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Poi vol.2 featuring Tomoya WATANABE

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私が参加している科学研究費の研究グループ「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」の年次報告書みたいなもの & ARTZONEで行われた渡邉朋也個展「信頼と実績」の記録として「Poi vol.2 featuring Tomoya WATANABE」を刊行しました.デザインは前号に引き続き,『科学者の網膜』が話題の増田展大さんです.
目次は以下の通りです.


目次にもあるように,私は「作品解説」を書いています.渡邉さんと田川さんが懇切丁寧な解説を解説を書いているので,私はタイトルの文字列から考えられることを書きました.

また,秋庭さんの論考で触れられている私のブログはこちらです

告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する


8部配布できるものがありますので,希望者の方は以下のフォームに記入をお願いします😊
Poi Vol.2 への興味,ありがとうございます🙏 手持ちがなくなったのでひとまず回答受付を停止しました.

読み込んでいます...



[科学研究費基盤研究(C)「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)]

MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第12回「ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》」が公開されました.

「モノとディスプレイとの重なり」と題して書いてきた連載ですが,ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》を取り上げた今回は「ディスプレイ」は出てきません.代わりに出てくるのは「穴」や「影」といったモノのようでモノでなくて,モノに依存しているような存在です.ディスプレイはイメージの支持体として考えられますが,よく考えてみれば,イメージに依存して存在する「穴」や「影」のような存在なのかもしれません.だから,モノとしてのディスプレイが消えたとしても,ディスプレイは一つの場として,イメージとの関係のなかで存在し続けるのでしょう.そして,谷口暁彦さんによるカバーイメージは,最後は宇宙にまでいってしまいました.そんなこんなで今回で連載は一区切りです🖥🕳💻

よろしくお願いします😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊

新視覚芸術研究会第4回シンポジウム「デジタル時代の次元の折り重なり」の個人的振り返り

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8月19日(土)に京都のメディアショップで新視覚芸術研究会第4回シンポジウム「デジタル時代の次元の折り重なり」を開催しました.東京から来ていただき,デジタルメディアの指標性について,あらたな視点を出してくれた永田康祐さん,そして,暑いなか,来ていただいたみなさま,本当にありがとうございます!
私は「次元の折り重なりを透かし見る[👁📷🎥 → 🖥|/|👀] デスクトップ・リアリティと永田康祐《Function Composition》」という発表をしました(→発表ノート).発表は,「👁📷🎥 → 🖥|/|👀」という絵文字が示しているように単眼👁の📷のようなふたつの眼👀でディスプレイ🖥という体験に変わった時に,二つの二次元平面「| |」が重なり合って,そこに「 / 」的な透き間が生まれて,そこに三次的な表象が入り込むという流れです.
発表後のラウンドトークで,飯田豊さんが90年代には久保田晃弘さんや水越伸さんの著書を挙げながら,メディア論とインターフェイス論とが密接な関係にあったのに,それ以後,メディア論の系譜がつくられていくにつれて,二つの流れが乖離していってしまったという指摘は,確かにという学ぶところが多かったです.そして,この二つを再び結びつけるためにはインターフェイス論をメディアの原理論と考える必要があるというのは,私のこれからの課題だと思いました.
「デジタル時代の次元の折り重なり」というテーマに基づいて,発表の準備をしていて,辿り着いた前面と背面という少なくとも二つの二次元平面=層とが重なり合いを考えていました.さらには,二つの層のあいだには「透き間」と言えるような別の空間的な何かが生まれていて,それがポストインターネットと呼ばれる作品の見え方をわかりづらくしているのではないかと考えるようになりました.そして,永田さんの発表を聞いて,二つの層と一つの透き間が絶えず入れ替わるなかでのヒトの認識を表象につなぎとめる指標的な存在を見つけ出す必要があるのかなと思い始めています.
二つの層が折り重なり生まれる「透き間」というのは,東浩紀さんが言う「不気味なもの」なのではないか,という質問をシンポジウムが終わった後に受けました.確かに,発表でも東さんのテキストは重要な役割を果たしているから,「透き間」は「不気味なもの」と考えることができるかも…

美術手帖(2017年9月号)にHouxo Que個展「S H I N E」のレビューを寄稿

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https://twitter.com/kuad_artzone/status/897814268011134976
美術手帖(2017年9月号)に,京都のARTZONEで開催されたHouxo Que個展「S H I N E」のレビュー「凹凸のない光の基底面」を書きました.Queさんの作品を継続的に見てきて,今回はじめてあらわれた「光の色面の重なり」やディスプレイに表示された「文字」について書いています✨
レビューのお供にこちらのテキストもお読みいただけるとうれしいです😊 →モノとディスプレイとの重なり 第3回「光を透過させ、データとは連動しないディスプレイのガラス───Houxo Que《16,777,216 view》、Evan Rothの《Dances For Mobile Phones》

ÉKRITS連載_GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成」 - インターフェイスを読む #3

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エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第3回目「GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成」」が公開されました.今回「読む」のは,GUIのスローガンともいえるアラン・ケイの「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」です.
テキストは「Doing」につながるデバイスとして,ダグラス・エンゲルバートのチームが開発した「マウス」から始まっています.マウスが物理世界をXYグリッドに区切り,ヒトの行為をコンピュータのn次元の世界にマッピングしていきます.その後,アラン・ケイの「Doing with Images makes Symbols」を体現する「重なるウィンドウ」の考察を行っています.GUIを考察するときには「ウィンドウが重なる」ことが重要だと,もともと考えていたのですが,その重要性をうまく書くことができませんでした.そんなときに,思想家の東浩紀のゲンロンβでの連載「観光客の哲学の余白に」で取り上げられていたマーク・チャンギージーの「透視仮説」を知りました.ウィンドウの「重なり」を説明するのに,チャンギージーの「透視仮説」はフィットするのではないかと思い,書いています.その結果として,前回までは「🖐」についての考察でしたが,今回は「👀」からヒトとコンピュータとのあいだの行為を考えるテキストになっています.
よろしくお願いします👁👀👓

授業ノート:ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

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甲南女子大学文学部メディア表現学科2年生必修授業の「メディア表現発展演習Ⅰ」の授業ノートです.前半のAグループは「ポストインターネット時代の芸術作品」というテーマで授業をしました.Bグループは「ディスプレイ時代の芸術作品」をテーマにして,MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」を再読しながら,授業を組み立てていきました.

ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

授業ノートをネットで共有するためにレポート課題や連絡事項,及び,学生の名前を削除してあります.学生さんのコメントも読みどころだと思います.

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

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8月19日(土)に京都のメディアショップで第4回新視覚芸術研究会を開催します.今回のテーマは「デジタル時代の次元の折り重なり」で,ゲストはアーティストの永田康祐さんです.「次元の折り重なり」という言葉は,永田さんの作品から考えました.

[これまでの新視覚芸術研究会→http://touch-touch-touch.blogspot.jp/search/label/新視覚芸術研究会

まだ,発表のタイトルや概要も決まっていないのですが,決まり次第,追記していきます🙇🙇🙇
➡️ 概要後にタイムスケジュールと概要を載せました✨


フライヤー(PDF)には物理的な制限でテーマの概要のショートバージョンが掲載されています.ここにロングバージョンを載せておきます.
−−
概要ロングバージョン

ヒトは三次元の物理空間を絵画や写真といった二次元の平面に変換してきた.次元の折り重ねが最も成功したのは,ボタン一つで撮影できる写真であろう.写真は三次元を二次元に落とし込み,二次元のなかに三次元を見せる.写真の平面には二次元と三次元とが折り重なっている.そして,20世紀はまさに写真と映画とが見せる次元の折り重ねを見続け,考え続ける時代であった.

20世紀後半にテレビ,そして,コンピュータが登場し,写真・映画の次元の折り重ねに変化が起きた.テレビは三次元を一次元の電気の流れに,コンピュータは三次元を一次元の情報の流れにした.三次元から一次元へと変換され,写真・映画がもつ世界をそのまま写し取るインデックス性が曖昧になった.しかし,コンピュータは写真や映画に擬態して,世界をそのまま写し取っているように見せている.あるいは,写真・映画のインデックスを保持しようとコンピュータがプログラムされていると言ったほうがいいのかもしれない.コンピュータはインデックス性を絶対的なものとしないため,どんなものにも擬態できるのである.

コンピュータ科学者のアラン・ケイは,「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」というスローガンを掲げて,コンピュータの画面のほとんどを占めているグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)を完成させた.コンピュータにはプログラムというシンボルとディスプレイ上のイメージがあり,これらを操作できる.イメージを操作すれば…

MASSAGE連載11_光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第11回「光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ ───エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》」が公開されました.
連載11回目は,再び,エキソニモの作品を取り上げます.4回目で考察した《Body Paint - 46inch/Male/White》《Heavy Body Paint》と同じくディスプレイを主題にして,NYのhpgrp GALLERY NEW YORKで発表された《201703EOF》,《201704EOF》,《A Sunday afternoon》という3つの作品を分析していきます.《201703EOF》,《201704EOF》はフレームを強調した作品であり,そして,《201704EOF》は光で塗りつぶされたようになっています.さらに,《A Sunday afternoon》はディスプレイが絵具で塗りつぶされて,この連載でディスプレイの原型的性質とした「光の明滅」が全く見えません.私はテキストの最後で「ディスプレイ場」というアイデアを書きましたが,ディスプレイを光/絵具で塗りつぶして,エキソニモはどこに向かおうとしているのか.
ディスプレイ場と言うアイデア面白い。今考えてる新しい作品とのシンクロ二シティもありそうな気がする https://t.co/YwSJkVaCLE — Sembo / センボー (@1000b) 2017年7月13日
是非,テキストを読んでもらえればと思います.よろしくお願いします🙏🙏🙏

小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトーク:本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか

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小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトークを聞いてきた(トークのメモ).小林が低解像度の美学と言っていて,そこに「退屈」という言葉を出していた.小林の「退屈」を,セミトラやエキソニモの千房が書いていた「退屈」との対比.千房はセミトラの本に寄せたテキストで次のように書いていた.
ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか.目の前の美しさに目を奪われれば,退屈は失われていく.しかし,美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう,そんな二重化された感性をもつことによって,構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが,本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか.(p.7)  半透明な記憶から,千房けん輔 『セミトランスペアレント・デザイン』
ディスプレイ(表)とプログラム・コード(裏)とを重ね合わせると「美」と「退屈」とが重なりだす.セミトラの展示はコードの再帰構造をディスプレイ,そして,物理世界に取り出してくるところに退屈さと美をみつけていた(再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1)).それはテクノロジーのあたらしさがもつ面白さや美ではなく,コンピュータの特質を物理世界に引っ張り出してきた美であり,退屈さなのだろう.それはどこかヒト以外の論理が働き,理解できないような状況をつくりだしているのであろう.
小林の「退屈」はコンピュータを基準面とした表と裏との重なり合わせででてくるのではなく,「GUI」というディスプレイレベルでの「退屈」となる.トーク相手の山峰潤也(水戸芸術 館現代美術センター 学芸員)が小林のことを「GUIネイティブ」といったように,小林はディスプレイのグリッドシステムに退屈を感じている
では,ソースコードと重なり合うことないディスプレイのグリッドシステムのみの退屈とはなんだろうか.小林は「画像感」と言っていた.ビットマップによる区切られた感覚であり,物質を分割するグリッドシステムに退屈を見出す.けれど,ここで興味深かったのが,小林は文字も分割システムと言っていて,さらに,文字が「あいうえお表」のようにグリッドに配置されていると指摘していたことである.確かに,文字も世界を分割していく.その文字をさらにグリッドシステ…

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

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Surfin' を見てきた.永田さんの《Sierra》は「乱層のデスクトップ」という感じ,と書いてみて,すぐに「乱層」ではないなと思った.平面の重なりで,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れるというか,デスクトップが平面ではなく映像となることで,前提が崩れるというか,メニューバーやドックの奥にデスクトップがあることが,もうひとつだけ奥に行っているような感じがした.何が言いたいかというと,「デスクトップ」という平面が無効化されて,その奥に映像が流れていると感じたということなんだろう.「デスクトップ」がなくなってしまっている.けれど,その他のカーソルやウィンドウは通常通りである.だからこそ,少し感覚が狂う感じがある.失われた地面の上で通常通りの行為を行うという感じだろうか.永田さんの作品によく感じる平面がパラレルに重なっていく感じを,ディスプレイのデスクトップを基準に,その前面と背面でミニマルに行なっている感じがした.となると,それはディスプレイのデスクトップという平面での前面と背面との重なりが強調されると同時に,ディスプレイというモノとそれが置かれた空間における3次元的な重なり,ディスプレイとその裏側に置かれたMac Pro,ディスプレイ下からケーブルが伸びるヘッドフォン,もうひとつの平面であるトラックパッド,そして,それらを操作するヒト,ヒトがいる展示空間といったものが平面的に重なり合っている感じがでてくる.そこでは,ディスプレイのデスクトップ基点の重なりが確かにあると感じつつも,その重なりがあやふやになっているので,3次元空間で起こるモノの重なりが不思議に思えてくる.3次元を投影したデスクトップという2次元が消え去って,その重なりがあやふやに強調されて3次元的になって,その感覚が3次元に投影されるなかで,次元が折り重なるというか,2次元と3次元とが等価に投影し合うというありえない状態が生まれているのかもしれない.
永田さんの《Sierra》を見た後に,けど,この重なりは時間差で起こっている感じがある.机の上に形成された「痕跡」が,おそらく,かつて,そこに垂直に近い角度で「デスクトップ」が表示されていたことを示している.作品にはディスプレイはないけれど,ノートパソコンが置かれていただろう痕跡から,ディスプレイがあっ…

授業ノート:ポストインターネット時代の芸術作品_ネット公開用

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甲南女子大学文学部メディア表現学科2年生必修授業の「メディア表現発展演習Ⅰ」の授業ノートです.今年度から授業資料をDropbox Paperで作成するようにしました.スライドで区切られることなく,思考が流れていく感じが気に入っています.その分,思考に区切りなく,学生さんには迷惑をかけたかもしれません.でも,この授業を通して,「分からないものを考えること」を感じてくれた学生さんもいたので,とてもうれしくもあります😊

授業ノートをネットで共有するためにレポート課題や連絡事項,及び,学生の名前を削除してあります.学生さんのコメントも読みどころだと思います.

ポストインターネット時代の芸術作品_ネット公開用
授業はA・Bグループに分かれていて,Aグループの授業ノートを共有してしまったから,Bグループ用の授業ノートを別個つくらないといけない…… 紹介する作家・作品を変えつつ,がんばろう😋


MASSAGE連載10_谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」/ ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第10回「谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」/ ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間」が公開されました.
記念すべき10回目は,5回目で一度取り上げた谷口暁彦さんの個展「超・いま・ここ」で展示された作品について書きました.谷口さんは個展「超・いま・ここ」で2007年から2017年までの10年間の活動を振り返っていました.今回の連載は谷口さんの振り返りに引っ張られる感じで,谷口さんのふたつの作品《夜だけど日食》(2008−2010)と《透明感》(2015)とりあげて,モノの側面からディスプレイの「これまで」を振り返りつつ,イメージの側面からディスプレイの「これから」を考えています.ディスプレイの「これから」を考えるのは10回目だからというわけではなく,谷口さんの「超・いま・ここ」が単にディスプレイの現在地を示すだけでなく,《透明感》を含む2015年の連作である「スキンケア」で,ディスプレイの先・奥を示し,会場で配布されたテキストでも「折りたたまれたディスプレイ」とディスプレイの「これから」を示してことに反応した結果です.

ÉKRITS連載_スケッチパッドで「合生」される世界 - インターフェイスを読む #2

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エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第2回目「スケッチパッドで「合生」される世界」が公開されました.今回「読む」のは,GUIの源(ソース)といえるアイヴァン・サザランドの「スケッチパッド」です.1回目のテキストで論じた「最小化した行為」と「手」の問題をスケッチパッドの記録映像から考察しています.

はじめは,スケッチパッドでは「行為する手✍️|最小化する手👍|制約する手🖖」という3つの手が絡み合っていると考えて,テキストのタイトルは「スケッチパッドで絡み合う三つの手」でした.けれど,平倉圭さんの「合生的形象 — ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》における物体的思考プロセス」の「合生的形象」という言葉に惹かれて,今のタイトルとなりました.

よろしくお願いします✍️👍🖖

身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界

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今から7年前に .review というTwitter発の雑誌に書いたテキスト.業績に概要が載ってなかったので改めて読んでみたら,自分で書いた図に「ディスプレイの重層性」とあった.今とつながっているのかもしれない. − 水野勝仁「身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界」,.review001,pp.282-289,2010年5月
概要 本論考は,コンピュータがカーソルを中心にして身体のあらたなあり方を規定する想像力をつくりだしていること論じたものである.カーソルと身体との結びつきを考察するために,評論家の斎藤環がインターネットのOSI階層モデルによって説明する「ラメラスケイプ」という概念と,文学において身体が消失してきたとされる論を参照する.そこから,文学から消失した身体がコンピュータに移行してきたことを示す.

メモ:視野角と透明感

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http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/157792586526/mr-styly-preview-of-upcoming-mixed-reality-fashion
http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/135580649616/skincare-interactive-installation-by-akihiko
Psychic VR Labに行き,ゴットスコーピオンさんと会い,MicrosoftのHoloLensを体験させてもらった.目の前には何も着ていない服のボディがあり,その前で手を開く動作をすると,ボディに服が被さる.HoloLensの視野角が狭いために,服に近づくと私にはボディの一部にしか服が被さってない状態が見えるけど,視線を動かすたびに,そこに服が現れる体験は新鮮であった.物理空間には服はなくて,HoloLensを通すと服が見える.さらには,HoloLensは上のGIFのように服の全体,カメラが捉える領域のデータが処理されているのだけれど,ヒトは適切な距離からは画像のように全体を捉えることもあれば,服に近づいたときには,自分の視線の先に服の一部を見るということが起こる.物理空間と仮想空間とが入り混じりつつも,視野角というヒトとデバイスのフィジカルな制限で仮想空間と物理空間との重なりが決定され,その境界がつねに自分の動きに追随するというのは興味深い体験だった.

この体験は,谷口暁彦さんの「スキンケア」の作品《透明感》を考察する際に有効かもしれない.谷口さんはディスプレイがディスプレイを内包したときのことを考えているのかもしれない.

お仕事:YCAM YEARBOOK 2017-18への寄稿:バニシング・メッシュ展レビュー「あらゆる世界が重なり合う世界」

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YCAM YEARBOOK 2017-18に展覧会「バニシング・メッシュ」のレビュー「あらゆる世界が重なり合う世界」を寄稿しました.
バニシング・メッシュ展には,菅野創+やんツーによる《Avatars》とサイン・ウェーブ・オーケストラによる《A Wave》《The SINE WAVE ORCHESTRA stay》《The SINE WAVE ORCHESTRA stay》,計4作品が展示されています.私のレビューでは《Avatars》と《A Wave》とが論じられています.両作品とも展覧会の主旨である「今日の情報化社会への批判的展望」を見せてれているので,私の方もメディアアートで古くから扱われきた「物理世界」と「仮想世界」との関係を今日的にアップデートするようなテキストを書きました. インターフェイスという膜でヒトの物理世界とモノの物理世界とを取り囲み,ヒトとモノとの重なりを生じさせるひとつの仮想世界をつくりだしている.ここでの仮想世界は物理世界と対立するものではなく,ヒトとモノのふたつの物理世界を重ね合わせるために必要な触媒として,ヒトとモノとの世界に重ねられる存在となっているのである.(p.100) あらゆる世界が重なり合う世界,水野勝仁 
また, 私はいつも視覚的な作品を考えているので,「サイン波」という音を扱うサイン・ウェーブ・オーケストラの作品を考察するときに,音響文化研究者の中川克志さんの「作文:サイン波は世界を幻惑する(かもしれない)」にとても助けられました.中川さんがここで音について論じていることが,《A Wave》という映像を用いた作品でも試みられているのではないかというところから,考察の突破口が開けています.
作品が先に行ってしまっているので,作品とともに考えつつ,テキストがアップデートされていればいいなと思います.
是非,YCAMに行って,バニシング・メッシュ展の作品を見て,YCAM YEARBOOK 2017-18を手に入れて,テキストを読んでみてください.
追伸:YCAM YEARBOOK 2017-18,執筆者に水野姓が3人もいるのもポイントです😜😜😜

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第9回「小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる」が公開されました.
1年間連載をしてきて,やっと9回目です.今回は小林椋さんの《盛るとのるソー》を取り上げました.小林さんの作品はディスプレイが動きます.ひとつの不動点というか消失点であったディスプレイが動くことで,ディスプレイが基点となってモノと映像とが重なり合って,あたらしい画面が生まれてくるのではないか,ということを書きました.
名古屋市立大学芸術工学部の小鷹研理さんが「「展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017」」でエキソニモの《Body Paint》について書いているテキストを,画家・評論家の古谷利裕さんが引用して,次のように書いていました.引用の引用となるので少し長いですが引用します.
このテキストで,エキソ二モの作品に触れることから導き出される,下のような見解はとても重要だと思う.  《おそらく,美術というのは,多かれ少なかれ,現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を,それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして,ポスト・インターネットが,美術の歴史のなかで,何か特別に新しい視座を提供しているというよりは,そういった美術の伝統を,新しい道具を使って,正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない.そのうえで,僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは,ポスト・インターネットが,美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を,非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって,結果的に,美術という難解な装置の,優れたメタファーとして機能している(その意味では,美術であると同時にメタ美術でもあるような),と,少なくとも僕にとってはそんな魅力がある.》  《この「わかりやすい」という印象は,作品の受容において,体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること,とも関係している.つまり,(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること,そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと.これは,ある意味では,美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになる…

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」(追記:2017/09/07)

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紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」が掲載された「甲南女子大学研究紀要第53号 文学・文化編」が刊行されました.この論文は1月にG/P galleryで開催された開催された写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとのトーク準備を兼ねて書いたものです.
トークの告知記事→「Generated X [生成されたX]」の気配 
紀要論文の冒頭です. 本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光にデータの付与することで可能になる.小山はデジタル写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで,光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである.
英語のタイトルとアブストラクトです. A new material created by a physical texture superimposed on a clean colored surface  This paper considers possibilities of expression between computers and the physical world, as seen in artworks by Rafaël Rozendaal and Taisuke Koyama. Rozendaall’s internet based artworks utilize vector images, ins…

ÉKRITS連載_最小化するヒトの行為とあらたな手 - インターフェイスを読む #1

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インターフェイスを読んでいく連載を「 ÉKRITS / エクリ」ではじめました😊 エクリにはこれまでに,エキソニモと谷口暁彦さんの作品をインターフェイス的視点から読み解く「メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路」,絵文字を書く・読むときの感情の流れを考察した「絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む」「絵文字😹😸🙀は空白をつくり、感情🔥を区切る」と書いてきました.

インターフェイス的視点で様々なテキストをエクリに書いていくなかで,エクリで「インターフェイスの歴史」を扱ったテキストを書きたいと思い,編集部の浅野さんと大林さんに相談してみたところ,ふたりから刺激的なコメントが返ってきました.そこで,連載というかたちで「インターフェイス」について書いてみたいと以下のように構想を書きました.

マクルーハンによる「身体の拡張」から,コンピュータによる「知能の拡張」に至り,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』にいたる「物理世界」と「非物理世界」との関係の変化を辿っていきたいと考えていますが,どうでしょうか.
でも,初回から,この構想はいい意味でなくりました.それは,久保田晃弘さんの『遙かなる他者のためのデザイン』がでたからです.なので,初回のテキスト「最小化するヒトの行為とあらたな手」は,マクルーハンと久保田さんを扱ったものになっています.

1ヶ月半か隔月の間隔でテキストを書いていきたいと思っています😭😭😭

よろしくお願いします😋😋😋

Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF

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科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2015年11月30日から12月21日にかけて,同志社女子大学京田辺キャンパス内 msc ギャラリーで開催された展覧会・Nukeme「Old School」を中心にして,ヌケメさんを特集した「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を刊行しました.

ヌケメさんを特集した科研費の報告書でもある「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を各所で配布してきましたが,より多くの人に届いてほしいためPDFの配布も行いたいと思います.下のタイトルのリンク先にあるPDFは,「A4横1枚あたり2頁+小冊子」という設定でプリントしてステープラーで綴じてもらうと,実際の冊子の雰囲気が味わえます.

よろしくお願いします.

−−

Poi Vol.1 featuring Nukeme

Contents
1. Introduction 『Poi』創刊によせて(松谷容作)
2. Installation View Nukeme「Old School」展
3. Interview 《Old School》をめぐる対話
4. Lecture OS /テクスチャ/グリッチ
5. Workshop アイコンを彫る
6. Roundtable ポストインターネットをめぐって
7. Essay 破壊を引き伸ばし、デジタルデータと物理世界を干渉させてモアレをつくる(水野勝仁)

編集責任:松谷容作
ゲスト:Nukeme
編集:秋吉康晴、田川莉那、増田展大、水野勝仁
協力:二瓶晃、前田真由子
デザイン:増田展大
発行:2016/07/31
印刷・製本:株式会社太洋堂
主催:科学研究費基盤研究(C) 「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」
研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)



ディスプレイと物理世界との重ね合わせと物理世界から外れたディスプレイ:「一枚の絵の力」の永田さんと山形さん

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花房太一さんが展示アドバイザーとして関わっている「一枚の絵の力」に永田康祐さんと山形一生さんの作品を見に行った.永田さんと山形さんともにディスプレイを用いた作品をつくっていて,それを見ていて,考えたのは,永田さんはディスプレイの外にレイヤーをつくるというか,ディスプレイのなかだけで映像が完結しないというか,外に伸びていく感じがあるということ.これはこれまで「モノとディスプレイとの重なり」で書いていたことでもある.今回の新作はそれがきれいなかたちででていて,もはや具体的な像ではなく,単にグラデーションの光となった映像とその上の水のレイヤーとの重なりがきれいだった.光と水,水の色とグラデーションの光とが混ざりあって.ディスプレイの光に水の色の情報が重ね合わされていく感じ.






前回の個展よりもディスプレイとその前の空間に置かれたモノ=水+アクリル(?)の水槽とが密着している感じがあったことと,ディスプレイが映しているのがグラデーションの映像だからか,どこか前回の個展でエアキャップにくるまれて壁に立てかけられた作品を強く思い出した.映像が具体的なものではないということが強く影響しているのかもしれない.あと,ディスプレイの表示面すべてにモノが重なっているからかもしれない.表示面すべてが被われていることも相まって,モノの輪郭を明確に示すことがない映像は単にディスプレイが光っているようにも見える.けれど,それもまたひとつの情報のあらわれであって,ディスプレイから放射される光は色の情報を示しているという点では,それが具体的な何かを示していようがいまいが関係ない.ディスプレイは光を放ち,その光はモノを通過していき,ヒトの網膜にあたる.このとき,ディスプレイはひとつの面であり,モノも面であり,網膜も面である.どこがインターフェイスかということを考えていると,それぞれがインターフェイスであって,これら複数のインターフェイスが包み込んでいるモノやヒトが同時に存在している場のあり方を考えることが重要なのだろうなと思う.

山形さんの作品には,郷治竜之介さんとの二人展「optical camouflage」のときから気になっていた「ディスプレイの内側」ということが,今回のエイの作品にも感じられた.エイの作品はディスプレイの外側に水が少し入ったペットボトルが設置してあって,それがたまにディスプレイ…

MASSAGE連載08_ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第8回「ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について」が公開されました.

今回も前回に引き続き,永田康祐さんの作品を考察しました.けれど,前回は水平に置かれたディスプレイでしたが,今回は主に垂直に設置されたディスプレイについてです.ディスプレイの光とモノとそのあいだの空間について書いています.最後の節は,それがひっくり返る感じです.

引き続き,よろしくお願いします😊😊😊

アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにしてみると…

ところがツルツルだったはずのアニメがゴツゴツに近いものを取り入れ,怪獣に逆襲をかけてぶっとばした瞬間がある.それは1960年代末,劇画ブームと呼応して導入されたマシントレスと特殊効果(ブラシやタタキ)が,アニメのセルをダーティに変えて質感を意識した仕上げを取りこみ始めた時期である.その質感に裏打ちされ,動きや演出も変わる.『巨人の星』の異次元空間のような大リーグボール,『タイガーマスク』の意表をつく豪快なアクションなど,それまでにない卓越したものが次々に登場した.ゴツゴツの怪獣とはまた違う,超現実的な汚い映像が出現したのだ. 今日も怪獣日和 第7回「アニメと怪獣の超えられない溝」
アニメ評論家の氷川竜介さんのテキストからの引用.「ダーティ」という言葉が使われているところに惹かれた.
ラファエル・ローゼンダールがベクター画像の印象が「クリーン」で,どうしても「ダーティ」にできないと言っていたので,私はコンピュータをクリーンで,コンピュータと対比されるようになった物理世界をダーティと考えるようになった.物理世界がもともとダーティというわけではなくて,コンピュータのクリーンさと比較してはじめて,物理世界のダーティさが際立つというか,そこにコンピュータ以後のあらたなダーティな要素がでてきたといえる.
氷川さんはアニメと特撮のちがいから「ダーティ」という言葉を持ってきていて,ダーティが「超現実的」「異次元空間」という言葉と結びつくところが興味深い.アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにすることで,物理世界の有り様が変化していき,世界の法則そのものを変更していってしまう.
氷川さんのテキストは「ツルツル=アニメ」「ゴツゴツ=特撮」「ギラギラ=CG」「パキパキ=デジタルペイント」と「質感」の話になっているので,インターフェイスをこのような質感で語る文章を書いてもいいかもしれないと思った.

出張報告書_20170128:Malformed Objectsと他者を理解するためのオカルト

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28日は7時過ぎに自宅を出発し,新大阪を経由して品川に行き,そこか天王洲の倉庫街にあるギャラリー山本現代まで歩いて,「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」という展示を見た.「Malformed Objects」は,現代思想やインターネットの感覚を多様に取り込んだ考察や展覧会企画を行う上妻世海によってキュレーションされた展示である.ギャラリーに入ると,台の上に紙が置いてある.それは通常の作品解説ではなく,鑑賞者への指示書になっている.指示書の最初には,先程降りたエレベーターにもう一度乗るようにと書かれていた.私は面倒なので,その指示は無視した.指示は必ずしも従う必要はないと指示書に書かれていた.しかし,指示書に従わない場合は,「観察者」として扱われる.指示書に従った場合は「制作者」として扱われる.この指示書は,作品と鑑賞者の相互作用を「制作」と考えようとする上妻の考えを反映したものである.

指示書は特別なことが書いてあるわけではく,作品を見る順番とその見方が簡潔に書かれている.私は普段,解説を読みながら作品を見ないので,テキストを読みながら作品を見るという行為自体が煩わしくも,新鮮であった.けれど,一番の驚きは,指示書に従って最後まで見たあとに,指示書に「以降電子機器を開くことが出来る」と書かれていたことである.電子機器についての記述はそれまでひとつもなかったので,私はiPhoneで写真を撮りまくっていたのである.電子機器の使用までは指示されていないだろうと勝手に思っていたのである.鑑賞のはじめに,ギャラリーのスタッフに「写真とってもいいですか?」と聞き,「いいですよ」と返事をもらっていたので,まさか電子機器についての指示があるとは思わなかったのである.それほど,電子機器は私という身体から離すことができないもので,許可されているならばiPhoneで写真を撮るというのは「見る」という鑑賞行為の一部になっていたことに,上妻の指示から気づいたのである.


作品で興味深かったのは,池田剛介の《Translated Painting》シリーズと,永田康祐の《Function Composition》である.池田の作品は,デジタルフォトフレームの表面に透明の樹脂を施し,ディスプレイの上に水滴がついているような状態を作り出していた.ディス…

告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する

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29日に京都のARTZONEで開催されている渡邉朋也個展「信頼と実績」で,渡邉朋也さんと美学者の秋庭史典さんのトーク「アートと計算(コンピュテーション)」の司会をします.ふたりとも話がおもしろいので,どんな話になるのか楽しみです!
是非,お越しください! −− トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」 日程:2017年1月29日(日) 18:00– 入場料:無料 会場:MEDIA SHOP gallery 登壇者:渡邉朋也氏、秋庭史典氏、水野勝仁(司会) −−
このトークのために渡邉さんの作品を考えてみたのが,こちらです.渡邉さんといえば「落合博満」などの野球の話ですが,野球のことがキャプションで言及されているのは,《ツナとマヨネーズ》と《敬遠とフォアボール》だけなんですよね.下に書いたテキストは,最初は渡邉さんの作品全体を視野に入れていたのですが,書き終えてみると,キャプションで野球について触れている,上のふたつの作品にもっともフィットするようなテキストになっているような気がします.当日のトークとは関係あるかもしれないし,ないかもしれません.あくまでも,渡邉さんの作品に対する,私のメモです.



出来事を複製する→出来事を個別化する
渡邉さんの作品を見続けて,浮かんできたのが「出来事が複製される」という言葉である.《ツナとマヨネーズ》のレシートや《敬遠とフォアボール》の試合の再演のようにアルゴリズムをもとに生みだされたフォルムが複数展示されることで「同一性」というフォルムの問題がでてくる.それは単体としてのフォルムではなく,アルゴリズムを経たフォルム,もしくは,アルゴリズムと癒着したフォルムというあたらしいモノとして,そこに存在している.そして,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれたときに,「出来事が複製される」という事態が起こっている.しかし,それだと渡邉さんが良く引き合いに出す落合のホームランの説明がつかない.とすれば,「出来事が複製された」結果として,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれるときもあると考えてみたらどうだろう.そうすれば,落合にはホームランが残り,渡邉にはモノや映像が残る.
落合はホームランを打つための行為を複製しているのではなく,その場のパラメータを調整して「ホームランを打つ」という出来事を複製している.「行為を複製する…

「Generated X [生成されたX]」の気配

以前も投稿しましたが,1月6日から恵比寿のG/P galleryで開催される小山泰介個展『Generated X』で,写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとトークをします! モデレーターはG/P galleryのディレクターであり,『写真は魔術』の翻訳をされた深井佐和子さんです.

このトークに向けて,「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」という紀要論文を書きながら,小山さんの写真について考えました.写真家つながりということで,昨年の小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」で得たアイデア「ダーティー」と「クリーン」という区分けで,小山さんの写真を考えたらどうなるのか,という感じで論文を書きました.なので,小林さんとのトークから引き続き論文にもラファエル・ローゼンダールが登場します.物理世界はじまりの写真とコンピュータはじまりのブラウザとを対比させるには,ローゼンダールがどうしても必要となってくる感じです.そして,小山さんとローゼンダールとを結びつけるのは,データにテクスチャを付与するという行為ではないだろうか,と考えました.


紀要論文の冒頭です.

本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光にデータの付与することで可能になる.小山はデジタル写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで,光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである.
小山さんの写真はまだ写真集と…