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Daniel Temkinの《Unicode Compressure》:圧縮の先にある四角

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CLICK | GALLERY で Daniel Temkin の《Unicode Compressure》 ( Gallery_B ) が展示されている.Daniel Temkinはニューヨーク在住の写真家,デジタルメディア・アーティストで,プログラマー. 《Unicode Compressure》を見に行くと, Unicode から6個の文字・記号がランダムに選ばれて,それらが組み合わせられブラウザの中央に配置されている.左上に「resolution: 389 : 1200」とあり,その下に組み合わせられている6つの文字・記号.さらにその下には,中央の図形の一部を拡大したものが表示されている. 図形をしばらく見ていると,徐々にボヤけて見えていくことに気づく.同時に「resolution」の数字が減っていっている.つまり,時間とともに「解像度」が低くなっているのである.私が見ている環境だと,解像度はなぜか1200からではなく,800から始まり,最終的には0になる.解像度が50くらいまでは6つの文字・記号からなる図形のかたちを認識できるが,それ以下になると急激にかたちが崩れていき,最終的にはかたちがなくなり,画面全体を赤く覆ってしまう. Unicodeと解像度いうコンピュータのデフォルトの要素を使っている.CLICK | GALLERYの説明には「ウェブの要素を緻密に組み合わせては破壊していく」とあるが,ここにあるのは「破壊」なのだろうか.確かに,組み合わせられた図形は崩れていく.しかし,最終的に崩れる際にみせる「大きな四角の組み合わせ」は,これはピクセルという「四角枠」を表現の最小単位として選んだコンピュータのミニマルな「かたち」なのではないだろうか. インターネットはすべて四角でできている — sembo (@1000b) April 27, 2013 真の意味で四角い部位がひとつもない人間が作ったものなのに何故 — sembo (@1000b) April 27, 2013 ディスプレイのピクセルだって適当な形のつぶつぶが適当に並んでいるのだったよかったはずだけど、四角が整然と並んでいるのは、そのほうが情報として扱いや...

Domenico QuarantaのIn Your Computerを読み終える

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Domenico Quaranta の In Your Computer を読み終える.2000年代のネットアートの状況が書かれていた.最初のほうに「セカンドライフ」が出てきて時代を感じつつ読み進める.後半は,ペトラ・コートライトなどもでてきて「ポストインターネット」な感じ.そして, ネットアートの初期と現在のあいだの「ちがい」というのを感じられた.この「ちがい」は,あくまで僕個人のものでしかないものだが,現在の方がネットに対してよりナチュラルになったというか,大きな問題を提起していない感じがする.また, Quarantaは「ネットアート」という言い方にこだわっていて,「ポストインターネット」は何を言っているのかよく分からないのでダメという感じ. 「オリジナルとコピー」の問題を,ヴァルター・ベンヤミンとボリス・グロイスを使って論じているところは,とても参考になった.ただ問題意識が少し,僕とは違う感じで「見えないオリジナルが存在する場所」について書かれていた.ネットアートの「URL」がひとつのオリジナルの「場所」になるのではないだろうかというのが, Quarantaの見解.僕としてはグロイスの「オリジナルが見えない」ということを考えつつ,ディスプレイに見えているものの「パフォーマティブ」な感じを考えてみたい. Quarantaは「場所」を考え,僕はその場での「パフォーマンス」を考えたい. Quarantaも本のなかで結構な長さで「パフォーマンス」について論じており,このあたりを接続して考えみるといいのかもしれない. Quarantaは ペトラ・コートライト について, 「彼女の生活はTwitter,Facebook,Flickrで継続的に行われているオンライン・パフォーマンスである.彼女の作品はメディアについてではなくて,ペトラ・コートライトについてのものである」と書く.このような視点から考えると,彼女は まさに「選択的認識」を実践しているアーティストといえる.コートライトについて自分で考えたときは,全く分からなくて,次のように書いている. 私は「メディアの条件を問う」ような作品を考えることが好きなのだが,Petra が扱っているメディアが「インターネット」だとすると,「そこには『条件』なんてものはないですよー」とアッケラカンと...

プッシュ通知|風景|2013

デザインハブで開催されている ( )も( )も( )展 に行って, エキソニモ の作品《 風景2013》を見てきました. 《風景2013》は多くのスマートフォンが床に置いてあって,それらが「プッシュ通知」し続けている作品でした.「作品に手を触れないでください」という紙が床に張ってあるから,日頃イヤッというほど触っているスマートフォンに触れることができません. 「通知」を行なっているスマートフォンが自分のものではないからか,特にそれらに触れたいとは思わなかった. けれど,それらが「通知」し続けているのはとても気になります. >「通知」というのは以前に誰かが決めた予定だったり,誰かのTwitterのツイートからだったりと,その先に「誰か」,それはヒトであることが多いけれど,botかもしれないです,ヒトであろうがbotだろうが,それ以外であろうが,通知の先には何かしらが存在します.「プッシュ通知」について考えていくと, エキソニモが書いている 作品についてのテキストを思い出します. (   )と(   )の間にある(   )は、時には(   )であったり、またある時には(   )であったりします。そんな(   )の(   )に挑む展示を実行します。 「プッシュ通知」は,誰かと誰か=何かの間にあるもので,それは「Twitter」だったり,「Poke」だったり,過去の自分が立てた現在の自分への「約束」であったりします.スマートフォンの群れが伝え続ける「プッシュ通知」は,この場にない何かを伝えるためにディスプレイに表示されているわけです.「通知」だけを聞き続けて見続けていると,ここにはない(   )を感じ始めてしまうというのは言い過ぎかもしれないけれど,ディスプレイの「先」を考えるきっかけになります. この作品をタイトルの《風景2013》から考えてみると,そこに「風景」の移り変わりを見ることができます.エキソニモがネットの風景画としてGoogleのトップページを描いた 《A web page》 を完成させたのが2004年です.このときにはGoogleがネットの風景として成立していて,僕たちはそこにいって「検索」をしてネットをしていました.では,2013年の風景はどうでしょうか.スマートフォンの群れの先にある壁には「黒い枠」だけがつくられていて,そ...

そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か?

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CLICK | GALLERY で Jon Satrom  《Storm Cloud Computing》 ( Gallery_A ) が開催されている.Jon Satromはシカゴ在住の「ダーティ[dirty]」ニューメディア・アーティスト. 《Storm Cloud Computing》はAppleのiCloudの「雲」を用いた作品.ところどころグリッチした背景に多くの「雲」が表示されていて,ところどころはループで動いていて,音も流れている.クリックすると,別の画像が表示されていく. グリッチ自体は珍しいものではなくなった.この作品を興味深いものにしているのは,《Storm Cloud Computing》というタイトルだろう.「クラウド」を示す画像を文字通り「雲=Cloud」として捉えて,「嵐=Storm」を「グリッチ=Computing」つくりだしている.コンピュータが生み出す世界を「もうひとつの自然」と捉えることが多くなってきている.そうれであれば,データ上に発生する「雲」を使って「嵐」という現象を起こすこともできる. これは単に言葉遊びというか,モチーフ=メタファーの選択の仕方にすぎないともいえる.けれど,この作品のとなりに ラファエル・ローゼンダール の《 looking at somethin g》を置いてみると「もうひとつの自然」の「自然さ」というか,その考え方の枠のようなものがネットで活動する作家にはあるのではないかという感じになる. 《looking at something》はカーソルに位置に応じて,ウィンドウ内が「晴れ」であったり,「雨」だったり,「雷雨」になったりする.このシンプルなインタラクションに惹きつけられるのでだが,ここで見ているのは何かと考えると,よく分からなくなる.「ウィンドウ=窓」というメタファーを活かして,外の「自然」を見ている感じもするのだが,もちろんそれは現実の自然ではないし,リアルさを求めているわけでもない.「デスクトップ・リアリティ」というか,作品のタイトル《looking at something=何かを見ている》が示すように,それはブラウザのウィンドウ内に生じている「何か」としか言えないものであり,その「何か」を示すのに「自然」が使われているに...

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(6)

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6.おわりに  2013年3月9日にTumblrがアートブログのHYPERALLERGICとともに, The World's First Tumblr Art Symposiumをニューヨークで開催した.アートユニットEco Art Techのレイラ・ネイダ−とカリー・パーパーメントはシンポジウムに寄稿したエッセイに,私たちは目の前で起こっている現象に対して「語る言葉がないので,言葉はつくられる必要がある 53 」と書くように,私たちはコンピュータやネットがもたらす表現のための言葉をつくる必要がある.だからこそ,本論文は「選択的認識」という言葉をつくり,高解像度の地球画像「ザ・ブルー・マーブル」に基づく認識ではなく,低解像度で回りつづける(紙の上では回らないが)「earth.gif」から生まれる認識への考察を試みたのである. ザ・ブルー・マーブル earth.gif  「earth.gif」が回り続ける「ポスト・インターネット」的状況で,GIFと遭遇していくヒトは「選択的認識」を行うようになり,そこでは認識の多さが重要であり,認識及び画像の解像度は大した問題ではなくなる.そして,より多く認識を行うために解像度は徐々に下がり,現実の捉え方が変化していく.「選択的認識」はTwitterの例があるように,GIFに留まらずコンピュータとウェブに接していくヒトの認識の変容のひとつである.「選択的認識」は憂うような認識の劣化ではなく,ヒトがコンピュータとがひとつの複合体としてより密接な関係を築くための変容と肯定的に捉えるべきなのである.

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(5)

5.画像ファイルとしてのGIFとデフォルメされた世界  次に,GIFにおいて「選択的認識」がヒトに強く作用する理由を考えてみたい.美術批評家のボリス・グロイスは「画像ファイル」に関して,ファイル自体は見ることができない,つまり「オリジナル」を見ることができないものだとしている.その上で,「画像ファイル」に基づいてディスプレイに表示される「画像」は「コピー」ではなく,楽譜に基づいた演奏などに似た一回限りのパフォーマンス的なものであると指摘している 46 .ディスプレイに表示されている画像は「オリジナル」と「コピー」という関係が成立しないもので,パフォーマティブな画像だというグロイスの指摘は興味深い.「画像ファイル」のというあらたな画像のあり方が「選択的認識」に作用していると考えられる.しかし,この性質はすべての画像ファイルに当てはまるものであり,これだけでは「GIFとの遭遇」が,なぜ認識の変化の兆しを示すのかを説明できない.  1024個のGIFアニメを売買する場として2011年に《GIF MARKET》 47 をつくったキム・アセンドルフとオラ・ファッチは,GIFはその低解像度とアニメーションによって,画像ファイルは最終的にはプリントされるものという認識を変えるものだと考えている.そして,GIFにとってはディスプレイこそが「ホーム」であるから,たとえそれがグロイスの言うように見えないものであったとしても,ファイル自体が「オリジナル」として価値を持つのだと指摘する 48 .だから,彼らはGIFの画像ファイルを売るのである.これと対比できるのが,写真家のトーマス・ルフの『jpegs』 49 という写真作品である.ルフはJPEGが過度に圧縮された際に生じる「アーティファクト」と呼ばれるノイズにデジタル特有の美を見出す.彼はネット上に流通しているJPEG画像をさらに圧縮したノイズ混じりの画像を「プリント」して写真として提示する.ここでは,デジタル特有の「アーティファクト」がディスプレイとファイルとの結びつきから引き離されて提示されている.GIFとは異なりJPEGでは「画像ファイル」と「ディスプレイ及びコンピュータ」との「分離」が成立する.  JPEGと異なりGIFはディスプレイから分離できないからこそ,ポスト・インターネット的状況でネットを主な表現の場...

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(4)

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4.GIFとの遭遇と選択的認識  ホームページの装飾という役割を与えられていた従来のGIFでは「遭遇」が前面に出ることがなかった.GIFはホームページの至るところに配置され見る者の注意を惹いたが,それはあくまでも「家」のなかの置物にすぎないものであった.「家」のなかに置かれていたGIFをネットの流れのなかへ解き放ったのが,タイムライン型のダッシュボードをもつTumblr 35 なのである.  ガニングは「初期映画」が「映画はヴォードヴィルの演目に一つのアトラクションとして現われた.非物語的にしてほとんど非論理的なパフォーマンスの連鎖のなかで,相互に脈絡のないひとかたまりの出し物に囲まれて現われ 36 」,興行師の話にのって見せられていたと指摘する.これもまた,現在のGIFの受容と重なる部分である.GIFはTumblrというアーキテクチャを得て,「タイムライン」を脈絡なく流れてくるコンテンツのひとつとなり,見る者に「遭遇」という感覚を強く与えるようになったのである.動画にあるべき「再生ボタン」がないことが,この感覚をより強いものにしている.「再生ボタン」を持たないGIFは,ヒトとコンピュータとのインタラクションを否定し,ヒトと映像との最低限のインタラクションである「再生と停止」もできない.ガニングは初期映画の「上演」の際にはじめから動画を見せることをしなかったと指摘し,「最初の静止したイメージの投影は,装置の存在理由である動きの幻想をしばらく見せずにいることで,最初の映画の上映にサスペンスの効果をもたらした 37 」と書いている.Tumblrを流れてくるGIFではこれとは逆に,動画なのに勝手に再生されるということが「目の前にあるのは映像ではないのではないか」という「サスペンス」効果をつくりだすと考えられる.Tumblrのタイムラインの流れに放り込まれたGIFは,「驚き」とともに見る者と「遭遇」することになり,再び脚光を浴びることになったのである.  Tumblrでの見る者とGIFとの「遭遇」について教えてくれるのが,《The Gif Connoisseur》というTumblrサイトである 38 .《The Gif Connoisseur》は,「鑑定士」がGIFアニメをとても近くで鑑定するというGIFアニメである.しかし,鑑定士はGIFを近くで見す...