投稿

メディアアート概論(2025年度水野担当分)の授業資料

イメージ
女子美術大学 の首藤圭介さんに声かけてもらって、 茅ヶ崎市美術館 の藤川悠さんと3人で「メディアアート概論」の授業を今年度もしました。 昨年度 同様、私の担当分は5回でしたが、今年は構成を変えました。担当回の最初に、谷口暁彦さんの《parallax》(2021)を見てもらって、その感想・コメントを書いてもらいました。その後、メディアアートを考える基礎的な事象を「視界・リンク・仮想空間」というキーワードで示して、最後に改めて、谷口さんの《parallax》を見てもらって、感想・コメントをかてもらうという構成にしました。このようにした理由は、以下のものです。こちらは授業資料から引用です。 「作品を作って、終わり/作品を見て、終わり」と、私たちは「作品体験」を一つのブロックとして完結させて考えがちです。しかし、そうではなくて、作品を作って、見て、考えて、次の作品を作って、見てという延々と続いていくプロセスの中で、私たちの考えは常に変化しています。この授業では、その変化を捉えたいと思っています。特に、「批評」「考察」といった言語がそのプロセスにおいて、どのような役割を持つのかということを、皆さんに考えてもらう機会が提供できたらと考えています。 最終回での学生のコメント、そして、水野担当回全体への学生のコメントを読んでいると、多くの学生が作品の感じ方、考察に仕方が変わったと書いてくれていました。試みは成功したと、自分では思っています。 メディアアート概論(2025年度水野担当分)の授業資料 https://mmmmm-mmmmm.notion.site/2b3a1dc0748180949db4d8d183a40414?v=2b3a1dc074818070887d000c4a1246c0&source=copy_link 授業資料をAIを積極的に使いながら、アップデートしてみました。昨年度よりは、わかりやすくなっていると思います。また、学生のコメント部分は削除しています。

京都芸術センターで開催されている展覧会「影の残影」のレビューを書きました🌘

イメージ
京都芸術センターで開催されている展覧会「 影の残影 」のレビュー「 「影の残影」のなかで私たちは「私」として思考し続ける 」を書きました🌘 展覧会をコーディネイトしている三好帆南さんからレビューの依頼が来ました。三好さんは、私が以前レビュー「 展示をめぐるフレーム 」を書いた、ねる企画の「ぐねる」「トンネル」に参加されていました。三好さんはそのレビューを読んで、執筆依頼をしてくれました。とてもうれしかったです。 「影の残影」のキュレーター・ 李静文 は、会場で配布されているリーフレットに次のように書いていました。 本展は、デジタル時代におけるキュレーションの立場そのものに対する実践的な問いかけでもあります。特に現在、取り扱う情報量の多さだけではなく、AI は言語生成や画像編集といったクリエイティブプロセスの多くを担うようになり、展覧会テキストの作成ですら、キュレーターの独自性を失いかねない時代に到来しています。(本展のステートメントも AI にサポートされています。)そのような中で、インディペンデントキュレーターが果たすべき役割とは何でしょうか? 李さんとは立場が異なりますが、私もまた同じような問題意識を持っていました。この問いに自分なりの回答をしていこうというのが、今回のレビューの大きなモチベーションでした。 AIとともに考えることを念頭に、展示を見た体験を時系列で メモ していきました。リーフレットに書かれた文字を写経してテキストデータにして、思考を展示に馴染ませつつ、これもまたAIとの協働作業の準備です。写経しているときに、以下のメモを書きました。 影の残影 / Shadow of the Shadow 遮眼帯は「ハーネス」でもあり、秋庭さんの『あたらしい美学をつくる』と勝手にリンクしていく。 影の残影として人間を探してしまうのが、この展示の面白いところかもしれない。影=データの残影としての人間。人間を想像してしまうところが、私たちの想像力の限界かもしれない。人間存在を自動的に想像してしまう。自動的に想像してしまうことを止めることができない。 展示のことを考えて打ち込みをしているときに、私に現れる展示風景は「残影」と言えるのだろうか。言えるだろう。影の残影。私が自動的に思い浮かべてしまう展示風景に私はいない。私はいる。けど、私は見えない。 「些細な刺激から無...

「ユリイカ2025年6月号 特集=佐藤雅彦」で佐藤雅彦さんへのインタビューの聞き手をしました

イメージ
  「 ユリイカ2025年6月号 特集=佐藤雅彦 」で佐藤雅彦さんへのインタビューの聞き手をしました。編集の熊谷さんがつけたタイトル「よく考えるとすごく変」がとても気に入っています。 佐藤さんへのインタビューのためのリサーチページの記録を見ると、熊谷さんからメールが来たのが5月16日だった。午前中に作業をしていたら、メールが来て、佐藤さんへのインタビュー!?、私でいいのかとドギマギして、午前中の作業は吹っ飛んだ。 「佐藤雅彦」といえば、私にとって憧れというか、「とてもすごい人」だった。その人にインタビューするのか、私が…  論考なら書けるかもしれないけど、インタビューできるのか…  私がやったことがあるインタビューといえば、科研の研究でしたアーティストの山形一生さんへの インタビュー だけで、しかも山形さんは全く知らないわけではない間柄でやったインタビューだから、私は仕事としてのインタビューはしたことないぞ、それでいいのか… 、と、ぐるぐると考えた結果、依頼を受けることにして、正午過ぎに熊谷さんに返信した。 メールを読んで、佐藤雅彦さんへの聞き手の依頼は大変うれしくもあり、熊谷さんがしっかりと理由を書いているのを読んでもなお「なぜ私?」という気持ちもありました。しかし、私が聞き役とし適任だろうと思い浮かべた人たちはみんな企画の中に名前がありました。彼ら彼女らの論考は私自身も読みたいので、聞き手は別の人だなと思うと、私が聞き手になるというのも意外性があって面白いのではないかと、気持ちが落ち着きました。 メールにも書いたように、インタビューを受けた一番の理由は、聞き役として適任だろうと私が考えた人たちは、みんな論考やエッセイの執筆に名前が挙げられていたからということであった。いや、それは表向きで、一番の理由は、やはり佐藤さんに会ってみたかっただろうな。 インタビューの聞き手を引き受けた5月16日から、私は「佐藤雅彦合宿」に入った。というのも、佐藤さんの仕事は膨大にあるのと、インタビューの依頼が「これまでの活動の一つ一つを照らし出していくようなご質問」をすることだったから。佐藤雅彦関連の本を研究室で探したら、結構あって、ないものは大学の図書館で借りたり、Amazonで購入していった。そして、片っ端から読んでいったり、映像を見たりしていった。 「...

日本映像学会第51回大会での発表:VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか

イメージ
神戸大学で開催された日本映像学会第51回大会で「VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか」という発表をしました。発表資料の最後に「この研究はJSPS科研費 23H00579 (モアザンヒューマンの美学――動物論的転回以降の感性論的可能性)の助成を受けたものです」と記したように、私はここ3年、動物が何かしらのインターフェイス関連の体験をしている題材を探していました。そこで見つけたのが、マウスがHMDをつけられてVR体験をする研究です。3年の科研の2年目の終わりで、マウスVR研究を見つけました🐭🥽🥸 セーフ!  これでやっと科研の研究が進められると思ったものの、研究をどうすれば進められるかと、トマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』を読みましたが、主観的体験についての限界を知って、頭を抱えるだけでした。それでも、どうにか発表の形にまとめられました。 今回の発表準備での変化は、NotionAIの半額オファーが来ていたので、契約して、AIを積極的に使ったことです。無制限にAIを使いながら、研究を進めました。ある程度、発表資料を書いたら、「発表資料のいい点と改善点を教えて」と聞いて、いい点を読んで「いけるぞ!」と思って気分を上げた後で、改善点で「おー、確かに」と頷きながら、自分で改善したり、AIに具体的に改善してもらったりしました。途中から、Notion AIだけでなく、比較も兼ねて、契約についてきたClaud、chatGPT、Geminiも使って、それらと対話を重ねながら、発表資料をまとめていきました👾 私はアイデアを勢いで書いたあとで、アイデア同士を接続していくのが苦手なのですが、生成AIたちはそこが得意みたいで、「そうやって、アイデアをつないでいくんだ」と感心することが多かったです。 使ってみたAIで発表資料に対する的確なコメントをくれたのは、GoogleのGeminiの2,5 Proでした。同じくGoogleのNotebookLMも良かったです。特に、Geminiが発表資料をもとに書いた論文を、NotebookLMにポッドキャストにしてもらったものはおもしろかったです。発表前に流していたら、会場で笑いが起こりました。 今回の発表は、一方で、マウスという主観的体験を推測するしかない存在を扱いながら、もう一方で、インターネットにあげてきた...

PaperCに「 REVIEW|展示をめぐるフレーム ──非意識的空間と無意識に至るトンネル」を書きました

イメージ
PaperC の編集をしている永江さんに声をかけてもらって、 ねる による2つの展覧会「ぐねる」と「トンネル」のレビュー「 展示をめぐるフレーム ──非意識的空間と無意識に至るトンネル 」を書きました。公開からしばらく経ってしまいましたが、その紹介ブログです。 永江さんに声をかけてもらったときに、メディアアートの展示でないので、私にレビューが書けるのかということを考えました。でも、ねるが残した展示につながる企画書などを読んでいると、今回の2つの展覧会には「いつまで、どこまでが展覧会か」という問題意識があると思い、それは私が近頃感じていた「レビューはいつから始まり、どこで終わるのか」という問題意識と近いところがあると思って、書いてみようと思いました。 なので、今回はレビューそのものはPaperCに上がっているものですが、そのレビューを書くときに永江さんに送ったメールやメモなどをNotionにまとめたものもリンクで紹介してもらっています。今回の展示は、展示が終わったあとに、感想を積極的に集めていて、その際に書いたテキストもまとめています。展示された作品を中心にした展覧会のレビューらしい「レビュー」は、Notionにまとめられている文章の中にあるかもしれません。 展示のレビューを書き終えて、しばらく経って、「ねるneru企画「ぐねるとトンネル」座談会」のお知らせが届きました。レビューを書いた人として参加しようかと悩みましたが、最終的に出ませんでした。このテキストを書いている今、改めて考えると、「逃げた」ような気もしています。そのときからもこの座談会に出ないのは「逃げ」のような気がしつつ、そのような心持ちで座談会のZoomに参加するのも嫌だと思っていて、最終的、参加しないという選択をしました。そのことをここに書くのもどうかと思いますが、レビューを書くということは、こうやってことあるごとに選択を迫られるものなのだと思い、書いています。 最後に、この紹介のブログを書いているときに、「ぐねる」にも「トンネル」にも「ねる/ネル」と「neru」が入っているなはじめて気づきました。こうやって、大事なことはあとに気づくけれど、そのときはもう自分が書いた文章は自分では変えられないところにあります。

紀要論文「《Layered Depths》が示す「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験」が公開されました

イメージ
紀要論文「《Layered Depths》が示す「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験」が掲載された 「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第61号」が刊行されました. 紀要論文の要旨です. 本論文は,ヨフの《Layered Depths》の考察を通して,「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験を明らかにするものである.ヨフによる作品説明を前提にして,《Layered Depths》の作品体験を考察していき,以下の3つの主張を行う.まず,彼らの作品の根底にあるコンピュータ以後のメディア体験が擬似空間と鑑賞空間との関係に変化を引き起こしていること.次に,《Layered Depths》が19世紀に生じた「映像を見る」という体験をひっくり返していること.最後に,コンピュータが「映像を見る」という体験に持ち込んだ仮想空間が映像を含んだディスプレイを「行為」の対象にし,擬似空間を鑑賞空間から独立させたこと.これらの主張を通して,映像体験が「見る」だけに留まらず,眼前の対象のより良い認知を求めて自ら変更していく「行為」を伴う主観的な体験になっていることを示す. 甲南女子大学の学術情報リポジトリに PDF が掲載されていますが,紙で読みたいという方がいましたら,以下のフォームから申込ください.抜き刷りを発送します.

「./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。」のシンポジウムに参加しました

イメージ
アーティストの 伊藤道史 さんの展示を中心にした「 ./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。 」というプロジェクトでのシンポジウムに参加しました.私が参加したのは,以下のプログラムです.とても楽しかったです☺️ ●Program.03 デジタル・オブジェクトの呼び声 3月15日(土) 19:00-20:30 水野勝仁(メディアアート研究者)× OBJECTAL ARCHITECTS (守谷僚泰+池田美月)× 宇佐美奈緒 (アーティスト)  発表に関するテキストとスライドはこちらです. 266:アイバン・E・サザランド「究極のディスプレイ」|1965年 を読みながら考えた 発表の振り返り OBJECTAL ARCHITECTSの池田さんが,360°カメラで撮影したディズニーランドの画像を見せながら,話したことが面白かった.池田さんは留学先でいきなりデジタル空間を移動する体験を叩き込まれたと言っていて,その体験もあって,360°カメラで撮影したディズニーランドを「知っている」と思ったということだった.360°カメラで撮影した画像は,明らかに私たちの視界とは異なるパースペクティブで世界を捉えるのだけれど,デジタル空間体験を叩き込まれたと言えるほどに身体に作用した状態だと,その異質な画像を「知っている」と感じる感覚が面白かった. 守谷さんが自分たちが手掛けた建築の事例を説明するときに「インターフェイスを介さない」という言葉を使っていて,とても面白かった.それは,私がインターフェイスに介さないで触れられる物理空間とそこにある物質というのが,実は特殊な状況なのではないかと考えているからであった.インターフェイスを介して,同一の情報を複数の視点から異なるものとして体験するということが,情報の体験という点ではノーマルな体験であって,インターフェイスなしで体験できて,同一性が保持される物質というのは,情報の体験としては異質な状態,もしかしたら,プリミティブな状態なのではないかと言えるのかもしれない.このように書くと,物質は情報ではないという反応は真っ先に来るだろうけど,そうではないよということを,アイバン・E・サザランドの「 究極のディスプレイ 」や渡邊恵太さんの『 超軽工業へ 』を引用しながら示したのが,私の発表だったということになる. この言葉がきっかけ...