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名古屋芸術大学_情報技術論:カーソルをめぐる冒険

今学期も《断末魔ウス》を学生とともに体験しました.マウスとカーソルとのつながりへの学生の反応が興味深いです.以下,その授業スライド・資料及び,「カーソル」にまつわる学生からのコメントです. ── スライド カーソルをめぐる冒険 資料 http://exonemo.com/ 《断末魔ウス》をつくったエキソニモのウェブ.インターネットのリアリティや,ヒトとコンピュータとの関係を鋭く切り取った多くの作品が見られます . 断末魔ウス エキソニモのウェブからリンクがあるのですが,見つけられない人に… あいだを移行する「↑」:エキソニモ《断末魔ウス》,《↑》におけるカーソルの諸相 『映像学』,日本映像学会,第85号,pp.20-38,2010年 水野が書いたエキソニモに関する論文.時間と興味があれば… http://www.persistent.org/ ヒトとコンピュータとのあたらしい関係をつくることを研究・実践している渡邊恵太さん. 渡邊恵太《自己喪失》 渡邊恵太さんがつくったカーソルにまつわる作品. http://www.newrafael.com/websites/ インターネット上で多くの作品を展示しているラフェエロ・ローゼンダールさんの作品集みたいなページ. A Magazine Is an iPad That Does Not Work.m4v タッチが当たり前になっていくであろう子どもの観察記録映像. Big Bid Cursor タッチが当たり前になってもカーソルを必要とするあなたに! 学生のコメント ディスプレイ上の「カーソル」を気にしたことがある/ない エキソニモ《断末魔ウス》の感想 改めて「カーソル」について考えてみてください.

あたらしい「痛み」をつくる

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先日, VSN(Visual Studis Network) という自分もスタッフのひとりである研究会で発表しました.その研究会の主旨は名古屋大学大学院情報科学研究科の秋庭史典准教授が書かれた あたらしい美学をつくる を楽しむということでした→ 『あたらしい美学をつくる』の楽しみ方 . 発表者は著者である秋庭史典さん,美術批評で活躍されている 粟田大輔 さん,そして私という3人でした.粟田さんと私が,『あたらしい美学をつくる』を読んで考えたことを話し,それに対して秋庭さんに応答してもらうという感じで「楽しむ会」は進みました.粟田さんと私の発表に関して,秋庭さんが自身の ブログ でとても的確にまとめてくれています(そして,私の場合は自分でもうまく言えないところをズバリと表現されていてとてもためになります)のでそちらを見ていだければと思います. 以下は,そのとき使ったファイルからの転載です.だいぶ長いです.最後に「プロトコル」という項があるのですが,これは時間の都合上発表では省きましたが,ここには載せておきたいと思います. ─── 情報の流れとしての自然 ひとつの例としての「台風」 幸いなことに,私たちはこうした考えに(直接的ではなくとも)力を貸し与えてくれるような知識論を手にしつつあります.それは, 世界に対峙しそれを認識する主観という図式を廃し,「情報の流れとしての世界」という見方を提案しています .それがどんなものかイメージしてもらうために,いきなりですが,引用をひとつ挟みます.アメリカの哲学者ドレツキ(1932-)という人の名前が出てきますが,それが誰か知らなくても,「太平洋上の……」以下で著者戸田山和久(哲学者)が言おうとしていることは,理解されるのではないかと思います. こうした世界のもとでは,この世に起こるさまざまな現象はすべて情報の担い手として見えてくる.しかもそれは,特定の解読者に解読してもらうことを必要としない.ドレツキは,情報の発信者,解読者という心をもった主体の存在を前提せず,出来事をじかに情報の担い手と考え,出来事の継起を情報の流れとして捉える. 太平洋上のある場所で台風が発生したという出来事 は,それじたいで,その場所の気圧が非常に低いという情報を担っている.このことはまったく客観的な現象だ.こ

メモ:up in the air で trance-trans なカーソル

カーソルは中途半端な存在ということが頭の中にずっとあって,今,英語でカーソルについての発表の準備をしてして面白かったのが,「中途半端」が英語だと「up in the air」という表現になること.カーソルは文字通りの意味でデスクトップで常に最前面にあるわけであるから,それは浮いているような感じであって,だから「up in the air」な状態にあるわけで,それが「中途半端」という意味もあるということ.だからどうしたというわけではないけれど,ちょっと面白かった. あとは中途半端に宙を漂っているカーソルが消えてしまう→自己喪失.「トランス」は英語で「trance or trans」.前者は夢現な感じで,後者は超えるということ.なんかいいねと勝手に思っている. 見落とされているカーソルに注目というところまでは,どうにか書けそうな感じがする.そこからどのようにエキソニモ《断末魔ウス》につないでいくか.「up in the air」なカーソルとマウスの破壊.マウスを破壊しているだけれど,それはカーソルを破壊していることにもつながる.でも,カーソルは文字通りの意味では破壊されない.ただ動きを止めるだけ.でも,また動き出す.いっときの「死」がもつ意味を考える.マウスの文字通りの破壊とカーソルのメタフォリカルな破壊.その意味をコンピュータが示す「自然」の中で考えてみること.メタメディアという「自然」を超える(taras),そしてトランス(trance)状態になってしまうような存在としてのカーソル.すべてを宙吊りにしてしまうような,というか自身が宙吊りのカーソル.

上海での発表のためのメモ

front/back.  the cursor is trace-meta media.  overlapping windows.  horizon vs vertical.  PCP/IP vs DNS.  machine vs human.  It is important to humanize the computer or meta media.  meta media and Alan Kay.  Alan Kay's idea vs the cursor.  meta media and interactive.  software/wetware/hardware.  there is no software.  everything is software.  the cursor is wetware.  bring to front/send to back.  image/word.  nature/image/destruction.  an information steam. a stream of information.  destroy a stream of information.  tool/media.  hybrid=meta media=allo.  beyond human imagination.  supernatural.  supernatural/cursor/trance.  always front.  literally always front=trance.  not layer but stack.  a stack on a layer.  exonemo|DanmatsuMouse. The cursor|the information of coordinates of the point

事が起こった後の「背面|前面」

「世界制作の方法」展の エキソニモ展示のつづき,今のところこれが最後. 《ゴットは、存在する。》の展示で,壁から引きずり降ろされたディスプレイの作品がある.これの個別のタイトルは分からないけれど,今,この作品がとても気になっている.この作品のディスプレイは「かつて」壁に設置されていたと思われる.しかし,何らかの「力」でそこから引きずり降ろされた.これらことを壁に残された痕跡が示している.事が起こったあとを,鑑賞者は見る.ディスプレイは床に向けて倒されており,鑑賞者はその背面の黒い樹脂の部分を見ることにある.ディスプレイは床にべったりと倒れているのではなく,Mac mini の上に倒れかかっている.なので,ディスプレイと床とのあいだには隙間がある.その隙間から,ディスプレイが発している色鮮やかな光が見える. 光は見えるが,それが何を映しているのはかはわかない.ただ光っている.壁から引きずり降ろされたかもしれないディスプレイは床に向かって,Mac mini から送られてくる信号から生成した光を発している.ひとつの破壊が行われても,それでもなお何かを映し続けているディスプレイ.何を映しているのかはわからない.ヒトがその映像を見ることができないディスプレイに意味はあるのか.ヒトは背面の黒い樹脂しか見ることができず,前面の映像は見ることができない.ここでのディスプレイはイメージの次元を暴力的に破壊され,モノの次元で存在している.しかし,破壊されてもイメージは何かしらの像を結ぶことがないままに漏れてくる光として提示されている. 帰りの電車の中でこの作品について考えていたときに,エキソニモが Web Designing で連載していた「view-source」の「 天地創造と不可視IMG神  」を思い出した.見えないけれど機能する「spacer.gif」にまつわる神話. この作品はカーソルもマウスもでてこない.そこにあるのは,何か事が起こった後の黒い樹脂の背面と前面が光を放つディスプレイと呼ばれる装置とそこに繋がれた黒い林檎を背負ったMac miniだけ.それでもすごく気になる.自分的にはディスプレイに「背面」「前面」があるという当たり前のことを気づかせてくれたこと.しかも,それが暴力的な行為の結果として提示されていることがとても気になっている.

「情報機器に在るはずのない精神を感じさせる」存在としてのカーソル

「世界制作の方法」展 でのエキソニモ作品のつづき. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》に抜ける扉の前の空間には,《ゴットは、存在する。》が展示されている.私が見に行った日には,2つの作品が調整中だったためそのすべてを見ることができたわけではないけれど, ICC で展示してたヴァージョン とはまた違った感じがした. 最初に気になったのが,祈るときの手のように重ね合わせられたふたつのマウスが車座に配置されている作品.もちろんマウスはパソコンに接続されていて,そのディスプレイには「ゴット」という名のフォルダが映し出されている.この作品の興味深いところは,ふたつの光学式マウスを重ね合わせることで,光の干渉が起こってヒトを介さずにカーソルが動くというところ(→以前書いたエントリー: イメージを介して,モノが「祈る」 ).前回の展示はひとつだった重ね合わせられたマウスが複数になっていて,それぞれが動かしているカーソルの軌跡がひとつひとつ異なっている.異なるカーソルの軌跡には「個性」がある感じがして面白かった.さらに,「ゴット」というフォルダが画面上にあるのだけれど,カーソルはその上にほとんど辿り着くことがない.たとえフォルダとカーソルが重ねあっても,クリックされることはないから,決して「ゴット」のフォルダは開かない.「ゴット」のフォルダには何が存在するのか.そして,もし「ゴット」フォルダをダブルクリックされて開いたとしたら,マウスとパソコンで構成された車座の中心から「ゴット」が現れてきそうな神秘的な雰囲気もある.こういった「信じるか信じないかは,あなたしだいです」といった秘密結社的な感覚が面白い.この雰囲気が《ゴット・イズ・デット》の空間(→以前書いたエントリー: 《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」 )へと繋がっていると思う. 車座になったマウスの上には,ミラーボールがあって,その先には大きな「カーソル」が映し出されている.この大きなカーソルもまたふたつのマウスによって動かされて,ときたまミラーボールの影の中に入っていく.そのときにカーソルは星屑のように粉々になって,その破片がミラーボールに反射して部屋中に撒き散らされる.ここには抽象と具象のあいだを行き来するカーソルがあるような気がした.カーソルはとらえどころないイメージのよう

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

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国立国際美術館に「世界制作の方法」 を見に行った.エキソニモとクワクボリョウタというメディアアートの作家が現代美術の領域で紹介されるという展覧会で,タイトルはネルソン・グッドマンの哲学書( 世界制作の方法 (ちくま学芸文庫) )からとられていてとても興味深い. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》がとても良かった.古びた扉を開けると「ギー」と軋んだ音がする.音とともに暗闇の部屋に入る.暗闇の中にスポットライトが光っている.ライトの先にあるのは……(この先はまだまだ会期があるので,是非自分の目で見てください). 暗闇が支配する空間にスポットライトひとつという空間構成が,この展覧会の他のどの展示よりも,自分の感覚にしっくりきた.この空間を作り出しているのが「エキソニモ」というネットで主に活動してきたユニットということがとても興味深い.現代美術ではインスタレーションというかたちで,多くの空間構成が行われてきた.「世界制作の方法」でも,多くの現代美術の作家がインスタレーションを行なって空間を作り上げている.しかし,それらにはなにか感じるところがなかった.「リアル」に溢れる乱雑さのみが表現されているという感じで,そこには今では「リアル」に寄り添う「もうひとつのリアル」となっているインターネットという存在への配慮というか気遣いといえるようなものがなかったような気がしている. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う. だからかもしれないが,《ゴット・イズ・デット》には,いつ何が起こるか分からないという「不穏さ」を多分に感じる.インターネットはいつもそこにある「もうひとつのリアル」となっているけれど,その存在を改めて明確に示されると,ヒトはそこで何が起こる

メモ:台風→情報の流れ→GIF→複合体としての主観

台風は情報の流れを作る.それがヒトに影響する時,偏頭痛などの痛みを伴うことがある.情報の流れを作り出すコンピュータ.それはもう一つの流れかもしれないが,「自然」になっている.この流れの中でも「痛み=傷み」を感じることが出来るかどうか.それはGIFを認識すること.技術的な制約のもとでのGIFを認識することは,ヒト本来の認識に合わせた映画やテレビとは異なる.技術に合わせたヒトの認識.ヒト中心主義からの脱却でもっとも日常的で,話題にもならない地味な現象.でもそこにこそ,ヒトとコンピュータとの複合体としての認識及び主観が生じているのではないだろうか.情報の流れという「水平」に広がっていくレイヤーの中に,面を垂直に重ねて最背面・最前面を作り出すこと.黒崎政男さんがカントを超越的統覚を「垂直構造」と呼んだように,情報の流れに「垂直」に重なる面を作り出すこと.『protocol』という本に書いてあるTCP/IP は「水平」で,DNS が「垂直」ということも,まだ読めていないが気になっている.