IAMASの卒展に行ってみた

IAMASの卒展を見ていて,自分が求めているのが,「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」なのではないかと思った.一目見て,ちょっと触っただけて有無を言わさずわかってしまうようなもの.例えば,須木康之さんの〈エスパードミノ〉は「徹底的にわかりやすい」と思う.けど,「ユビキタス」などの言葉で作者自身がしっかりと説明できるように,「わからない」部分がないような気がする.「わからなさ」なんてものは必要ないのかもしれないが,私が求めていたのは,わかって気持ちいいのだけれど,後から考えてみると,わからないところがある.でも,体験しているときは,そんなの関係なく,わかってしまうというなモノなんだと思う.

エスパードミノ
「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」.それは,ただそこにあるものなんだと思う.それが何かを考えることもない.ただそこにあるもの.メディアとは何かと問いを立てるのではなく,ただそこにあるものとして接してしまうような態度.ヒトが作ったものだけれど,自然なものになっているもの.

卒展の帰り,何となく「↑」の写真を撮っていた.とても久しぶりのことだった.卒展では味わえなかった「わからないこと」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」がそこに示されているような感じがしたからだと思う.


このブログの人気の投稿

メディアアート概論(2025年度水野担当分)の授業資料

artscapeの#30周年記念企画の座談会「30年後のウェブメディアを構想する」に参加しました

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

メタファーと身体の関係

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

デジタルな現象をそのまま扱うということは,モダニズム的な態度

「非-用具的道具」?

カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想

日本映像学会第51回大会での発表:VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》