投稿

2月, 2010の投稿を表示しています

見ているモノは触れているモノか?(1)

自分の興味が「カーソル」に向かっているので,以前,英語で書いた‘ What You See is What You touch? ’ を(少しずつ)訳してみる.このテキストは,名古屋大学で行われた第4回感覚設計国際シンポジウムで発表したものです. -- アナログ的コミュニケーションに関してわれわれは,情報理論や論理階型理論に相当する,形式理論を何一つ持っていない.この事実は,論理と数学の特殊化された世界を離れて,自然界の事象とまともに向き合おうとするわれわれにとって,たしかに大きな障害である.自然界では,純粋にデジタルなコミュニケーションというのは,純粋なアナログ・コミュニケーション同様,めったに起こりはしないのだ.(p.396) 精神の生態学:改訂第2版,グレゴリー・ベイトソン これは,グレゴリー・ベイトソンの言葉である.ベイトソンが提起しているのと同じ問題が,ユーザ・インターフェイスでも起きているのではないかということを,私は考えたい.コンピュータはデジタルである.コンピュータは形式論理にコントロールされている.しかし,ヒトは純粋にデジタルな存在ではない.デジタルというよりは,かなりアナログだといえるかもしれない.だとすれば,インターフェイスは「純粋なデジタル」なコンピュータがアナログになり,かなりアナログなヒトがデジタルに近づく場所になるべきなのである.なぜなら,このコンピュータとヒトというふたつの項がコミュニケーションを行う場がユーザ・インターフェイスであるからだ.

「身体|カーソル|イメージ」を補完するためのメモ

.review に書いたテキストのタイトルは「身体|カーソル|イメージ:カーソルが切り替える世界」にした.1万字というのは結構短いけど,1つの考えをまとめるにはちょうどいいのかもしれない.でも,もう少し書こうと思っていたメモがあるので,それをここに書いておこうと思う.テキストを書き終えた後なので,メモを修正しつつ,あとでまた参考にできるメモにするために. -- 「身体|カーソル|イメージ」の切り替えを可能にしているのは何なのか? このことを考えるために東浩紀が「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の中で,GUI について論じている箇所参照する. しかしそこで決定的に異なるのは,目と言葉,イメージとシンボル,仮想現実の虚構性を伝える情報と現実性を仮構する情報とが,ともに並んでスクリーンの上に見出せることだ.インターフェイス的主体は,スクリーン上の文字列や図像(アイコン)を,一方で虚構的イメージとして処理しつつ,他方で現実的シンボルとして処理する.(p. 281) ケイはある論文で,彼が開発した GUI プログラミング言語(Smalltalk)の目的は,「イメージを操作してシンボルを作る」ことだったと簡潔に表現している.イメージによってシンボルを操作すること --- つまり,スクリーンの上の記号,エクリチュールを操作して「見えないもの」を扱うこと,この単純な発想は,おそらく見た目よりはるかに大きな認識論的な変化を通過している.ラカンは前述のように,イメージをシンボルへ飜訳することだけを考えていた.「見えるもの」を「見えないもの」によって,つまり経験されたもの(現象)を超越論的条件によって基礎づけようとするその企ては,哲学的伝統にきわめて忠実なものだ.しかし GUI の開発者たちはむしろ,見えるものと見えないものとが区別されないスクリーン,イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない「エクリチュール」に満たされた,新たな表面の概念から出発しているように見える.(p. 334) サイバースペースはなぜそう呼ばれるか in 情報環境論集,東浩紀 すべてが見るものに留まっている GUI では,目と言葉,イメージとシンボルを区別せずに扱おうとしている.けれど,そこにはズレがあるのではないか? このズレを調停するために.ズレをズレでなくてしまうイメージでも,シンボルでもないモ

カーソルとスイッチ

われわれは日常,”スイッチ”という概念が,”石”とか”テーブル”とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチは,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない.スイッチはただの”導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない.(p.147) スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.”スイッチ”という概念は,時間に対し特別な関係を持つ.それは”物体”という概念よりも,”変化”という概念に関わるものである.(pp.147-148) 改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論,G・ベイトソン カーソルはベイトソンが言う意味での「スイッチ」なのではないか? カーソルは時に私たちの「手の延長」になり,時に私たちと切り離され,放置された←にすぎなくなる.カーソルが「あるけどなくて,ないけどある」ような曖昧な領域を私たちに示しているとすれば,その「曖昧さ」は「ある|なし」の切り替えという時間において,その変化の瞬間にしか「カーソル」が存在しないからではないのか? 私たちはそのカーソルが形成する曖昧さの領域の中で,新たな想像力を形成しているのではないか?  .review の締切まであと2日.

能動と受動の間,具象と抽象の間にある←,カーソル

ICC で行われている「 可能世界空間論:空間の表象の探索の,いくつか 」に出品されていたエキソニモさんの《 ↑ 》を見に行くために東京へ遠征.エキソニモさんの作品は,東京都現代美術館で行われている「 サイバーアーツジャパン―アルスエレクトロニカの30年 」にもあって,どちらの作品も自分の興味にはまりすぎるくらいはまっていたので体験できて良かった.《 ↑ 》へのツイート.もっともっとこの作品も含めエキソニモさんのカーソルとマウスによる作品群はいろいろと考えたい.下のエキソニモさんのステイトメントに追いつきたい. ネットワークの向こう側の空間.デスクトップに存在するカーソルと言う縄張り.モニターを見ている自分という座標.それら複数の時空が織りなす,レイヤー化された現代のアイデンティティ.そんな分断されつつ同時に成立する自己を撹乱するインターフェイスを制作します.その体験を経ることで,僕たちはゴットに一歩近づけるかもしれない. ――エキソニモ -- エキソニモ《↑》:←を動かすと、←を含んだ平面ごと動く。この平面は世界に属している。つまり、←を動かすと世界が動く。地と図があっけなく反転する。この「あっけなさ」の中で、私たちはディスプレイというひとつの枠を持った平面にその存在を縮減される。もっと自由になれる。 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9176955957 マウスを動かすと自分を含んだ世界が動く。注意が←へと強制的に捻じ曲げれる。でも、私たちにとってはもう当たり前の出来事。←によるこの注意の捻じ曲げは、私たちの意識をあっちこっちにひょいひょいと飛ばす。気持ちいい。この気持ちよさが、何を意味するかはまだ分からないけれど。 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9177110999 -- 行きのバスの中で考えたカーソルのこと.能動性と受動性ということをひとつの軸にしてカーソルを考えてみた. カーソルほど曖昧なイメージはないのではないだろうか.私たちの身体とつながっているときは「キャラクター」のようにレイヤー間を自由に動き回り,イメージを操作するイメージという能動的な存在になる. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9191296

円環の重なり

イメージ
.review へのテキストのための図の作成 -- ラメラスケイプを介した円環を作ること.ラメラスケイプには直接的に身体に影響を与えるモノがないのだ.私は身体に直接的な影響を与えるモノとしてコンピュータを考えたいコンピュータは,想像力に影響を与えると考えられがちだが,身体に大きな影響を与えるモノなのだ. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9038191210 -- 今日のツイートはこれだけでした.夜は,昨日描いたテキストの書き直しした後,上のツイートを図にしようと「ラメラスケイプ」と「GUI」における円環をまず描いて,いろいろと考えていたら,円環が重なったものになった. あと,ラメラスケイプとその想像力,コンピュータ・レイヤーと文化的レイヤーの関係図も描いてみた.こうやって図にしながら少しずつ,こんがらがった思考を解きほぐしていけたらいいなと思うのですが….

カーソル:終点|始点→時間的(あるけどなくて,ないけどある)→身体の単一性

.review へのテキストを書いてはプリントアウトして,赤入れて書き直しての繰り返し中.今日は,その間に,どうしても東浩紀さんの『クォンタム・ファミリーズ』が読みたくなったので,買ってきて一気に読んだ. -- インターフェイス関連のところに付箋をつけていった.これはジェスチャー,タッチ,クリックとか.これほど付箋をつけて読んだ小説はないかもしれない.でも,QF で印象に残ったのは,死体の描写とプラスチックの筐体が割れたということ. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9003695586 @wuperloop 死体の描写は可愛い娘さんがいる東さんよくあそこまで書けたなぁと思いつつ,あれだけ描写したのに精神というか人格はあっさりと別世界へと移行する.プラスチックの方は単なるモノで,描写もアッサリしているのだけれど,それでひとつの精神みたいな存在が無くなる重みをもつ. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9004510072 テキストを書かないといけないのだけれど,なぜに QF を読んだのか.自分の中では,文学的想像力とコンピュータ的想像力とが交叉するところに QF があるのではないかということを確かめたかったからのかもしれない.読んでみると,精神と身体=モノという対立が一番印象的だったかも知れない. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9004613354 精神=人格は次々に身体を次々に乗り換えていく.最終的には,身体がモノ化していくような.精神は重層化していくけれども,身体はモノと交換可能なひとつの層に配置されていく. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9004792639 -- 今回のカーソルに関するテキストで,本当は,身体のモノ化までいきたかったのだけれど,その前の「身体(行為)の単一性」というところまでしかいけない….「モノ化」とか「単一性」と何となくネガティブな感じがするのだけれど,そうではなくてこれらの言葉を使ってこれまでとは異なる身体を可能にする想像力が生まれているのでは? ということを考えたい. -- GUI とカーソル 1.GUI の中でのカーソル→終点|

始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為

.review  に投稿するためのテキストを昨日,サインペンで殴り書きしたものをタイプした.今のところ,6382字.でも,全然まとまっていません.何となく形になってきたというところだけが救いですが….その後,読み返して,自分で赤い入れながら考えを少しでもよくしようと頑張りました.下のツイートはそこからでてきたものです. -- カーソルが私たちに促すのは始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為である.ただし,ここで一度決められた終点は,一瞬の後に始点になってしまうがゆえに,延々と始点と終点を決め続けなければならない. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8959994500 コンピュータは,カーソルを介して私たちが延々と行う始点と終点を決め続ける行為を受け入れ,この単純な行為の繰り返しから多様なアウトプットを計算し,表示し続ける. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960129574 デスクトップ・メタファーをめぐる想像力の変化.1984:マウスとカーソルによって多様な行為が始点・終点の選択という単一の行為に縮減・後退し,現実/仮想という構造が前景化する. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960538375 1999〜:現実/仮想という構造が後退し,単一化された行為がその単一性にゆえに前景化する.デスクトップ・メタファーをめぐる想像力の反転に,カーソルが示す身体性の「ある|なし」の重ね合わせが影響してる. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960699371 -- 私たちは始点と終点を決めるという単純な行為と,キーをして文字を入力するということを延々と繰り返している.キーで文字入力はタイプライターがあったけれども,始点と終点を決めるだけで,ここで始点を決めるというのは少し違うかも知れない.私たちは,カーソルをどこか目的の場所,終点を目指して私たちは動かすのだが,そこでクリックなりなんなりをしてしまったあとは,カーソルはそこに放置される.今まで私たちの身体と結びついていたのに,あっさりと放棄される.放棄されても,カーソルはそこにあり続けて,次の目的地・終点

アウトライン+メモ:カーソル/身体性の「ある|なし」/モノ|データ|映像

.review のためのアウトラインをノートに殴り書きして,それをツイートしたもの+最後に気になった部分を考えるためのメモ.ツイートするときにやはり書き直しが入るので少しずつ考えが流れになってきている感じがする.今度は,これをノートに写して,そこに長めの文章を書いてみよう. -- アウトライン 1.カーソルについて論じる.→2.先行研究として須永さんの論文.身体の代理記号としてのカーソル.→そうではなくて,「身体」の新たな在り方としてカーソルを捉えるべき.身体を情報空間の中に単なる位置情報に縮減して置くための装置としてのカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848167198 3.このことを考えるために斉藤さんの「ラメラスケイプ」論文を参照する.→なぜに文学的想像力でカーソルを説明するのか?→レフ・マノヴィッチによるコンピュータ・レイヤーと文化的レイヤーによる相互浸透の指摘から.認識の重層化. コンピュータ⇔文学的想像力. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848275095 ラメラスケイプの中で考えるカーソル.カーソルに密接に関係するデスクトップ・メタファー.身体性を帯びたメタファーの1つの構成要素としてのカーソル.ウィンドウの重なりを自由に移動するカーソル=身体性が欠如したキャラとしてのカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848549808 デスクトップ・メタファーを「メタファー」として意識しないことと,ラメラスケイプの中で「比喩」が歴史的使命を終えたこと.でも,カーソルはメタファー以前に,マウスというモノに身体的に繋がっている.メタファーが機能しなくなった後も身体との関係を保つカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848793789 「メタファー」が機能しなくなった後も身体との関係を持ちつつ,キャラ化し,ウィンドウの間を自由に行き来することができるカーソル.身体性が「あるかないか」ではなく,その2つが重なり合っているのがカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8

「自己座標系」なんて投げ捨てたい

.review に書こうとしているカーソルに関しての考察について,須永剛司「インタラクションに関する考察:「自己座標系」をデザインすること」(『 創造性の宇宙:創世記から情報空間へ 』所収)を読んで,反射的に思ったことを書き連ねたもののまとめ. -- 須永さんのカーソルの考え:「ユーザの視線を代理する記号」→「スクリーン上にある『自己の存在・場所』に近似するもの」→「ユーザがもっているであろう関心の場所を表示している」→「システム側が期待するユーザの思考の『存在・場所』でもある」 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8808789087 それゆえに「システム側とユーザ自身の関心の場所とがずれていることも多々ある」.この「ずれ」というのが気になる.カーソルは私たちの関心が向かう先を表していると同時に,私たちの関心はシステムによって導かれてもいると考えるとここに「ずれ」はない. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8808881299 カーソルは,システム/ユーザの関係性から生じる関心の場所を常に指さすことで,システムとユーザの間に生じる「ずれ」を解消している.ユーザとシステムをそれぞれ単体で独立して考えるからそこに「ずれ」があると感じる. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8808998318 須永さんは「カーソル=『体』の代理記号」と考えている.これに対して,カーソルは代理記号ではなく,「体」の別の在り方を示していると私は考えてみたい. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8809117052 須永さんは「情報空間のインタラクションは,自己と表象である情報を結び付ける『自己座標系』が欠如しているのだ」と書くけれど,「自己座標系」なんて投げ捨てたい.情報空間に,物の空間と同じような形で「自己」を定位なんてしたくない. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8809243222 では,どうするか.「 千房:でも,あれによって「永遠に死なない存在」になるんですよ.カーソルの存在の根拠は「しょせん座標データだ」っていうことなんですけど.逆に座標を記録

インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか.

.review  にテキストを書くために,昔発表したものを改めて読んでみた.カーソルについては論じていないけど,GUI が担っている思想的背景みたいなものを自分がどのようにまとめたかを確認できた.このときは「カーソル」という存在をまったく見落としていたので,ここからどうカーソルと関係させていくか. -- イメージ操作シンボル View more presentations from Masanori MIzuno . インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか. 1.はじめに アラン・ケイが提唱したスローガン「イメージを操作してシンボルを作る [Doing with images makes symbols] 1 」は,現在のグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)につながるアイデアを簡潔に表現し,GUI の開発に大きな影響力をもった.ケイのスローガンは,ヒトとコンピュータとのコミュニケーションをどのように変えたのであろうか.現在,世界中に,GUI を実装したコンピュータは数えきれないほどあり,私たちはそれを使って日々の作業を行っていることから,ヒトとコンピュータの関係の変化は,ヒトのコミュニケーションそのものへも影響を与えているのではないだろうか.本論考では,上記のことを考えるために,まずは,一般化した GUI がどのような影響をもっているのかを確認するために,東浩紀とシェリー・タークルの議論を考察する.次に,ケイが,どのような影響のもとで,上記のスローガンを掲げるに至ったのかを明らかにする.最後に,スペルベルとウィルソンの「関連性理論」を参照して,GUI が私たちに提示したコミュニケーションの手段を考える. 2.インターフェイス的主体とブリコラージュの再評価 哲学者の東浩紀は,『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』の中で,現在のユーザ・インターフェイスの主流を占めている GUI について興味深い議論をしている.東は,ジャック・ラカンとスラヴォイ・ジジェクの精神分析の理論をもとにして,シェリー・タークルが1990年代のコンピュータ文化を特徴づけるために用いた「at interface value」

あのマウスカーソル邪魔じゃね?

イメージ
.review で公開した「 カーソルの先 」のアブストに興味をもってもらった k_soryu さんから「夢オチ」という作品を教えてもらいまいた. http://www.kenshiro.tv/ から「WORK」をクリックし、左にある三角をクリックしたところにある「夢オチ」というFlashです。  「森井ケンシロウ.tv」はトップページから,画像とカーソルとの関係があってとても楽します.で,「夢オチ」なのですが,これはタイトル通り「夢」の中のお話です.とても面白い映像になっていますので,是非見てみて下さい.森井さん自身が書いていますが,クリックしてから,しばらくはなにも起きませんが,気長に映像が始まるのをお待ち下さい(私は,最初何度もクリックしてしまいましたが…). 森井さんが作ったこの「夢オチ」では,ディスプレイ上というある種仮想空間の入口みたいなところでありながら,確かな現実として私たちが見ているカーソルが,夢の中に登場してモノ化するということが起こっています. この作品の中では,「マウスカーソル」も立派なキャラクターとして登場しています.といっても,はじめて見たときは,「マウスカーソル」が作品の中にあることなど気づきもしませんでしたが….自分の動かしてるカーソルには注意して,作品が流れている枠の外に出して見ていたのですが,突然,作品の中の「森井さん」が「あのマウスカーソル邪魔じゃね?」と言って,「マウスカーソル」を指さして,見ている人に「カーソルをどかしてください」と言います.私はこの言葉に,ドキッとして,すぐさま自分のカーソルを動かそうとマウスに手を伸ばしました.この「ドキッ」とした感じは,映画館か何かでうっかり,プロジェクターとスクリーンの間を横切ってしまって,自分の影をスクリーンに映してしまったのを注意されたのに似たような感じです.でも,「森井さん」が邪魔と言っていた「マウスカーソル」は作品の中に予め登場していた白いカーソルのことでした. 次に,「森井さん」は「マウスカーソル」をバシッと叩きます.画面上の白いカーソルが叩き落とされます.もちろん,私のマウスとつながっている黒いカーソルは画面のどこかに何事もなくあり続けますが,作品の中の「マウスカーソル」は心地よい効果音とともに「森井さん」に叩き落とされます.ここから,「マウスカーソ

.review #commu2010 #commuabst01

.review のサイトで,「カーソルの先」というタイトルで書く論考のアブストが掲載されました. http://dotreview.jp/2010/01/abstract01/mizuno/ Twitter でも,この論考に関係することには,#commuabst01 のハッシュタグをつけてつぶやいてみたいと思います. 編集委員の方々に,こういった場を作ってもらってありがたく思っております. http://dotreview.jp/