのが,OSX10.7でスクロールの向きが逆になることと,インスタグラムのフィルターである. OSX Lion でトラックパットを用いてのスクロールの向きがSnow Leopardまでとは逆になって,指を動かす方向にコンテンツが移動するようになっている.それは,iOSデバイスでのスクロールと一致させたわけなのだが,パーカーはこのことを「自然」といっている.つまり,iPhoneなどのデバイスでより多くの人が「指を動かす方向にコンテンツが移動する」方法でスクロールしているのが,このことが「自然」となったということである.デジタルの環境に「自然」ということ言葉を使うところが興味深い. OSX Lionが参照したのは現実の環境ではなく,デジタル環境である.デジタルがデジタルを参照するようになっている.そこには独自の「自然」があって,その意味で,もはや「仮想」は「現実」を参照することなく,「仮想」が「仮想」を参照するという閉じた環境から「自然」を生み出しているといえる.これを「仮想」と「現実」との統合と捉えるかは考える余地があるが,「現実」を参照する「仮想」と言うものはここにはない.「仮想のなかに現実」があり,「現実の中に仮想」があり,そのそれぞれに位置する「仮想」が互いを参照することで「自然」を作り出すようになっている. インスタグラムのフィルターにしても,「映画のような」などではなく「インスタグラムのような」フォルターという,インスタグラムがインスタグラムを参照するということが起こっている. パーカー・イトーは徹底的に仮想やデジタルのなかで閉じた思考を行なっているのが,とても興味深い.デジタルはデジタルを参照するし,仮想は仮想を参照する.そして,それが成り立つことをパーカーは感じているし,それを作品にしている.デジタルはデジタルの円環のなかに,それを成立させるためにヒトが取り込まれていく. パーカーはインタビューの最後に,現在の作品の行き着くところはどこかと聞かれ,それはわからない,なぜならリ

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_07

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06 で「ハッカー/デフォルティスト」という区分けのことを書いていて,この区分けについて考えたメモ 「ハッカー/デフォルティスト」という区分けを成立させているのは,デジタルを「自然」と感じるのかということなのかもしれない.デジタルを操作可能な空間として捉えるとハッカー的になるし,もうそれは「自然」としてあって,そこの法則に従うとなると「デフォルティスト」となるかもしれない.しかし,これもまた「ハッカー|デフォルティスト」の区分けを解釈しているにすぎない.あたらしい区分けは出てきていない.「区分け」する必要もなくて,「自然」でハッカーとデフォルティストをまとめて,つなげてしまうというのもいいかもしれない.「自然」でまとめてどうするのかということもあるので,さて,どうするか.「自然」とかではなく,もっと違う言葉が必要なんだろうな.もっと違う言葉で,今までの流れを滑らかにつなぐことができれば,いいな.その点,さやわかさんの『 僕たちのゲーム史 』はとても鮮やかでした. テレビゲーム ・変わらない部分・・・・・ボタンを押すと反応すること ・変化する部分・・・・・・物語をどのように扱うか という2つ原理で,テレビゲームの歴史をなめらかにつないでました. じゃ, [インターネット アート]の[これまで]と[これから]をつなぐ原理って,もしあるとすれば,何なんだろう? 今は,考えつかないので,また今度.

GIFアニメとTumblrが出会った!

『 Designing Tumblr 』のなかにアーティストの 谷口暁彦 さんが書いた「GIFアニメの質感」というテキストがあって,そこには次のように書かれています. 一方,GIFアニメには再生ボタンが無く,読み込みと同時に再生され,読み込みと同時に再生され,ほとんどどれも数秒程度の短さでループをひたすら延々と繰り返す.その再生時間の短さ故に,リロードしても,最初から再生し直しているようには見えない.むしろそのページにアクセスする以前から,ずっとGIFアニメは動き続けていたようにさえ感じられる.このようなGIFアニメの在り方は,停止するとイメージが失われてしまう映像よりも,むしろ実際に質感を持った物質のような存在に近いのではないないか.「私がそれを見ていないくてもそこに在りつづけるだろう」というリアリティだ. ここでGIFアニメに関して指摘されている再生ボタンやループの問題は以前から私も考えてきたのだが,その先に書かれている「私がそれを見ていなくてもそこに在り続けるだろう」がとてもいいと思う.実際にTumblrのダッシュボードで流れてきたGIFアニメは,私の眼の前のディスプレイに現われた瞬間には再生されているし,画面から消えていくときにもあいも変わらず再生しているから,いつまでも,そしてどこでも再生しているのだろうなという感じを受ける.まさに,「そこにあり続けるという質感」です. Tumblr関係でもうひとつ面白い指摘があって,それはGoogle Earthの地図のバグを扱ったテキスト「 The Universal Texture 」のなかに不意に現れた一文です.Google Earthを論じたテキストにいきなりTumblrが出てきて驚いたのですが,それは「デジタルメディアの世界で,この流れるような連続性はTumblrの無限スクロールに似ている」というものです.Google Earthが航空写真のコラージュでありながら,「Universal Texture」というアルゴリズムでそれらを滑らかにつないでいく,その滑らかさがTumblrでの延々と続いてくスクロールに似ていると,Clement Vallaは指摘するのです.Vallaのテキスト自体は,Universal Textureによって論理的に正しく画像が滑らかにつながれていくなかで,道路が歪み,建物が波打