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メモ:視野角と透明感

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http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/157792586526/mr-styly-preview-of-upcoming-mixed-reality-fashion
http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/135580649616/skincare-interactive-installation-by-akihiko
Psychic VR Labに行き,ゴットスコーピオンさんと会い,MicrosoftのHoloLensを体験させてもらった.目の前には何も着ていない服のボディがあり,その前で手を開く動作をすると,ボディに服が被さる.HoloLensの視野角が狭いために,服に近づくと私にはボディの一部にしか服が被さってない状態が見えるけど,視線を動かすたびに,そこに服が現れる体験は新鮮であった.物理空間には服はなくて,HoloLensを通すと服が見える.さらには,HoloLensは上のGIFのように服の全体,カメラが捉える領域のデータが処理されているのだけれど,ヒトは適切な距離からは画像のように全体を捉えることもあれば,服に近づいたときには,自分の視線の先に服の一部を見るということが起こる.物理空間と仮想空間とが入り混じりつつも,視野角というヒトとデバイスのフィジカルな制限で仮想空間と物理空間との重なりが決定され,その境界がつねに自分の動きに追随するというのは興味深い体験だった.

この体験は,谷口暁彦さんの「スキンケア」の作品《透明感》を考察する際に有効かもしれない.谷口さんはディスプレイがディスプレイを内包したときのことを考えているのかもしれない.

お仕事:YCAM YEARBOOK 2017-18への寄稿:バニシング・メッシュ展レビュー「あらゆる世界が重なり合う世界」

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YCAM YEARBOOK 2017-18に展覧会「バニシング・メッシュ」のレビュー「あらゆる世界が重なり合う世界」を寄稿しました.
バニシング・メッシュ展には,菅野創+やんツーによる《Avatars》とサイン・ウェーブ・オーケストラによる《A Wave》《The SINE WAVE ORCHESTRA stay》《The SINE WAVE ORCHESTRA stay》,計4作品が展示されています.私のレビューでは《Avatars》と《A Wave》とが論じられています.両作品とも展覧会の主旨である「今日の情報化社会への批判的展望」を見せてれているので,私の方もメディアアートで古くから扱われきた「物理世界」と「仮想世界」との関係を今日的にアップデートするようなテキストを書きました. インターフェイスという膜でヒトの物理世界とモノの物理世界とを取り囲み,ヒトとモノとの重なりを生じさせるひとつの仮想世界をつくりだしている.ここでの仮想世界は物理世界と対立するものではなく,ヒトとモノのふたつの物理世界を重ね合わせるために必要な触媒として,ヒトとモノとの世界に重ねられる存在となっているのである.(p.100) あらゆる世界が重なり合う世界,水野勝仁 
また, 私はいつも視覚的な作品を考えているので,「サイン波」という音を扱うサイン・ウェーブ・オーケストラの作品を考察するときに,音響文化研究者の中川克志さんの「作文:サイン波は世界を幻惑する(かもしれない)」にとても助けられました.中川さんがここで音について論じていることが,《A Wave》という映像を用いた作品でも試みられているのではないかというところから,考察の突破口が開けています.
作品が先に行ってしまっているので,作品とともに考えつつ,テキストがアップデートされていればいいなと思います.
是非,YCAMに行って,バニシング・メッシュ展の作品を見て,YCAM YEARBOOK 2017-18を手に入れて,テキストを読んでみてください.
追伸:YCAM YEARBOOK 2017-18,執筆者に水野姓が3人もいるのもポイントです😜😜😜

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第9回「小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる」が公開されました.
1年間連載をしてきて,やっと9回目です.今回は小林椋さんの《盛るとのるソー》を取り上げました.小林さんの作品はディスプレイが動きます.ひとつの不動点というか消失点であったディスプレイが動くことで,ディスプレイが基点となってモノと映像とが重なり合って,あたらしい画面が生まれてくるのではないか,ということを書きました.
名古屋市立大学芸術工学部の小鷹研理さんが「「展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017」」でエキソニモの《Body Paint》について書いているテキストを,画家・評論家の古谷利裕さんが引用して,次のように書いていました.引用の引用となるので少し長いですが引用します.
このテキストで,エキソ二モの作品に触れることから導き出される,下のような見解はとても重要だと思う.  《おそらく,美術というのは,多かれ少なかれ,現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を,それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして,ポスト・インターネットが,美術の歴史のなかで,何か特別に新しい視座を提供しているというよりは,そういった美術の伝統を,新しい道具を使って,正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない.そのうえで,僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは,ポスト・インターネットが,美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を,非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって,結果的に,美術という難解な装置の,優れたメタファーとして機能している(その意味では,美術であると同時にメタ美術でもあるような),と,少なくとも僕にとってはそんな魅力がある.》  《この「わかりやすい」という印象は,作品の受容において,体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること,とも関係している.つまり,(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること,そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと.これは,ある意味では,美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになる…

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」

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紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」が掲載された「甲南女子大学研究紀要第53号 文学・文化編」が刊行されました.この論文は1月にG/P galleryで開催された開催された写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとのトーク準備を兼ねて書いたものです.
トークの告知記事→「Generated X [生成されたX]」の気配 
紀要論文の冒頭です. 本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光にデータの付与することで可能になる.小山はデジタル写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで,光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである.
英語のタイトルとアブストラクトです. A new material created by a physical texture superimposed on a clean colored surface  This paper considers possibilities of expression between computers and the physical world, as seen in artworks by Rafaël Rozendaal and Taisuke Koyama. Rozendaall’s internet based artworks utilize vector images, inspired …

ÉKRITS連載_最小化するヒトの行為とあらたな手 - インターフェイスを読む #1

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インターフェイスを読んでいく連載を「 ÉKRITS / エクリ」ではじめました😊 エクリにはこれまでに,エキソニモと谷口暁彦さんの作品をインターフェイス的視点から読み解く「メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路」,絵文字を書く・読むときの感情の流れを考察した「絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む」「絵文字😹😸🙀は空白をつくり、感情🔥を区切る」と書いてきました.

インターフェイス的視点でのテキストをエクリに書いていくなかで,エクリで「インターフェイスの歴史」を扱ったテキストを書きたいと思い,編集部の浅野さんと大林さんに相談してみたところ,ふたりから刺激的なコメントが返ってきました.そこで,連載というかたちで「インターフェイス」について書いてみたいと以下のように構想を書きました.

マクルーハンによる「身体の拡張」から,コンピュータによる「知能の拡張」に至り,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』にいたる「物理世界」と「非物理世界」との関係の変化を辿っていきたいと考えていますが,どうでしょうか.
でも,初回から,この構想はいい意味でなくりました.それは,久保田晃弘さんの『遙かなる他者のためのデザイン』がでたからです.なので,初回のテキスト「最小化するヒトの行為とあらたな手」は,マクルーハンと久保田さんを扱ったものになっています.

1ヶ月半か隔月の間隔でテキストを書いていきたいと思っています😭😭😭

よろしくお願いします😋😋😋

Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF

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科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2015年11月30日から12月21日にかけて,同志社女子大学京田辺キャンパス内 msc ギャラリーで開催された展覧会・Nukeme「Old School」を中心にして,ヌケメさんを特集した「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を刊行しました.

ヌケメさんを特集した科研費の報告書でもある「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を各所で配布してきましたが,より多くの人に届いてほしいためPDFの配布も行いたいと思います.下のタイトルのリンク先にあるPDFは,「A4横1枚あたり2頁+小冊子」という設定でプリントしてステープラーで綴じてもらうと,実際の冊子の雰囲気が味わえます.

よろしくお願いします.

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Poi Vol.1 featuring Nukeme

Contents
1. Introduction 『Poi』創刊によせて(松谷容作)
2. Installation View Nukeme「Old School」展
3. Interview 《Old School》をめぐる対話
4. Lecture OS /テクスチャ/グリッチ
5. Workshop アイコンを彫る
6. Roundtable ポストインターネットをめぐって
7. Essay 破壊を引き伸ばし、デジタルデータと物理世界を干渉させてモアレをつくる(水野勝仁)

編集責任:松谷容作
ゲスト:Nukeme
編集:秋吉康晴、田川莉那、増田展大、水野勝仁
協力:二瓶晃、前田真由子
デザイン:増田展大
発行:2016/07/31
印刷・製本:株式会社太洋堂
主催:科学研究費基盤研究(C) 「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」
研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)



ディスプレイと物理世界との重ね合わせと物理世界から外れたディスプレイ:「一枚の絵の力」の永田さんと山形さん

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花房太一さんが展示アドバイザーとして関わっている「一枚の絵の力」に永田康祐さんと山形一生さんの作品を見に行った.永田さんと山形さんともにディスプレイを用いた作品をつくっていて,それを見ていて,考えたのは,永田さんはディスプレイの外にレイヤーをつくるというか,ディスプレイのなかだけで映像が完結しないというか,外に伸びていく感じがあるということ.これはこれまで「モノとディスプレイとの重なり」で書いていたことでもある.今回の新作はそれがきれいなかたちででていて,もはや具体的な像ではなく,単にグラデーションの光となった映像とその上の水のレイヤーとの重なりがきれいだった.光と水,水の色とグラデーションの光とが混ざりあって.ディスプレイの光に水の色の情報が重ね合わされていく感じ.






前回の個展よりもディスプレイとその前の空間に置かれたモノ=水+アクリル(?)の水槽とが密着している感じがあったことと,ディスプレイが映しているのがグラデーションの映像だからか,どこか前回の個展でエアキャップにくるまれて壁に立てかけられた作品を強く思い出した.映像が具体的なものではないということが強く影響しているのかもしれない.あと,ディスプレイの表示面すべてにモノが重なっているからかもしれない.表示面すべてが被われていることも相まって,モノの輪郭を明確に示すことがない映像は単にディスプレイが光っているようにも見える.けれど,それもまたひとつの情報のあらわれであって,ディスプレイから放射される光は色の情報を示しているという点では,それが具体的な何かを示していようがいまいが関係ない.ディスプレイは光を放ち,その光はモノを通過していき,ヒトの網膜にあたる.このとき,ディスプレイはひとつの面であり,モノも面であり,網膜も面である.どこがインターフェイスかということを考えていると,それぞれがインターフェイスであって,これら複数のインターフェイスが包み込んでいるモノやヒトが同時に存在している場のあり方を考えることが重要なのだろうなと思う.

山形さんの作品には,郷治竜之介さんとの二人展「optical camouflage」のときから気になっていた「ディスプレイの内側」ということが,今回のエイの作品にも感じられた.エイの作品はディスプレイの外側に水が少し入ったペットボトルが設置してあって,それがたまにディスプレイ…