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メディアアート概論(2024年度水野担当分)の授業資料

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女子美術大学 の首藤圭介さんに声かけてもらって, 茅ヶ崎市美術館 の藤川悠さんと3人で「メディアアート概論」の授業しました.私の担当分は5回で前半はメディアアートを考える基礎的な事象を考える「3つの空間(現実空間,仮想空間,イメージの空間)で「これ」と「あれ」をつなぐリンクを考える──視界・リンク・3つの空間編」で,後半は前半の知見を活かして 谷口暁彦 さんの作品を考察する「谷口暁彦個展《超・いま・ここ》の「超」の意味を考える──谷口暁彦・ 大岩雄典 編」としました. 〈視界〉編でスマートフォンで写真を撮ることの不思議さを書いていたときに,スマートフォンのディスプレイに映っているものは私の〈視界〉に現れる縮小された私の〈視界〉なのではないかと考えました.そして,スマートフォンのディスプレイに表示されているのが,〈視界〉の縮小版ということで〈マップ〉と名付けました.授業資料を書いたときはこれでいけると思ったのですが,授業をしてみると自分でも理解が及ばず学生から質問が来て,それに答えながら,〈マップ〉を考えていきました.そして,〈視界〉や〈マップ〉,リンクという言葉で,谷口さんの作品を分析しようとすると,ここでも〈マップ〉がうまく使えなくて,悩みました.来年度も授業をお願いされた〈マップ〉についてもっと考えていきたいと思っています. 〈マップ〉に関して,学生の質問に四苦八苦して回答した記録 マップはなぜ世界ではなく〈視界〉の縮小なのでしょうか? ここは私もまだ明確に言葉にできていないところで,「〈マップ〉は〈視界〉の縮小である」と勢いで言っているところがあります.世界というのは私と関係なく,私の周囲に連続して存在していて,画像や写真というのはその世界を写しとっているものという感じが強かった.しかし,スマートフォンが「撮影」するものは,私の〈視界〉のなかに表示されるもう一つの〈視界〉を切り取っているという感じがあって,ここで行っているのは世界を「撮影」することではなくて,〈視界〉をピクセルにマッピングしているという感じを私が強く持っています.うまく回答できていないですね. スマートフォンで「撮影」するようになって,私が持つスマートフォンのディスプレイに「私が見ている世界」が表示されているのを見たときに,ディスプレイ以外に見えているのが,私が見ている世界=〈視界〉の〈底〉が...

美術評論家連盟創立70周年記念アンケート「美術評論のこれまでとこれから」に回答

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美術評論家連盟創立70周年記念アンケート 「美術評論」という言葉に入ったり出たりしている私ですが,美術評論家連盟創立70周年記念アンケート「美術評論のこれまでとこれから」に回答しました. 回答に書いたことをここで繰り返すのはアレですが,私の自分が書いたこと文章が気に入っているのだと思います. 「なんかピンときた」や「ものすごくグッとくる感じ」という明確に言葉にできない「非意識的認知」のレイヤーで絡み合っているヒトと作品とのリンクをどうにかして言葉で捉えていく試みとなるだろう. 「 認知者としての作品 」『映像学』第107号,p. 37 母親が父親に「もうまさのりも50だよ」といっていた.父親は「そうか」と答えて,母親が「そうだよ」と笑っていた.50まではあと2年か3年あるけど,47か48年生きてきて膨大なものになっているだろう「非意識的認知」のレイヤーで,あと幾つかの作品と絡み合いながら文字列を出力していきたいと思っています.