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MASSAGE連載01_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る

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MASSAGEであたらしい連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」を始めました.今回は,第1回としてサーフィスと対になる言葉として「バルク」を提示する「サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る」というテキストを書きました✍️✍️✍️
モノのサーフェイスの続きに「バルク」という内部があるのですが,それがモノの内部だけではなく,空間も「バルク」として認識してみたらどうなるのだろうか,という話になっています.
カワイさんのカバーイラストもサーフェイスがうねって,どこかモノっぽくなると同時に,サーフェイスの表面と裏面とがつくる空間があって,それが「バルク」と言えるのか言えないのか.カワイさんのカバーイラストからも考えされられます🤔🤔🤔

📝メモをTumblrからnoteへ✍️

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Tumblrで書いてきたmemoが「999」までやってきた.タイトルで連番で書くことで「999」までは書こうとモチベーションをもってやってきた.それが終わってしまった.なので,別のウェブサービスにメモを移そうと思う.


もともとBloggerを使っていて,今も使っているけれど,インターフェイスが「メモ」するには向いていない感じだったので,Tumblrを使って,日々のメモを書くようにしたのであった.Tumblrのインターフェイスだからこそ気軽にかけたということも多くあった.その後,Bloggerにテキストをコピペしてさらに考察したということも多々あった.インターフェイスによって書けることが変わってくるというのが面白い経験であった.


メモは公開する場所に書くというのが,程よい緊張感でテキスト入力できるので,次はnoteにでもメモの場所を移そうと思う.連番にするかどうかは別にして,noteでメモを書いて,良いメモが書けたら,これまで通り,Bloggerでさらに考察していきたい.


note: https://note.mu/mmmmm_mmmmm

💋《Body Paint〉で「ニュッ」と出てきた映像から《キス、または二台のモニタ》を考えてみる😘

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エキソニモ《Body Paint》を見る体験の流れを考えてみる. - 一部を絵具で塗りつぶされたモニタを見る  - モニタのフレームのなかに絵具を見る    - 通常はフレームで区切られた表面にはピクセルの光が存在する      - フレームのなかの表面にピクセルの光と絵具というモノが混在する        - 光とモノとのあいだで,見ている人の認識に混乱が生じる          - モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう 畠中 ディスプレイに映し出される人体の背景をペイントで塗りつぶしてしまうエキソニモの作品《Body Paint》(2014)も,そもそもディスプレイという,そこに映っているものに没入させる機能があるものを実体化させる行為だったと思います.そうすることで,実体が,映像であるはずですが,ディスプレイの向こうからニュッと出てきてしまう.そういうメディアとオブジェクトのあいだをすり抜けて映像が立ち上がる作品で,とても秀逸な作品だったと思います.p.94  メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?,久保田晃弘・畠中実編著


さらに,《Body Paint〉で「ニュッ」と出てきた映像から《キス、または二台のモニタ》を考えてみる

- モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう  - 2台のモニタを重ねたら,ニュッと出てている二人のヒトはキスできてしまう    - 実際にはモニタが重なっているだけれども…      - モニタ一面に表示された顔(フェイス)を考えて見る        - モニタの表面(サーフェイス)が映像に覆われてヒトの顔(フェイス)になる          - Body Paintのように「ニュッ」と映像が実体化していると感じるのではないか?            - 2台のモニタが重なって見ない部分ができることで,映像がニュッと実体化する?

《キス、または二台のモニタ》を《Body Paint》の流れで考えると,《Body Paint》でニュッと出てきてしまった実体化した映像を重ね合わせたのが,《キス、または二台のモニタ》ともいえるのではないだろうか.

《キス、または二台のモニタ》ではフェイスがサーフェイスを覆ってしまっていて,それゆえにフェイスが実体化するというか,モニタのフレームを超えた存在感を持っているとも…

光の「廊下」:ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学

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十和田市現代美術館で「ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学」展を見た.今回,ラファエル・ローゼンダールは作品で「廊下」をつくろうとしたような気がする.今回のメインの展示と言えるローゼンダールの110個以上あるウェブサイトから16個選び,2分ずつにまとめた計32分の映像作品《Looking at Something (selected Websites)》は,展示室の2つの壁面に4つずつ縦長に映像を投影していた.8個の同じ映像の中央を歩いているときに,ローゼンダールは映像の「廊下」をつくろうとしたのではないかと思った(展示の画像はローゼンダールのサイトが見やすい→Generosity at Towada Art Center Japan).それは,十和田市現代美術館自体が展示室を「廊下」で結ぶ構造になっていることから着想を得たのだろう.
十和田市現代美術館の建築も,この考えを表しているように見えます.たくさんの展示室が廊下でつながったこの建築で,来館者が明るい廊下を渡って,部屋から部屋へと移動していくとき,脳や思考の違う部分同士が接続しあい,ひとつの世界そのものになっているように感じられます.そのため,十和田市現代美術館の建築は自分の作品にぴったり合うのではと考えました.作家メッセージ
《Haiku》はまさに「廊下」に展示されていた.ウェブサイトを見ているときのように,正面から見るのではなく,もちろん,今回の展示形式でも正面から見れるけれど,それよりも,視野の両側で動き続ける作品を見ながら,映像の壁に囲まれた「廊下」を歩くという体験が新鮮であった.

普段のコンピュータのディスプレイで見る形式とは異なるのだから,作品が新鮮に見えるのは当たり前だけれど,それでも,いつも以上にローゼンダールの作品がフラットに見えたことが驚きであった.彼の作品はもともとフラットなものが多いので,これも今回特有のことではないかもしれない.けれど,それでもローゼンダールの作品がこれまで以上にフラットで,プロジェクターがつくる光のサーフェイスに閉じ込められている感じがあった.その平面が抜け出そうとしているように見える映像もあれば,そのサーフェイスで自由に遊んでいるような映像もあった.8個の巨大な映像でできた光の廊下を歩きながら,作品を見ていると,映像は視野のはしでどんどんフラットになっていった.そし…

東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でのゲストレクチャーの告知💬とメモ✍️

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告知💬建築家で東京大学大学院建築学専攻 隈研吾研究室 助教の平野利樹さんに誘われて,7月6日に東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でゲストレクチャーをすることになりました.これから日々,「もの」について考えていこうと思います.平野さんからはエクリの連載を踏まえて「インターフェイスの向こう側のバーチャルな存在としての「もの」のあり方」を考えてほしいと言われているので,頑張りたいです.
メモ✍️「もの」を「サーフェイス-バルク-サーフェイス」で考えてみると,サーフェイスの部分にソフトウェアが接着されたということになるだろうか.サーフェイスにソフトウェアが接着されてインターフェイスになって,サーフェイス-バルク-サーフェイスというフレームが,インターフェイスに一括りにされて,向こう側の主体とのやりとりをする場になった.ソフトウェアによってハードウェア=サーフェイス-バルク-サーフェイスが無効化されたのかもしれない.サーフェイスがインターフェイスになったときに,「もの」にどのような変化が起きたのか.サーフェイスにソフトウェアが接着されて,インターフェイスになり,インターフェイスは「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだのではないだろうか.
ここで,「サーフェイス-バルク-サーフェイス」から構成される「もの」を包み込んだインターフェイス=ソフトウェアのこと,また,その状態でインターフェイスをまた「サーフェイス-バルク-サーフェイス」として考えてみる必要がある.インターフェイスをこちらと向こうとの界面ではなく,インターフェイスを構成しているのが文字通りの一枚の限りなく薄いサーフェイスであり,それは,その薄さであっても「サーフェイス-バルク-サーフェイス」という「表と裏をそのあいだ」を持つ「もの」として考える必要がある.それは,「もの」を「サーフェイス-バルク-サーフェイス」と分解して考えることであり,インターフェイスをソフトウェアと「サーフェイス-バルク-サーフェイス」との接着によって構成されたバーチャルな存在として「もの」を考えることにつながってくるのではないだろうか.

「窓」というインターフェイス🖼がサーフェイス🏁に変化する瞬間💬

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モノの内部=バルクとサーフェイスはつながっているけれども,その性質は大きく異なる.では,どこから変化するのかは,連続的になめらかに変化しているから,ここで変化という断絶はない.サーフェイスはバルクへとつながっているけれど,それは別の性質を示す.では,そこにインターフェイスという概念が入ってくるとどうなるであろうか.そもそも,サーフェイスは常に何かに接しているから,いつもインターフェイスとなっている.となると,サーフェイス=インターフェイスということになる.しかし,ここには違いがある感じがある.そこを考えたい.バルクとセットのサーフェイスであり,インターフェイスとなるとバルクとのつながりというよりも,その向こう側にある別の存在となる感じがある.別の存在を措定しているとき,サーフェイスはインターフェイスになる.
サーフェイス/インターフェイス/バルクと同じところをぐるぐると回っている感じがある.一度,この流れを断ち切るためにも山縣さんの作品をじっくりと考えてみよう.ピクセルがつくるバルクからサーフェイスの流れがあって,それはなめらかにこちら側に入り込もうとしているが,そこには断絶がある.こちら側も向こう側もない.サーフェイスがこちら側と向こう側とを引き離してしまう.双方の別の存在とは離れながら,サーフェイスはバルクという別の性質へと変わっていく.
アングル上では、意図的に窓の”外側”から観測した部屋の風景であり、3DCGにおける部屋以外のオブジェクトを一切として制作せず、外の光源すら設定しないことにした。そうすることで、外は存在しなくなり、「窓」の意味・状態が一旦融解される。

本来、窓が内側から外側を観測する機能をもつオブジェクトならば、この世界において外は存在せず、むしろそれは内側(部屋)が外側であるように忽然と、むき出しに佇まうようになる。端的に言うならば、この部屋が窓から見える”風景”となる。この部屋は角銅の姿勢そのものとも考えられるであろう。 https://newreel.jp/reel/618
山形さんのインタビューから引用したが,ここで言われている外側と内側とが入れ替わるというか,設定によって内側が外側になっているということが起こるその瞬間というか,その条件から「窓」というインターフェイスがサーフェイスに変化する瞬間を記述したい.何もない存在が「窓」によって,拡が…

「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展カタログへの寄稿

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5月6日まで水戸芸術館で開催されている「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展に「可塑的な表面でつくり直されるヒトの顔🤥」というテキストを寄稿しました.



ヒト・シュタイエル,エキソニモ,小林健太,レイチェル・マクリーンの作品に出てくる「顔=フェイス」を論じています🙂

カタログには作品の展示画像だけでなく,キュレーターの山峰潤也さんの「早期機器発見装置としての芸術」,多方面で活躍している砂山太一さんの「Strange World, Strange Love」が掲載されています✍️ デザインはゼミトランスペアレント・デザインの田中良司さんです😊

水戸芸術館,および,ナディフ各店で購入できるとのことです📖

よろしくお願いします😂😂😂



🗄🗄🗄🗄🗄 ハロー・ワールド展 トーク・シリーズためのメモ💬《I randomly love you / hate you》💬