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光の「廊下」:ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学

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十和田市現代美術館で「ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学」展を見た.今回,ラファエル・ローゼンダールは作品で「廊下」をつくろうとしたような気がする.今回のメインの展示と言えるローゼンダールの110個以上あるウェブサイトから16個選び,2分ずつにまとめた計32分の映像作品《Looking at Something (selected Websites)》は,展示室の2つの壁面に4つずつ縦長に映像を投影していた.8個の同じ映像の中央を歩いているときに,ローゼンダールは映像の「廊下」をつくろうとしたのではないかと思った(展示の画像はローゼンダールのサイトが見やすい→Generosity at Towada Art Center Japan).それは,十和田市現代美術館自体が展示室を「廊下」で結ぶ構造になっていることから着想を得たのだろう.
十和田市現代美術館の建築も,この考えを表しているように見えます.たくさんの展示室が廊下でつながったこの建築で,来館者が明るい廊下を渡って,部屋から部屋へと移動していくとき,脳や思考の違う部分同士が接続しあい,ひとつの世界そのものになっているように感じられます.そのため,十和田市現代美術館の建築は自分の作品にぴったり合うのではと考えました.作家メッセージ
《Haiku》はまさに「廊下」に展示されていた.ウェブサイトを見ているときのように,正面から見るのではなく,もちろん,今回の展示形式でも正面から見れるけれど,それよりも,視野の両側で動き続ける作品を見ながら,映像の壁に囲まれた「廊下」を歩くという体験が新鮮であった.

普段のコンピュータのディスプレイで見る形式とは異なるのだから,作品が新鮮に見えるのは当たり前だけれど,それでも,いつも以上にローゼンダールの作品がフラットに見えたことが驚きであった.彼の作品はもともとフラットなものが多いので,これも今回特有のことではないかもしれない.けれど,それでもローゼンダールの作品がこれまで以上にフラットで,プロジェクターがつくる光のサーフェイスに閉じ込められている感じがあった.その平面が抜け出そうとしているように見える映像もあれば,そのサーフェイスで自由に遊んでいるような映像もあった.8個の巨大な映像でできた光の廊下を歩きながら,作品を見ていると,映像は視野のはしでどんどんフラットになっていった.そし…

東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でのゲストレクチャーの告知💬とメモ✍️

告知💬建築家で東京大学大学院建築学専攻 隈研吾研究室 助教の平野利樹さんに誘われて,7月6日に東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でゲストレクチャーをすることになりました.これから日々,「もの」について考えていこうと思います.平野さんからはエクリの連載を踏まえて「インターフェイスの向こう側のバーチャルな存在としての「もの」のあり方」を考えてほしいと言われているので,頑張りたいです.
メモ✍️「もの」を「サーフェイス-バルク-サーフェイス」で考えてみると,サーフェイスの部分にソフトウェアが接着されたということになるだろうか.サーフェイスにソフトウェアが接着されてインターフェイスになって,サーフェイス-バルク-サーフェイスというフレームが,インターフェイスに一括りにされて,向こう側の主体とのやりとりをする場になった.ソフトウェアによってハードウェア=サーフェイス-バルク-サーフェイスが無効化されたのかもしれない.サーフェイスがインターフェイスになったときに,「もの」にどのような変化が起きたのか.サーフェイスにソフトウェアが接着されて,インターフェイスになり,インターフェイスは「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだのではないだろうか.
ここで,「サーフェイス-バルク-サーフェイス」から構成される「もの」を包み込んだインターフェイス=ソフトウェアのこと,また,その状態でインターフェイスをまた「サーフェイス-バルク-サーフェイス」として考えてみる必要がある.インターフェイスをこちらと向こうとの界面ではなく,インターフェイスを構成しているのが文字通りの一枚の限りなく薄いサーフェイスであり,それは,その薄さであっても「サーフェイス-バルク-サーフェイス」という「表と裏をそのあいだ」を持つ「もの」として考える必要がある.それは,「もの」を「サーフェイス-バルク-サーフェイス」と分解して考えることであり,インターフェイスをソフトウェアと「サーフェイス-バルク-サーフェイス」との接着によって構成されたバーチャルな存在として「もの」を考えることにつながってくるのではないだろうか.

「窓」というインターフェイス🖼がサーフェイス🏁に変化する瞬間💬

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モノの内部=バルクとサーフェイスはつながっているけれども,その性質は大きく異なる.では,どこから変化するのかは,連続的になめらかに変化しているから,ここで変化という断絶はない.サーフェイスはバルクへとつながっているけれど,それは別の性質を示す.では,そこにインターフェイスという概念が入ってくるとどうなるであろうか.そもそも,サーフェイスは常に何かに接しているから,いつもインターフェイスとなっている.となると,サーフェイス=インターフェイスということになる.しかし,ここには違いがある感じがある.そこを考えたい.バルクとセットのサーフェイスであり,インターフェイスとなるとバルクとのつながりというよりも,その向こう側にある別の存在となる感じがある.別の存在を措定しているとき,サーフェイスはインターフェイスになる.
サーフェイス/インターフェイス/バルクと同じところをぐるぐると回っている感じがある.一度,この流れを断ち切るためにも山縣さんの作品をじっくりと考えてみよう.ピクセルがつくるバルクからサーフェイスの流れがあって,それはなめらかにこちら側に入り込もうとしているが,そこには断絶がある.こちら側も向こう側もない.サーフェイスがこちら側と向こう側とを引き離してしまう.双方の別の存在とは離れながら,サーフェイスはバルクという別の性質へと変わっていく.
アングル上では、意図的に窓の”外側”から観測した部屋の風景であり、3DCGにおける部屋以外のオブジェクトを一切として制作せず、外の光源すら設定しないことにした。そうすることで、外は存在しなくなり、「窓」の意味・状態が一旦融解される。

本来、窓が内側から外側を観測する機能をもつオブジェクトならば、この世界において外は存在せず、むしろそれは内側(部屋)が外側であるように忽然と、むき出しに佇まうようになる。端的に言うならば、この部屋が窓から見える”風景”となる。この部屋は角銅の姿勢そのものとも考えられるであろう。 https://newreel.jp/reel/618
山形さんのインタビューから引用したが,ここで言われている外側と内側とが入れ替わるというか,設定によって内側が外側になっているということが起こるその瞬間というか,その条件から「窓」というインターフェイスがサーフェイスに変化する瞬間を記述したい.何もない存在が「窓」によって,拡が…

「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展カタログへの寄稿

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5月6日まで水戸芸術館で開催されている「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展に「可塑的な表面でつくり直されるヒトの顔🤥」というテキストを寄稿しました.



ヒト・シュタイエル,エキソニモ,小林健太,レイチェル・マクリーンの作品に出てくる「顔=フェイス」を論じています🙂

カタログには作品の展示画像だけでなく,キュレーターの山峰潤也さんの「早期機器発見装置としての芸術」,多方面で活躍している砂山太一さんの「Strange World, Strange Love」が掲載されています✍️ デザインはゼミトランスペアレント・デザインの田中良司さんです😊

水戸芸術館,および,ナディフ各店で購入できるとのことです📖

よろしくお願いします😂😂😂



🗄🗄🗄🗄🗄 ハロー・ワールド展 トーク・シリーズためのメモ💬《I randomly love you / hate you》💬 

互いが関係なくサーフェイスをすり抜けつつ乱反射する✨💥⚡️

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このスクリーンショットが気になった.というか,気になったからスクリーンショットを撮った.カワイ ハルナさんのイラストにTweetのウィンドウが重なっている.ただそれだけなんだけれども,「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」というタイトルにあっているようなあっていないような.透かし見ていない気もするけれど,サーフェイスの重なりではある.透かし見れないサーフェイスの重なり.でも,ここに重なりを見てしまうこと自体が「透かし見る」というような気がする.「透かす」ということをしっかり考えないといけない.
ここでイメージされるのはマクルーハンの「looking through」.ステンドガラスやテレビのようにこちらからも透かし見るし,向こうからも光が透かしてやってくる.向かい合った線が出会う場所としてのサーフェイス.そして,その線がインターフェイスのように相互作用をすることなく,互いが関係なくサーフェイスをすり抜けているような感じだろうか.インターフェイスとサーフェイスとのあいだで揺れていく平面的な何かを捉えようとすることが大切かなと思っている.
サーフェイスを互いの線=矢印が交わることなく平行に走っているというのは面白い関係のような気がする.「平行」でなくてもよくて,様々な向き,角度の矢印がサーフェイスを透過していく.それらが丁度向き合ったときに,サーフェイスはインターフェイスになるのかもしれない.小さな矢印が様々な向きと角度で透過していくなかで,矢印の関係のなかで,その平面がサーフェイスになったり,インターフェイスになったりするのかもしれない.そして,インターフェイスがあちらとこちらとを接続するものだとすると,サーフェイスは表と裏とを持つもので,そのあいだで私たちとモノとを関係づける矢印が乱反射しているのかもしれない.そして,その乱反射にソフトウェアが大きく影響しているのかもしれない.

MASSAGE連載00_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?

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MASSAGEであたらしい連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」を始めました.今回は,第0回として全体の導入になるようなテキストを「インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?」というタイトルで書きました✍️✍️✍️
テキストで取り上げていますが,水戸芸術館で行われた「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」でのトークでエキソニモの赤岩やえさんが「Screenshot」というスライドを見せてくれました.そこで撮影されたスクリーンショット,もしくは,赤岩さんが「スクリーンショット」と感じるものにおいて,徐々にディスプレイと私たちとのあいだに「距離」が生まれて,ディスプレイ手前に空間が生まれていることがとても興味深いと思ったのでした.そのことを手掛かりに「インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?」という問いを書いています🖥🏁🖥🏁🏁
これからは「モノとディスプレイとの重なり」とは異なり,アート作品だけでなくて,iPadとApple pencilといったインターフェイスのことや「インターフェイス/サーフェイス」に関連する本の紹介などをしていけたらと思っています📱📔📱📔📱
並行して,このブログでも連載を進めるための考察を書き進めて行きたいと思っています💬💬💬💬💬
そして,カバーイラストを描いてもらうカワイ ハルナさんのイラストがどのように変化していくのかが楽しみです😊😊😊
よろしくお願いします👓👀🤳

Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe_PDF

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科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2017年1月7日から29日にかけて,京都のARTZONEとともに開催した展覧会渡邉朋也個展「信頼と実績」を中心にして,渡邉さんを特集した「Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe」を刊行しました.

渡邉さんを特集した科研費の報告書でもある「Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe」を各所で配布してきましたが,より多くの人に届いてほしいためPDFの配布も行いたいと思います.下のタイトルのリンク先にあるPDFは,「A4横1枚あたり2頁+小冊子」という設定でプリントしてステープラーで綴じてもらうと,実際の冊子の雰囲気が味わえます.
よろしくお願いします😊
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Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe

目次

イントロダクション 松谷容作特集|渡邉朋也個展「信頼と実績」作品解説 渡邉朋也、きりとりめでる、水野勝仁落合のこと 渡邉朋也誠実さの誠実さ 砂山太一連鎖する出来事の流れの一部となり その全体をうまく動かすこと 秋庭史典論考|サイボーグの歌声 デジタル音楽をめぐる試論 秋吉康晴

編集責任:松谷容作
ゲスト:Nukeme
編集:秋吉康晴、田川莉那、増田展大、水野勝仁
協力:守屋友樹
デザイン:増田展大
発行:2017/09/25
印刷・製本:株式会社太洋堂
主催:科学研究費基盤研究(C) 「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」
研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)

💬《I randomly love you / hate you》💬《Message》💬

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《I randomly love you / hate you》についてブログで書いてから,さらに,この作品の「薄さ」というか,それが何を示しているのかが気になってきた.山形一生さんの《ミュータント・スライム》は表と裏とがあることが興味深いのだけれど,エキソニモの《I randomly love you / hate you》にも表も裏もなくて,一切の厚みがないような感じがある.それが何なのかはわからない.この前も書いたように,インターフェイスを切り出してきたものだからであろうか.では,いや,それはインターフェイスそのものではないのか? いや,生成されている映像といえば済むとも言われそうである.しかし,生成されている映像とは言っても,そこに厚みや深さを感じることはある.《I randomly love you / hate you》にはそのような気配が一切ないのが面白いと思う.山形さんにも《Message》というメッセージングアプリのUIを使った作品がある.この二つの作品を比較してもいいのかもしれない.
山形さんの《Message》はスクロールできることもあって,そこにはインターフェイスのレイヤーある感じがする.インターフェイスが一つの平面になっている.対して,エキソニモの《I randomly love you / hate you》はスクロールすることなく,生成される会話を見ているだけである.それゆえに,そこにはインターフェイスのかたちはしているけれど,それはかたちを借りているだけになっている.だから,そこにサーフェイスを感じるのかもしれない.また,《Message》には文字がなく,バルーンだけが表示されている.肝心の情報がないけれど,バルーンの配置でなんとなく話の盛り上がりがわかるような気がする.対して,《I randomly love you / hate you》では,生成された文字が一定のリズムで入力され続けている. 二つの作品に共通しているのは,入力中を示す「💬」である.ここではないインターフェイスで文字が入力されていることを示す💬.それを見ているとき,こちら側のインターフェイスは💬のためのサーフェイスになっている感じがある.向こうを思いつつ,こちら側では何もしない.ただ見て,待つ平面=サーフェイスがそこにある.
気配を向こうに感じつつも,こちら側に…

💬《I randomly love you / hate you》💬

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水戸芸術館「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」に出品されているエキソニモの新作《I randomly love you / hate you》を考えたい.インターフェイスだけを切り出してきて,ディスプレイに表示する.インターフェイスを問題にしてきたエキソニモがこのような作品をつくることが面白い.ディスプレイに表示されているのは,操作可能性を失ったサーフェイスであるが,それはインターフェイスを切り取ったものである.インターフェイスがディスプレイに表示されている.このことだけを考える必要がある.インターフェイスのレイヤーのみを切り取った.インターフェイスをハードウェアとのつながりを切り取り,ソフトウェアとしての見た目を切り取る.そこに意味を吹き込む.操作はできないが,意味が生じる.その意味が重要なのかもしれないし,操作ができないインターフェイスが重要なのかもしれない.
ディスプレイも必要としないのかもしれない.切り取られたインターフェイスが表示されるサーフェイスだけがあれば良い.ディスプレイは仕方なくそこにあって,実際にはインターフェイスのイメージだけがそこにあればいい.だから,ディスプレイが支持体であるというよりも,ディスプレイがコンピュータに接続されていることを示すコードとそこから発生するイメージこそが強固な存在としてあるのではないか.《I randomly love you / hate you》は,とてもペラっとしてはいるが強固なサーフェイスを感じさせる.見ているものが何であるのかを考えさせられる気がする.メッセージアプリのインターフェイスと言えばそうなんだけれど,そのインターフェイスのみを剥ぎ取ったとき,剥ぎ取られたインターフェイスは何と言えばいいのか.

《I randomly love you / hate you》はサーフェイスのその先が一見見ないように感じられる.けれど,💬の表示がどこかに,隣のディスプレイとのつながりを示し,一つので完結したサーフェイスではないことを示している.何か,その表面以外の気配を示すこと.それは,インターフェイスではないのか.最小の要素でサーフェイスをインターフェイス化しているのが,《I randomly love you / hate you》ではないのだろうか.では,どうしてそれが可能なのか.私たちは何を《I…