次の学会発表のためのメモ(14):外をつくって外から眺める
間主観的な映像:ヒト|映像|モノ 2元論が放棄されつつある世界において,3つの項で映像を考えることを示す. 3つの世界 ヒトはモノであると同時に言葉を生み出す存在である.そのヒトがものごとを数量化して捉える考えを押し進めた結果として生み出したコンピュータ.コンピュータはモノであると同時に数値データを生み出す存在である.ヒトとコンピュータという2つの存在が交錯することで,対象を捉えるための新しい関係が生じる. ヒト|人工物|実世界 私たちは「人間の世界」「人工物の世界」「実世界」という3つの世界の相互作用の中に生きている.コンピュータは「人工物の世界」を作り出し,ヒトとのコミュニケーションの中で「実世界」をも再構成していく.ライフログはヒトの生態履歴:解釈可能性をコンピュータが作り出す数値データの流れにのせて「実世界」を変える. 「ものをなくす」ことがない世界:外から眺められる世界 すべての「もの」の位置情報がわかれば「ものをなくす」ことはなくなると暦本純一は指摘する.「ものをなくす」とは,ヒトの観察範囲からモノが外れることを意味していた.そこにコンピュータの観察範囲が重なりあることで,ヒトはモノを常に観察できるようになる.これは,ヒトにとって新しい体験をもたらす世界である. 記憶の俯瞰:地図の客観性 記憶の電子的な強化の延長線上には何があるだろうか.実際の脳はストレージのように情報を格納しているのではなく,その場その場で想起情報を再構成していると推測されている.したがって記憶は常に「一人称」的であり,想起する場面がなければ記憶そのものも存在しないといえるかもしれない.一方,電子的記憶にはそのような性質(「制約」といえるかもしれない)はないので,人間の想起メカニズムを離れた電子情報独自の利用可能性が生まれてくる.たとえてみれば,通常の記憶想起が地表を歩いて一人称的に景色を観る行為だとすると,上空から世界を鳥瞰図のように見渡したり,さらには地球全体を外部から眺めたりするような経験に相当するだろう.つまり電子的な記憶のブラウジングは,空間認知における「地図」の発明に相当する可能性を持っている.(p.191) サイバネティックアースへ:サイボーグ化する地球とその可能性,暦本純一 一人称と三人称とのあいだにある映像 一人称はその正しさが特権的にわかる.しかし,三