「テクノロジーと表現論」(2026年度)の授業資料

京都精華大学で「テクノロジーと表現論」という授業を担当しました。全7回で、表現の道具としてのコンピュータ、そのインターフェイスの歴史を辿る授業です。Sketchpad、マウスとカーソル、ウィンドウとデスクトップメタファー、ハイパーテキスト、スキューモーフィズムからフラットデザイン、Fluid Interfaces、そしてAIを順番に読んでいきました。

この授業を準備しながら、わたしはずっと渡邊恵太さんの『融けるデザイン』(2015年)を読み直していました。出版から10年。10年前の本を、いまのインターフェイス体験のなかで読み直していくと、不思議なことに、この本は「これまで」の本ではなく「これから」の本に見えてきました。

授業が終わってしばらくして、渡邊さん本人のこんなポストを見つけました。

最近は融けるデザインとは何だったかみたいな話し方にシフトしてる。さすがに10年過ぎて。そこの超軽工業への話をプラスして話す感じ。 (@100kw のポスト

これを読んだとき、「おお!」と思いました。渡邊さん本人が「融けるデザインとは何だったか」を10年後に読み直し、そこに超軽工業への話を足して話していたことを、わたしは半期の授業で、図らずもやっていたからです。もちろん、本人の語り直しとわたしの授業がそっくり同じというわけではありません。それでも、『融けるデザイン』(2015年)を読み直し、そこに『超軽工業へ』(2025年)を重ねていくという流れは、意図しないまま、このポストとよく似た形になっていました。

感覚的リアリティと意味的リアリティ

授業を振り返ってみます。第1回で、わたしはまず渡邊さんの「分けない」を紹介しました。

むしろ物質も結果的には体験であり、実は情報的に捉えられる。だから情報も物質も分けない設計ができる。 

渡邊恵太『融けるデザイン』(2015年)、p. 40

確かに設計面では「情報も物質も分けない」ということが行われてきたのが、この10年でした。けれど、そこから生まれる体験のほうを考えると、話はもう少し込み入ってきます。情報も物質も分けない設計のもとで、うまくいった体験は、疑問の余地なく、一つのまとまりとして立ち上がってくれます。けれど、それは本当に一つのリアリティなのでしょうか。わたしには、感覚的リアリティと意味的リアリティという二つのリアリティを、わたしたちがいったん分かれて受け取り、それがうまく噛み合っているだけのように思えます。そう考えるのには理由があります。インターフェイスに違和感を覚えるとき、たいていはどちらか一方のリアリティに引っかかりを感じているからです。感覚的には問題ないのに意味的に妙だったり、逆に、意味的には筋が通っているのに感覚的に引っかかったり。うまくいっているときには一つに見える体験も、つまずいた瞬間には、二つに分かれて立ち現れてきます。だからこそ、授業ではあえて、情報と物質とを分けない方向でデザインされた体験を「分けて」、わたしたちがその体験をいかに受け取ってきたのかを考えることにしました。そして、「感覚的リアリティ」(見える・触れる・動く)と「意味的リアリティ」(わかる・読める・選べる)という二つの軸を持ち込み、この二つの目盛りでインターフェイスの歴史を読み直していったのです。

第2回から第6回まで、この二つの軸でずっと辿りました。Sketchpadが物理世界から感覚的リアリティを借り始め、デスクトップメタファーが物理世界から感覚的リアリティと意味的リアリティの両方を借り、ハイパーテキストが想像世界から意味的リアリティのつくり方を借りて、体験をつくっていきました。さらに、スキューモーフィズムで全面的に借りた二つのリアリティが、デジタル世界での経験を通じて変質し、フラットデザインがデジタル世界独自の感触をつくり始めました。そしてFluid InterfacesとAIが、感覚的リアリティと意味的リアリティをそれぞれ「自前でつくる」ところまで来てしまいました。デジタル世界は、物理世界に由来する二つのリアリティを「借りる→変質→つくる」という長い流れのなかでたどり直してきました。その過程で『融けるデザイン』のキー概念である「自己帰属感」が少しずつ変容し、二つのリアリティそのものも螺旋的に変質していくプロセスを授業で扱いました。

二つのリアリティが区別できなくなる瞬間

6回の授業を通じて、情報と物質を分けない設計で生じる体験を、あえて二つのリアリティに「分けて」考えてきました。第1回で見たように、ふだんはこの二つを分かれて受け取りながら、それがうまく噛み合っているからこそ、情報も物質も分けない体験がなめらかに立ち上がっています。ただ、その噛み合いがいっそう深くなり、もう分けて受け取れないところまで来てしまう瞬間が、インターフェイスに生じてきます。そうした、二つのリアリティが区別できなくなる瞬間、感覚と意味とが融けている瞬間こそ、インターフェイスの歴史をたどるなかで最も大切だった体験だったように思います。

Sketchpadの制約が正方形を整えたとき、「自分が描いたのか、コンピュータが描いたのか」が融けていました。マウスのカーソルが動くとき、「自分の手なのか、画面のなかの矢印なのか」が融けていました。フラットデザインのスワイプでは「道具なのか世界なのか」が、Fluid Interfacesでは「自分の意図なのかコンピュータの予測なのか」が、そしてAIとの対話では「自分の考えなのかAIの生成なのか」が融けていきます。

渡邊さんが『融けるデザイン』のタイトルに選んだ「融ける」という言葉は、対象の側で情報と物質が分けられないという意味だけでなく、体験の側で感覚的リアリティと意味的リアリティの区別が融けていく、その瞬間も指していたのかもしれないと、授業を終えた今のわたしはそう考えてしまいます。第1回で引いたp. 40の「情報も物質も分けない設計ができる」は、まだ「対象の側」の話でした。体験のなかでは物質と情報は最初から融けている、だから設計も分けなくていい、という宣言です。けれど、感覚と意味が完全に噛み合い、どちらがどちらを支えているのかを問う必要がなくなるとき、体験のなかでは、もう情報か物質かという問いそのものが立たなくなります。

だから、渡邊さんは『融けるデザイン』の終盤で、対象の側の話からさらに踏み込んで、こう書いているのではないでしょうか。

体験から考えれば、情報と物質の分別はあまり意味がない。物質のほうがリアルだと思っているが、身体は物質的でもあるし情報的でもあるから、物質か情報かは重要ではなく、体験の質が重要になる。 

渡邊恵太『融けるデザイン』(2015年)、p. 220  

「体験の質が重要になる」。これは、分けるか分けないかという問いそのものを超えて、体験そのものの質に向かえ、という宣言のように読めます。

では、その「体験の質」がもっとも高まっていると感じられるのは、どんなときでしょうか。授業を振り返ると、それは、感覚的リアリティと意味的リアリティとが深く噛み合って、一つの体験として立ち上がっているときでした。そしてそれは、対象の側から言いかえれば、情報と物質の分別がもっとも意味を失っているとき、渡邊さんの言う「融け」がもっとも深まっているときでもあります。体験の側で二つのリアリティが一体になることと、対象の側で情報と物質が融けることは、別々の出来事ではなく、同じ一つの瞬間の表と裏なのだと思います。

その同じ瞬間は、二つのリアリティが一緒になって一つの行為を生んでいる瞬間でもあります。Apple Pencilで文字を書いているとき、わたしたちは連動性も意図との一致も意識しません。ただ「書いている」。行為が成立しているとき、分析の軸は見えなくなります。テクノロジーは、表現のための道具であるだけではありません。感覚と意味を組み替え、わたしたちの行為を変え、その結果としてわたしたち自身と表現を変えていく環境でもあるのです。

そして、二つが噛み合って行為が成立するそのとき、体験は「軽い」ものになっています。その「軽さ」を、10年後の渡邊さんは別の本で言葉にしていったのだと思います。

融けて、軽くなる

物理世界とデジタル世界を対比すると、デジタルはつい「重さがなくてイマイチ」というネガティブな言い方になります。でも渡邊さんは、物理/デジタルという二項対立に「想像世界」という第三の世界を置きます。

デジタルはたとえば「物理世界みたいに重さがなくてイマイチ」ではなく、「想像世界のように軽くていいね」という価値をフレームとして持つべきである。 

渡邊恵太『超軽工業へ』(2025年)、p. 179

重さがないことを欠点ではなく価値として捉え直しています。その鍵が「想像世界」です。想像世界は質量も輪郭もなく、編集しやすく、可逆的で、試行錯誤が止まりません。デジタルはこの想像世界の性質を実装してきました。だから「軽い」のです。そして、軽いけれど、体験はちゃんとあります。

デジタルメディアには質量はないが、そのインタフェースやインタラクションということになれば、そこにはなんらかの感覚や体験が発生する。この事実は、質量はないが体験があることを示す言葉として「超軽い」という表現がふさわしい。 

渡邊恵太『超軽工業へ』(2025年)、p. 196

質量はないが体験はある。「超軽い」というこの言葉が、授業で使った二つのリアリティとそのまま繋がってきます。質量がないのに体験があるとは、感覚的リアリティと意味的リアリティが、物質という錨なしに、自前で立ち上がっているということだからです。そう考えると、「融ける」と「軽くなる」は、同じ運動の二つの面なのかもしれません。物質と情報を分けない設計をしていくと、体験は物質という重さから少しずつ離れていきます。融けて、軽くなっていくということが、デジタル世界を中心に起こっていたのが、この10年という時間だったのかもしれません。

10年前の「融ける」が、10年後に「軽い」という言葉を手に入れたのかもしれません。「テクノロジーと表現論」という授業とともに、わたしは『超軽工業へ』を経由して、改めて『融けるデザイン』を読みました。すると、10年前のこの本がいま「これから」の本に見えてきました。それは、たぶん、わたしたちの体験のほうが、ようやくこの本に追いついてきたからだと思います。そして、追いついた先で見えてきたのは、軽さだけではない多様な体験の質と、それをいつも追いかけきれずにいる言葉でした。融けて、軽くなる。その先を、言葉より先に立ち会いながら、つくる人として、どこまで辿っていけるでしょうか。最後に、学生にそう問いかけました。

そんな授業「テクノロジーと表現論」の資料になります。
https://mmmmm-mmmmm.notion.site/375a1dc074818051bf2ce56601f656d6?v=e0da1dc0748182dfbf830813b8929f12&source=copy_link

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