東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」の振り返り

建築家で東京大学大学院建築学専攻 隈研吾研究室 助教の平野利樹さんに誘われて,7月6日に東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でゲストレクチャーをしました.雨の中,聴きに来てくれた皆さん,ありがとうございます🙇‍♂️

レクチャーは,エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第4・5回をGoogleのマテリアルデザインを中心にまとめ直して,AppleのDesigning Fluid Interfacesのスライドに書かれていた「A tool that feels like an extension of your mind」というテキストに言及して終わるものでした.


レクチャーノート


レクチャーを終えて,平野さんの話しているときに,平野さんが一枚のスケッチを書きました.それは,発表で使われた大林寛さんの「インターフェース、その混血した言語性」のインターフェイスのファザードモデルと,akiramotomuraさんが私のテキストを図解してくれた「ヒトとコンピューター5(エクリから)」の図の一つでした.

インターフェース、その混血した言語性

ヒトとコンピューター5(エクリから)

これら二つの図を書きながら,平野さんはグレアム・ハーマンから考えると,オブジェクトのサーフェイスで乱反射する行為の関係もまたオブジェクトになりますよね,ということを言われた.

レクチャーしているときに,大林さんのインターフェイスのファザードモデルを使って,行為のリフレクション(反射)が起こると「光」を念頭において話しておきながら,その直後に,akiramotomuraさんの図を使って,行為が粘着的な感じで,コンピュータというモノのサーフェイスを引き伸ばすというのがどこか矛盾する感じがしていた.しかし,平野さんが私の目の前で書いてくれたスケッチは,その矛盾を解消するようなものであった.それを自分なりに解釈して書いたのが,次のスケッチです.


ヒトとコンピュータとのあいだに行為のリフレクションが起こる.それは乱反射するように,ヒトとコンピュータとのとのあいだを満たして行く.行為がヒトとコンピュータとのあいだを充填して埋めていき,それが凝固することで,モノとしてのコンピュータを覆うソフトウェアを,ヒトが引き伸ばしすことになるのではだろうか.関係そのものをオブジェクトとして考えるハーマンのように,ヒトとコンピュータとのあいだの行為は知らないうちに凝固して,飴のようなオブジェクトになっていると考えてみると面白いかもしれない.



ということをnoteに「行為のリフレクションの凝固」と題して書いた.一晩寝て,改めてレクチャーについて振り返ってみる.

レクチャーでも最後に言ったのだが,ヒトとコンピュータとのあいだのインターフェイスのことを研究していると,ハイデガーの道具論から始まり,レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』などで人類学,Lambros Malafourisの『How Things Shape the Mind—A Theory of Material Engagement』で考古学といった,ヒトがいかに道具を用いるようになったのか,という考察になっていくのが興味深いと思った.

でも,まだまだこれらの知見を自分のインターフェイス=サーフェイス研究には活かせていないので,考察を深めないといけない.レクチャーでもエクリのテキストのなかに,マテリアルデザインと絡めて『ソウル・ハンターズ』の以下の引用をしたのだけれど,うまく話すことはできなかった.

ヒトとモノとのあいだに「類似的同一化」を引き起こすことで,「モノではないが,モノでないわけでもない」厚みのあるピクセルが成立する環境をつくる.
私が「類似的同一化」や「二重のパースペクティヴ」,「動物ではないが,動物でないわけでもない」などのフレーズを用いながら捉えようと試みてきたのは,自己と他者が同一であると同時に別様であり,似てはいるが同じではないこの境界領域である.このことによって私が提起したいのは,もし我々がアニミズムを真剣に受け取ろうとするなら,世界との(ハイデガー的伝統における)完全な一致,あるいは世界からの(デカルト的伝統における)完全な分離といった考えは放棄しなければならず,その上で我々を世界に接触させつつそこから切り離す存在様態について説明しなければならないということだ.そして,もちろんこのような存在様態がある.それは模倣[ミメーシス]に基づく様態である.p.313 
ソウル・ハンターズ,レーン・ウィラースレフ

これをスマートフォン=コンピュータというハードウェアとソフトウェアとが重なり合ったモノとヒトとの関係で考えてみる.そうすると,ハードウェアがモノとしてヒトから完全に離れていて,ソフトウェアがヒトのマインドに一致しようとしてくるとも考えられるけれど,少し安直な感じがする.それ以前に,スマートフォンという一つのサーフェイスにおいて,世界とともにある物質的なハードウェアと世界に基盤を持ちながら論理的に一部が世界から乖離したソフトウェアがまず接着されていると考えた方がいい.そして,スマートフォン自体におけるハードウェアとソフトウェアとの関係に,ヒトが介入してくることで,スマートフォンを介してヒトは世界と接触しつつ切り離される存在様態となるような交差交換が起こるとすると興味深い事象が,スマートフォンで起きていると考えることできるのではないだろうか.

「建築ともの」というレクチャーでありながら,「建築」の部分にはほとんど触れることができなかった.レクチャーの準備をしながら考えたことは,Googleのマテリアルデザインがモノではないが,モノでないわけでもない厚みのあるピクセルをつくるために,その環境自体をガイドラインで策定し,環境の個別の要素に意味を与えて,意味が充填された空間をつくるのは,建築に似ているのではないかと考えはした.その際に,門脇耕三さんのエレメント主義のテキストを読んだりした.しかし,今回のレクチャーにはうまく組み込むことができなかった.

以上のようにエレメントは,モノそのものとしての合理に従うばかりではなく,時間的・地理的・社会的な意味を含み,そうした自身の来歴によっても,そのあり方が規定される存在である.過去との連続性に依存しないことを目指した近代建築が,エレメントを抽象形態へと還元せざるをえなかったのは,こうしたさまざまな意味性をエレメントから漂白しようとする意識に基づくものだろう.一方で,エレメントが孕む意味内容の複雑さを失わせず,むしろそうした複雑さを尊重するような態度を,仮に「エレメント主義」と呼ぶのであれば,エレメント主義は,建築における時間的・地理的・社会的連続性の回復を目指すものであると言ってよい. 
反-空間としてのエレメント,門脇耕三

インターフェイスはこれから一枚の薄いサーフェイスに展開されるピクセルの集積がつくる一つ一つのエレメントに意味を付与していくことが求められるのではないだろうか.その始まりが,マテリアルデザインであり,Designing Fluid Interfacesとなると考えると面白いと思う.スマートフォンというハードウェアの来歴に即したソフトウェアの実装と考えること.それは,マウスとカーソルとの組み合わせで生まれたデスクトップメタファーとは異なるものである.

今回のレクチャーや「ゴットを、信じる会」でのスマートフォン世代とのトークを経て,私は,マウスとカーソルによるインターフェイスとスマートフォンにおけるサーフェイスを一続きのものでありながら,別のパラダイムにあるものと感じつつある.

さらに,人類はコンピュータを「パソコン」という形式で多くの人が使うことになったけれど,「スマートフォン」という形式で,より多くの人類がコンピュータに触れるようになった.建築が提供する「住む」という体験は人類共通のもので,スマートフォンはその規模にまで到達してはいないが,それでもパソコンとは段違いの規模で人類が手にしたコンピュータであることは疑いがない.だとすれば,人類の多くが手にすることになったスマートフォンというサーフェイスではじめて実現・実装されてくるモノと連関を持った「エレメント的な画像」と呼びうるものが出てきてもおかしくないだろう.

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