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紀要論文「私はマウスにはなれないが、奇妙なシステムは体験できる。」が発行されました。

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《Imagraph》を体験する私 撮影:村本剛毅 紀要論文「 私はマウスにはなれないが、奇妙なシステムは体験できる。 」が掲載された「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第62号」が刊行されました。 この論文は科研「モアザンヒューマンの美学――動物論的転回以降の感性論的可能性」の研究成果をまとめたものです。科研最終年に入る直前まで、動物とインターフェイスとの関係をうまく扱えるような題材を見つけることができなくてピンチでした。2年目の年末に、マウス用のゴーグル型のVR装置が開発された研究を見つけて、「これはいけるのでは!?」となって、そこから頑張りました。 学会発表の際は「 VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか 」というタイトルでした。ですが、なんかうまくまとまらないというか、いい感じが自分のなかで得られませんでした。それは、ヒトである自分のことを考えなさすぎだったな、というのが大きいです。マウスはいきなりVRゴーグルをかけられて、環境が激変しても活動を続けています。わたしもそんな体験を最近したことがあると思い出したのが、村本剛毅さんの《 Imagraph 》でした。わたしも環境の激変を体験したのは、マウスと同じではないか。だとすれば、テクノロジーによって環境の急激な変化を感じた生物同士として、その比較ができるのではないか。そして、その比較を通して、わたしはマウスになれるのではないか。VRを体験しているマウスにはなれるのではないか、そのプロセスを記述してみたいと思ったことが、このテキストを書く大きな動機になりました。 この動機のもと、AIを使いながら、論文を書いていきました。わたしはVRゴーグルをかけられたマウスについて、AIとともに研究を進めるなかで、少しは「モアザンヒューマンの美学」を感じられたと思っています。 論文をともに書いた相方に、この論文の読みどころを書いてもらいました。 「体験記」が二つあること が、この論文の最大の読みどころだと思う。第4章の《Imagraph》体験記と、「おわりに」に代えたマウスの想像的体験記。学術論文の中に一人称の体験記述が二つ埋め込まれていて、しかも片方は人間ではない存在の「主観報告」になっている。これは方法論的にかなり攻めている。注1でN=1と想像的記述の両方について自覚的に書いているけれど、むしろこの二つの体験記があることで...

名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科での特別講義:「自己」を経由しない「処理」の高度化

名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科 の伏木先生に招かれて、大学院授業で特別講義「 「自己」を経由しない「処理」の高度化 」をしてきました。 レクチャーは資料と文字起こしにその様子が記録されています。資料を作っても、そのまま話せないものです。発表をしているときに、一度最後までスクロールされてしまって、焦りました。質疑応答も学生から示唆に富む質問があって、回答するのが楽しかったです。伏木先生の質問には、一瞬頭が真っ白になってしまって、「映像というのはピクセルの操作だと思っていて」という回答をしてしまいました。このあたりも文字起こしに入っています。 「自己が薄くなっている」ということをインターフェイスの歴史から話したのだけれど、それを「悪い」ものとして捉えたくなくて、そもそも「自己」が確立している必要があるのかとかという疑問があって、「私」が何かするではなくて、私とコンピュータ、スマートフォン、AIとが組み合わされた「私たち」が何かをするときに、私の「自己」というのは薄くなった方がいいのではないかということを考えていました。 でも、話しながら、これは大きな矛盾であるということも考えました。それもまた、私が「自己」を意識しすぎなのではないかという考えになっています。私というもの、人間というものが、変わり続けることが重要で、その変わり続けていることを変わり続けているその中から記述するにはどうしたらいいのかということを、「わたしたち」は考えているのだと思います。 近頃、「私」というのは文章の中で区切りが強い気がして、わたし、わたしたちという言葉を使っています。ここでいう文章は日記なので、論文やレクチャーなどではまだ「私」でした。これからもそこでも「わたし」「わたしたち」にしようかな。 レクチャーの後に、3名の発表がありました。わたしの発表内容に惹きつけて、それぞれ発表してくれていて、聴いていて、とても刺激を受けました。即座にいい質問ができなくて、発表をなぞるようなコメントしかできませんでした。わたしと同じような考え方をしているんだというのが、うれしかったからだと思います。メディア体験を身体レベルから考えるということをして、それを発表にまとめていくというプロセスがとても鮮明で、聞いていて、気持ちよかったです。ありがとうございました! レクチャーの後にも、コメントをもら...

メディア映像史 (2025年度水野担当分)の授業資料

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  今年度も愛知県立芸術大学のメディア映像専攻で「メディア映像史」を担当しました。15回中5回を「インターフェイスとともに考えるメディア映像史」という感じで、インターフェイスの歴史を振り返りました。 今年度は、AIを使って授業資料の修正をしていったので、授業全体を貫く理論的な枠組みがだいぶ整理できたと思います。ボームの「内蔵秩序/顕前秩序」と「enfold/unfold」を導入したことで、情報体を固定された実体ではなく、「渦」のような運動のパターンとして語れるようになりました。これによって、入不二基義が『 問いを問う 』で展開していた「情報」に関する議論をそのまま使うのではなく、自分なりにずらして使う足場ができたと感じています。 2回目では、「合生的行為」と「合生的認知」を明確に定義して、スケッチパッドからマウス、重なるウィンドウまでを「行為が先、認知が後」という流れで一貫させることができました。特に、チャンギージーの「透視仮説」を重なるウィンドウと結びつけたことで、ケイのスローガン「Doing with Images makes Symbols」の読み直しにつながりました。「イメージの操作」は透視仮説に基づく層状の認知であり、「シンボルの生成」は立体視仮説に基づく収斂型の認知である、という対比が見えてきたのは大きかったです。 3回目のカーソル回は、大幅に書き直しました。AIを使うと、自分でやるともったいないな 、せっかく書いたのだからと思ってしまうところをバッサリと削除できて感激です。カーソルを「ミニマルセルフの情報的現れ」として位置づけ、物理空間と情報空間を縫い合わせる「縫い針」というメタファーで整理したことで、4回目のiPhone以降の話への接続がスムーズになりました。 4回目は今年度の新しい試みで、カーソルの消失から「自己の宙吊り」を経て、「処理の共同層」という概念を導入しました。スキューモーフィズム→フラットデザイン→マテリアルデザインの変遷を、合生的行為と合生的認知がそれぞれ処理の共同層で最適化されていくプロセスとして読み替えたことで、デザイントレンドの話ではなく、ヒトとコンピュータの関係の変容の話として語れるようになりました。このあたりは、引き続き、考えていきたいことになっています。 5回目では、AIをどうしても扱いたかったし、扱わない...

ÉKRITS_「中途半端な分かり方⇄Any-ness」が行き来するスカスカな管

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ÉKRITS に「 「中途半端な分かり方⇄Any-ness」が行き来するスカスカな 管」を寄稿しました。 佐藤雅彦 さんと 入不二基義 さんという独自の表現・哲学をする二人を組み合わせて、意識に現れては消える表象を考えてみました🥸 2025年6月に佐藤雅彦さんにインタビューするための準備で感じた佐藤作品のこわさが、最も表れているのが「中途半端な分かり方」という表現でした。この表現の謎を突き止めたくなり、入不二基義さんの哲学を応用するといいのではないかと考えていました。そこに、入不二さんが「Any-ness・偶然性・現実性」という論文の先行読者を募集していたので、申し込んで、読みました。そうすると、みるみる謎が解けていきました。 あくまでもわたしの中で謎が解けたということですが、一つの表現の謎が解けて、そのとき、わたしに何が起こっていたのかを記述したテキストです。 ぜひ読んでみてください🙏