メモ:ネットアート,動物化するポストモダン,グーグルの奇妙さ
ネットアートについてのスライドを作った.ネットアートを考えるときに,東浩紀さんの『 動物化するポストモダン 』を参照してみた.その理由は以下のことから. その分かりやすい例がインターネットである.そこには中心がない.つまり,すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない.しかしそれはまた,リゾーム・モデルのように表層的記号の組合せだけで成立した世界でもない.インターネットにはむしろ,一方には符号化された情報の集積があり,他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある,という別種の 二層構造 がある.この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは,そこで,表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が,深層ではなく表層に,つまり,隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である.近代のツリー型世界では表層は深層により決定されていたが,ポストモダンのデータベース・モデル型世界では,表層は深層だけでは決定されず,その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す.(pp.52-53) ところがウェブの世界はそのように作られていない.そこではまず「見えるもの」の状態が定かではない.繰り返すが,ウェブページの本質はHTMLで書かれた一群の指示であり,ユーザーに見える画面は,それぞれのOSやブラウザ,さらにやモニタやビデオチップまで含めた環境による「解釈」にすぎない.しかもウェブページはブラウザを通して見なくてもよい.実際にそのソースコード(HTML)は,〈h1〉などのタグが入ったテクストとして,エディタで簡単に開くことができる.そしてそれもまた,テクストとして表示されているかぎりは,やはり「見えるもの」である.このような意味で,ひとつのウェブページには,見えるものがつねに複数あると言うことができる.(p.148) 動物化するポストモダン:オタクから見た日本社会,東浩紀 この考えから, http://wwwwwwwww.jodi.org/ などを見てみると面白いではないかと思った.このような「見える/見えない」の関係と,ネットアートの関係.そして,ネットアートにも影響を及ぼしたと考えられるグーグルと「データベース」,「見える/見えない」との関係.これらについてはまだまだ考え中. グーグ...