座談会[インターネット アート これから つづき]に関するメモみたいなもの
座談会 [ インターネット アート これから つづき ] を終えて,気がついたら3月も終わろうとしているので,ここで書かないとこの先の引っ掛かりが個人的に掴めくなりそうなので「メモみたいなものを書いてみたい」という気持ちで書いてみたいです. 「身体」という言葉に対して,座談会の冒頭で僕はマウスやキーボードから,タッチのスマートフォンに変わってきたことで,「インターフェイス」の意識がなくなってきているのではないか,それとともに「身体」も意識からなくなってきているのではないかと言いました.そのことから考えると,[インターネット アート これから]で,渡邉さんが言っていた「インターネットと身体」という関係は,「インターフェイス」とともに「身体」がコンピュータやインターネットに向かう人の意識からなくなってきた反動からでてきたのではないかと考えたわけです.そこから,「インターネットの内側でドライブする」という渡邉さんの言葉がでてきました. 「インターネットの内/外」と考えてみると,身体を強く意識することでインターネットとの関係を変えることが「内」からのアプローチだとすると,「外」は千房さんが ブログ で提起した「プッシュ通知」かなと,僕は思ったわけです.ただ,これは「プッシュ通知」を使って,僕たちがインターネットとの関係を変えるのではなくて,「プッシュ通知」が僕たちとインターフェイスとの関係を変えるということです.「プッシュ通知」というOSレベルの仕組みが,僕たちをインターネットの「外」に出さないように囲い込みを行なっているような感じです.「内」からのアプローチに比べると,ちょっと後ろ向きな感じというか,アプローチといったこちらどうにかするものではなく,僕たちが置かれた状況の認識でしかないものです. 「プッシュ通知」による囲い込みが成立していて,それが「通知」という「オン/オフ」という「超低解像度の情報」でしかないというところが,僕たちの無意識にスルスルと入ってきてしまう感じなのかな.萩原さんがその情報に「歓声」などの「ストーリー」を載せる Nike+ の例を出していたように,単に「オン/オフ」でしかないから,文脈に応じていかようにも変わってしまうの「プッシュ通知」の興味深いところかもしれません.それは,単なる位置情報でしかない「カーソル」と僕たちとの関係にも似て