京都芸術センターで開催されている展覧会「影の残影」のレビューを書きました🌘

京都芸術センターで開催されている展覧会「 影の残影 」のレビュー「 「影の残影」のなかで私たちは「私」として思考し続ける 」を書きました🌘 展覧会をコーディネイトしている三好帆南さんからレビューの依頼が来ました。三好さんは、私が以前レビュー「 展示をめぐるフレーム 」を書いた、ねる企画の「ぐねる」「トンネル」に参加されていました。三好さんはそのレビューを読んで、執筆依頼をしてくれました。とてもうれしかったです。 「影の残影」のキュレーター・ 李静文 は、会場で配布されているリーフレットに次のように書いていました。 本展は、デジタル時代におけるキュレーションの立場そのものに対する実践的な問いかけでもあります。特に現在、取り扱う情報量の多さだけではなく、AI は言語生成や画像編集といったクリエイティブプロセスの多くを担うようになり、展覧会テキストの作成ですら、キュレーターの独自性を失いかねない時代に到来しています。(本展のステートメントも AI にサポートされています。)そのような中で、インディペンデントキュレーターが果たすべき役割とは何でしょうか? 李さんとは立場が異なりますが、私もまた同じような問題意識を持っていました。この問いに自分なりの回答をしていこうというのが、今回のレビューの大きなモチベーションでした。 AIとともに考えることを念頭に、展示を見た体験を時系列で メモ していきました。リーフレットに書かれた文字を写経してテキストデータにして、思考を展示に馴染ませつつ、これもまたAIとの協働作業の準備です。写経しているときに、以下のメモを書きました。 影の残影 / Shadow of the Shadow 遮眼帯は「ハーネス」でもあり、秋庭さんの『あたらしい美学をつくる』と勝手にリンクしていく。 影の残影として人間を探してしまうのが、この展示の面白いところかもしれない。影=データの残影としての人間。人間を想像してしまうところが、私たちの想像力の限界かもしれない。人間存在を自動的に想像してしまう。自動的に想像してしまうことを止めることができない。 展示のことを考えて打ち込みをしているときに、私に現れる展示風景は「残影」と言えるのだろうか。言えるだろう。影の残影。私が自動的に思い浮かべてしまう展示風景に私はいない。私はいる。けど、私は見えない。 「些細な刺激から無...