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2016年の振り返り

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2016年にはこの投稿を含めて35本の記事を書いています.2015年が63本だったから,ほぼ半減です.来年はもう少し書けたらと思っています. 今年はMASSAGEではじめた連載「モノとディスプレイとの重なり」でほぼ毎月,モノとディスプレイとイメージとの関係を考えていました.連載の現在の流れは,「ポストインターネット」の状況を改めて考えるという趣旨からは少しズレてしまっているかもしれません.しかし,タイトルの「モノとディスプレイとの重なり」は今のアートの状況を的確に示しているような気がしています. (といっても,ディスプレイを用いた作品しか見ていない私の観測範囲内ですが…)  それでもこれまで連載が止まることなく書けるほど,ディスプレイを用いた興味深い作品がでているのは,「ディスプレイ」というメディウムを考える必要を示しているとも思っています.来年も「モノとディスプレイとの重なり」を追っていきたいと考えています🚀🚀🚀  MASSAGE連載00_「ポストインターネット」が設定したクリティカルな状況 MASSAGE連載01_ポストインターネットにおけるディスプレイ MASSAGE連載02_「光の明滅」というディスプレイの原型的性質 MASSAGE連載03_光を透過させ、データとは連動しないディスプレイのガラス MASSAGE連載04_モノと光とが融け合う魔術的平面 MASSAGE連載05_ iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 ─── 谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」について MASSAGE連載06_《Empty Horizon》という「ディスプレイ」を抽出するモノ MASSAGE連載07_水平に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする───永田康祐《Translation #1》について  もうひとつ大きなテキストとしては,ÉKRITSに寄稿した絵文字😭😭😭についてのテキストです.このテキストを書くことによって,「文字を書く」という流れのなかで絵文字によって意味の流れがどのように形成されていくのかをじっくりと考察できました.これもまたインターフェイス論のひとつかなと自分では考えています. ÉKRITSへの寄稿:絵文字😂😊😱は空白をつくり、ス

「インターフェイス」は何かと何かのあいだの界面のことである

インターフェイス 「インターフェイス」は何かと何かのあいだの界面のことである.もともとは化学の用語であったが,今では「社会と大学のあいだのインターフェイス」のようにふたつ以上の物事があるところには,この言葉が多く使われるような状況になっている.しかし,「インターフェイス」という言葉から真っ先に思い浮かべるのは,ヒトとコンピュータとのあいだにある「マン-マシン・インターフェイス」や「ユーザ・インターフェイス」であろう.私たちが日々触れているコンピュータのキーボード,マウスやディスプレイ,アイコン,スマートフォンのタッチパネルは,ヒトとコンピュータとをつなぐインターフェイスであるけれど,それらをコンピュータの使い勝手を決めているものにすぎないと考えてはならない.インターフェイスはもっと大きな役割をもっているのである.スマートフォン以降のインターフェイスデザインを扱った『 UI GRAPHICS 』で,ウェブデザイナーである中村勇吾は「動きから『質感』を生み出すUIデザイン」というインタビューにおいて次のように応えている. 情報やデータという無形の世界と,人間側にある有形の世界の間には,両者をうまく取りもつインターフェイスが必要になってきて,その機能やレイアウトのデザインが「ユーザーインターフェイスデザイン」という表現になってくるわけです.(p.44) 中村勇吾「動きから『質感』を生み出すUIデザイン」 普段,私たちが意識するのはインターフェイスの「機能やレイアウトのデザイン」である.だから,インターフェイスを記述するときには「使いやすさ」や「格好良さ」という言葉が多く使われる.しかし,私たちはインターフェイスを介して,コンピュータが扱う情報やデータという「無形の世界」に触れている.中村が指摘するようにインターフェイスは情報の無形と私たちの有形の世界をつなぐ必要性から生まれたものであり,「デザイン」はそのための手段にすぎないのである.そこで,無形の世界と有形の世界のあいだのインターフェイスという観点から,ヒトとコンピュータとをつなぐユーザ・インターフェイスの歴史をみてみたい. 現在,私たちが使っているコンピュータのインターフェイスは「グラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)」と呼ばれている.GUIはディスプレイに「アイ

MASSAGE連載07_水平に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする───永田康祐《Translation #1》について

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第7回「 水平 に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする─── 永田康祐《Translation #1》について 」が公開されました.iPhoneの上に🐸が乗っています.このことは本文と関係があります. 今回考察した永田さんの作品にはいつもクリーンさを感じていて,いつかGoogleマテリアルデザインと対比してみたいと考えていました.なので,永田さんの作品をインターフェイスのデザインに引きつけて書いています. 引き続き,よろしくお願いします😊😊😊

写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとのトーク

1月6日から恵比寿の G/P gallery で開催される小山泰介個展『Generated X』で,写真家・ 小山泰介 さんと編集者・ 塚田有那 さんとトークをします! モデレーターはG/P galleryのディレクターであり,『 写真は魔術 』の翻訳をされた深井佐和子さんです. 年始早々のこのトークに向けて,私が論じてきた「インターフェイス」や「ポストインターネット」や「モノとディスプレイとの重なり」という枠組みで,小山さんの写真は解釈できるのであろうかと,小山さんの写真をみながら頭を悩ませています. よろしくお願いします! -- 小山泰介個展『Generated X』 会期:2017 年1 月6 日(金)~ 2 月26 日(日) 会場:G/P gallery(東京・恵比寿) 住所:〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F URL:www.gptokyo.jp 主催:G/P gallery 協賛:ソニー株式会社 トークイベント 日時:2017 年1 月6 日(金)16 時~ モデレーター:深井佐和子(G/P galleryディレクター) 出演:水野勝仁(甲南女子大学文学部メディア表現学科講師)、塚田有那(編集者/キュレーター)、小山泰介 オープニング・レセプション 日時:2017 年1 月6 日(金)18 時~ プレスリリースより: G/P galleryでは2017年1月6日より、国内では3年ぶりとなる小山泰介の個展『Generated X』を開催いたします。 本展では、2016年4月にロンドンの大和日英基金ジャパンハウスギャラリーで開催し、好評を得た個展『Generated Images』で発表された『PICO』シリーズの写真と映像によるインスタレーションをアップデートして発表いたします。 近年小山は「イメージを体感する」ことを重要視しており、本展でも体験性を重視したインスタレーションが展開されます。また、『あいちトリエンナーレ2016』で発表した名和晃平との新作コラボレーション作品『VESSEL-XYZXY』や、ポストデジタル時代の抽象写真の可能性を探究した『LIGHT FIELD』シリーズなどを併せて展示いたします。 小山は2014年に文化庁新進芸術家海

水平の世界に存在する何かが,垂直の平面で特別に仕立てた「動物園」でヒトを覗き見る

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篠田千明の「ZOO」を見た.演劇は久しぶりに見たけれど,今の私はヒトよりもディスプレイに注目してしまう.ディスプレイの位置とそのフラットさ,そして,ディスプレイの表面に起こっている反射.特に水平に置かれたディスプレイを見てしまう.ヒトは重力に対抗するわけではないけれど,二足歩行で経って,水平的姿勢から垂直的姿勢を取るようになった.ヒトにゴーグルをかけるVRも基本的には垂直な性質をもっている.絵画やスクリーンが垂直に掛けられているように,HMDで展開される映像も垂直的なものである.映像自体は360度だったりして,垂直でも水平でもないようなものでも,ヒトが立っている,あるいは,座っていても,背筋が伸びていることを想定しているから,そこに映る映像にはどうしても垂直性がでてくる.垂直だから重力の影響下にあって,水平だとそうではないと言いたいわけではない.水平であろうと,垂直であろうと,ヒトは重力のなかにある.ただ,水平なディスプレイはどこか重力から逃れている感じがあるような気がする.それは錯覚にすぎない.錯覚であろうが,感覚しているのであれば,そこには確実にリアルな何かがあるはずである.だから,水平に置かれたディスプレイが示す重力から逃れているような感じは錯覚であろうが,そこに確かにあるものである. VRはヒトに付ける.これは意外と忘れられているような気がする.だから,VRは垂直的,二足歩行的な感じがある.二足歩行が水平に置かれたディスプレイを踏みつける.垂直と水平は交わることがない.水平は垂直にたつヒトを支える.水平と水平とは重なり,平面をあらたな様態にする.そこをヒトが歩く.あるいは,踏みつけていく.人工芝だって講堂の床にしかれている.平面に平面が重なっている.VRは立体のモデルにスキンを貼り付けていく.ここまで書いてしまうと,ZOOから離れていく感じがする.ZOOは水平を重ねることで,垂直のヒトがいなくなった世界を描こうとしているようにも見える.VRは垂直であるけれども,結局はスキン,平面の重なりでしかない.そこに垂直のヒトがあるから,妙なことが起こる.水平世界に重力を持ち込むから変なことが起こるのである. 嘘みたいな本当の話ですが,この時点では私たちはカプセルがどういう態勢で着地したのかわかっていなかったのです. 重力が身

インターネットヤミ市東京2016での授業とトークのスライド

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スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-bWMxS21faGpiY3c 10月の連続トークの最後はインターネットヤミ市で授業とトークをしました.一日で2つのプレゼンは疲れました… けど,ヤミ市だから話せることもあったので楽しかったです😊😊😊😊😊 インターネットヤミ教室 の1限「忘れちゃいけない! ポストインターネットアート…」を担当しました.ヤミ市での授業なので,インターフェイスと物理世界との関係でアートを捉えるという私の考え方がストレートに話せました.物理世界とディスプレイ世界を「重力」を軸として話していて,花房太一さんの「 サイバースペースで彫刻は可能か? 」を参照しつつ,最後に超弦理論の重力に関する変換について読んだ時の興奮がスライドの最後に入られています. スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-Sk5DS0g2YWFZT28 「文化庁メディア芸術祭20周年企画展―変える力」のなかのひとつのイベントとして開催されたトーク「 ポスト・インターネット時代の「かえるちから」 」で使ったスライドです.「インターネットヤミ市」のことを「ポストインターネットのライフスタイル」を提供する(していた) DIS と比較しながら考えたものです.一緒にトークに参加していたコラムニストの辛酸なめ子さんのおかげで,わかりやすくヤミ市の魅力が伝えられたと思います.

写真家・小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」のスライドとその後のメモ

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スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-b3JadFRKZWdVRHc 10月の連続トークの最終週は 飯岡陸 さんのキュレーションする「 新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン 」展での,写真家・ 小林健太 さんとのトーク「ダーティーなGUI」でした. 「ダーティーなGUI」というタイトルは「 GUIの歪み 」というタイトルの講演を考えているときに出てきた言葉でした.そして,今回はその言葉を使って,「クリーンなGUI」としてのラファエル・ローゼンダールと「ダーティーなGUI」としての小林健太を対比させることで,何が考えられるのか,ということを,小林本人と話してみようと考えました. 小林  指が大事な気がしていて.写真って実際の行為は,いろいろ身体を動かすにしても,ボタンを押し込むっていうそれだけで,そのボタンを押し込むっていう行為と,出て来た画像との間に,動作的な分断がある.その感じが面白いと思っていて.一方編集では指先と,そこから延びる筆致に連続性があって.  [投稿|トーク]小林健太「#photo」を巡って|小林健太×荒川徹×飯岡陸×大山光平(G/P gallery)  今回のトークはGUIが中心ではなく,小林の作品と作品制作の行為がメインなので,事前にいくつもの小林のインタビューやテキストを読んだなかで,気になったのが上の言葉でした.撮影の「ボタンを押す」という行為と編集の指で「描く」という行為との組み合わせ.小林は別のインタビューでは「行為をバインドしたいんすよね.撮る行為と,編集する行為を重ね合わせたい」と言っています.  カメラはボタンを押すという最小の行為で,物理世界を画像に移してしまう.物理世界を写し取るためにヒトが培ってきた行為を「ボタンを押す」という最小行為にしてしまったのが,カメラであり,その延長にコンピュータがあると考えられます.だから,私はGUIというシステムはヒトの行為を最小化していく流れにあるものだと考えています.しかし,コンピュータの論理世界にヒトが入り込むには,キーボードの一つひとつのボタンを押す行為によって文字列を入力していくことが最適でしょう.そこになぜわざわざGUIなんてものがでてきたのか.それはヒトの身体性を少しでも

MASSAGE連載06_《Empty Horizon》という「ディスプレイ」を抽出するモノ

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第6回「 《Empty Horizon》という「ディスプレイ」を抽出するモノ 」が公開されました.また,今回からタイトル画像がマットブラックのiPhoneになりました!  Gallery Out of Place でのWINDOWS展に展示されている 須賀悠介 さんの作品 《Empty Horizon》について論じています.WINDOWS展は須賀さんと Houxo Que さんの2人展で,Queさんの作品《16,777,216 view》 シリーズを連載の3回目「 光を透過させ、データとは連動しないディスプレイのガラス 」で論じていますので,合わせて読んでもらえるとうれしいです. 引き続き,よろしくお願いします😊😊😊

2016年度 中部支部 第1回研究会で講演_「GUIの歪み」のスライドなど

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スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-WUQ5UjN2blduUmM 10月8日は情報科学芸術大学院大学(IAMAS)で開催された2016年度 日本映像学会中部支部 第1回研究会で 「GUIの歪み」 という講演をしました.映像学会の 中部支部 は名古屋大学大学院時代にとてもお世話になったところです.映像学会のなかで「メディアアート」や「インターフェイス」についての発表をし続けても,受け入れてくれた懐の深い支部です. 発表要旨は以下になります. 要旨: 写真家の小林健太は自らを「GUIネイティブ」と呼び,「自分が何かと接する時に,その間に何かフィルターが介入していて,歪みが生じている.そういう状況に慣れきったような感覚」があるという.小林が言うように,デスクトップメタファーからフラットデザイン,マテリアルデザインといった流れをもつGUIは,物理世界の再現を目指すわけではなく,その構造のみを取り入れた独自の世界をディスプレイに展開してきたと考えられる.GUIを操作し続けるヒトには,物理現象に還元できない表象がつくる物理世界を裏切るような歪んだ感覚が蓄積してきた.「ポストインターネット」と呼ばれた状況以後,この蓄積された感覚が閾値を越えて,作品として現われ続けている.今回の発表では,GUIによる歪んだ感覚を示すふたりのアーティストを取り上げる.ひとりは先述の小林であり,もうひとりはベクター画像の特性を活かした作品をつくり続けるラファエル・ローゼンダールである.小林とローゼンダールの作品を通して,GUIの歪みを示していきたい. 当日は,小林健太とラファエル・ローゼンダールの考察のまえにGUIの流れをアイヴァン・サザーランドからGoogleのマテリアルデザインまで追っていきながら,身体とGUIとの歪んだ関係を先ず示しました.その後で,その歪みを引き受けた作品として,ラファエル・ローゼンダールと小林健太の作品を紹介しました.この発表を考えているときに,ローゼンダールはベクター画像が示すような数学的な完全さとともにある「クリーンなGUI」で,小林は身体と物理世界とが「クリーンなGUI」に「汚れ」をつけていく「ダーティーなGUI」なのではないか,というアイデアを得ま

渡邊恵太さんとトーク「インターフェイスとは何なのか?」のスライドやメモなど

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10月は3週連続で東京に出張して,いろいろなところでトークや講演をさせてもらいました.その記録としてのブログ記事の最初は,10月2日にNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]で行われた,渡邊恵太さんとトーク「 インターフェイスとは何なのか? 」です. 久しぶり「インターフェイス」について,どっぷりと考えられたいい時間でした.しかも,ひとりで考えるのではなく,渡邊恵太さんと一緒に考えられるというのは,とても刺激になりました. トークで使ったスライドです. スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-VHJURm5Jb2MwNWM 以下は,渡邊恵太さん含め,渡邊研究室との打合せのときにSlackに書いたメモみたいものです. 渡邊研究室への私からの最初の問いかけ 夏の集中講義で『融けるデザイン』を再読して,そこで「smoon」や「LengthPrinter」は,ヒトの行為を均一化していくものだなと考えました.掬う量に関係なく,ただ「掬う」.長さに関係なく,ただ「引っ張る」.ボタンを押すだけの全自動とは異なり,従来の行為を行いつつも,そこでは大きな変化が起きている.でも,従来の行為と変わらないものとして捉えられてしまう. 「行為の均一化」に似たヒトの行為の縮減は,ディプレイに向かうときにヒトに起こっていたと言えます.「ボタンを押す」だけで,様々なものがディスプレイに生じます.でも,それは「行為の均一化」というよりも,ボタンを押すという単一の行為にヒトの行為を最小化していくものだったと言えます.最小化した行為に物理世界に由来する意味づけをつけるためにメタファーが用いられて,デスクトップメタファーが生まれたと考えられます. 最小化した行為のもとでメタファーを使って,ヒトの行為の構造や意味コンピュータに移行していったとすれば,GUIには歪んだ身体感覚が映されたことになります.しかし,その歪んだ身体感覚のことは考えずに,物理世界そのものをディスプレイに構築しようとしたのがスキューモーフィズムだと言えます.しかし.ディスプレイのなかが物理世界に近づこうすればするほど,最小化した行為とメタファーとのセットで持ち込まれた歪んだ身体感覚と

出張報告書_20160905-10_ベルリンビエンナーレについての報告のはずが…

9月5日.定刻より遅れて11時に関西国際空港を出発したKLMオランダ航空868便でアムステルダム・スキポール空港に行き,KLM1833便に乗り換え,同日18時にベルリン・ゲーデル空港に到着した.その後,バスと電車で,今回の宿泊先であるManuel Roßnerの家に向かった. 9月6日.今回の出張の主目的である「ベルリンビエンナーレ」の会場がすべてクローズだったため,午前中はManuel Roßnerがオーナーを務めるオンラインギャラリーの英語テキストを日本語に翻訳する作業を行った.午後からハンブルク駅現代美術館に行き,5つの展示を見た.その中で,ベルリン在住の Julian Rosefeldtによる「Manifesto」という作品 が印象に残った.この作品は,13のスクリーンを使った映像インスタレーションで,プロローグとなるひとつのスクリーンを除いた12のスクリーンには,同一の女優が演じた学校の先生,振付師,ニュースキャスターなどの12の職業の女性が日常業務を行っている様子が映されている.最初は単なるドキュメンタリーぽい映像だと思っていたのだが,いきなり12のスクリーンの映像すべてで女性が同時に叫びだす.それは「未来派宣言」などの美術運動の「マニフェスト」となっている.複数の映像を用いた作品は多くあるけれど,この作品のように効果的に複数のスクリーンを使っているものは少ないので,とても強く印象に残っている. 9月7, 8日は ベルリンビエンナーレ の4会場を回った.ニューヨークのアートコレクティブDISがキュレーションした今回のビエンナーレは否定的な意見が多い.それは「ポストインターネット」というインターネット以後の価値観でまとめられるような「空虚さ」を,DISのキュレーションとその作品群が示しているからであろう.メイン会場であるAkademie der Kunsteには,どこからか音楽が流れ,入り口にはファッションブランドの展示が行われているような感じになっている.アートというよりは,ショッピングモールのような感じである.「ポストインターネット」というアートの流れを追ってきた私自身も,ビエンナーレの4会場をめぐりながら,どこか薄っぺらく,何を問題にしているのかわからない感じを受けた.作品もJulian Rosefeldtによる「Manifesto

メモ_herを見た直後の感想

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スパイク・ジョーンズ監督の「her」を見た.AppleのAirPodsが発表されたから,インターフェイスの未来を考える参考になるのではないかと思ったのであった.音声インターフェイスって,とても直接的で解像度が高いのではないかと思った.もちろん,映画はスカーレット・ヨハンソンの声だから解像度が高いのは当たり前だけれども… 視覚的インターフェイスはまだまだ改善の余地はあるかもしれないけれど,音声インターフェイスのイヤホンとマイクというかたちはもう改善の余地がないのではないだろうかと思った.音声認識とAIの精度というか,進化は必要だけれども,音声に関するインターフェイスとしては完成されているかもしれないと映画を見ていて思った.イヤホン型のコンピュータはいつでも装着できるし,「音」のインターフェイスだから「盗撮」といった視覚的なプライバシーを犯すという感覚をヒトに与えにくいのはいいかもしれない.けれど,音声インターフェイスが全盛になると,音声のプライバシーへの意識が上がるのかもしれない. 映画の中ではじめて主人公がOSとデートのようなことをしているところが印象にのこった.iPhoneみたいな装置についているカメラを「眼」にして外界を「見て」.そこから指示を主人公の耳に「囁く」.主人公がとても楽しそうだった.目を閉じていたので,私が思っている以上に楽しかったのかもしれない. インターフェイスに関していえば,主人公とOSとの関係が少しギクシャクしたときに,主人公がイヤホンを投げ捨てたところが気になった.あの投げ捨て方は,とても気持ちを入れていたものであった.モノをモノとして扱いながらも,そこに感情移入もしている.どこか奇妙な感じがあった.ハードにソフトが載ることで,ヒトにとってのモノの意味が変わってしまうような感じがした.音声を聞かせるモノでしかないイヤホンがOSと結びつくことで,人格を得てしまう.OSの人格がモノに憑依する.モノはモノでしかないけれど,ヒトの認識が変化する.でも,それは認識の変化でしかないから,モノとして放り投げてしまう.ここには,これからモノをどう扱うことになるのか,モノに感情移入してしまうことを感じた. 私たちは既に画面のなかのカーソルやキャラクターに感情移入できたり,自己帰属感を得たりしているので,モノにそういった

Poi vol.1 featuring Nukeme

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私が参加している科学研究費の研究グループ「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」の年次報告書みたいなものとして「 Poi vol.1 featuring Nukeme 」を刊行しました. 目次は以下の通りです. 目次にもあるように,私は「 破壊を引き伸ばし,デジタルデータと物理世界を干渉させてモアレをつくる 」というヌケメ論を書いています. ヌケメはデジタルデータと物理的モノとの重なり合いをクラックして,あらたな現象をつくろうとするのである. ヌケメさんへのインタビューを含め,盛りだくさんの内容になっています. ご希望の方は,水野まで連絡をいただければお送りします. ( PDFの配布になりました ) [科学研究費基盤研究(C)「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)]

MASSAGE連載05_ iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 ─── 谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」について

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第5回「 iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 」が公開されました. いつもカバー画像を提供してもらっている 谷口暁彦 さんの作品「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」を取り上げて, 具体的な厚さもつ  iPad というモノとそのディスプレイが示す実質的な厚さをもたないピクセル平面とのあいだにつくられる「 板状の薄っぺらい空間の幅 」について考えています. 「厚さをもつ/もたない」は存在論的な話ではなくて,ヒトの認識のことでしかない.けれど,そのヒトに見えている部分=認識をちょっとずつバグらせた結果として,存在そのものも変わるのかなと,ふと考えました.認識の変化が存在を変化させる,というか,その存在の物理条件を明らかにしていくような感じです. 次回もがんばります😊😊😊

テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶_レジュメ&スライド

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今日の研究会,こんな感じで話しま す した. -- テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶 水野勝仁@第3回新視覚芸術研究会公開シンポジウム 発表スライド → https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-Ml80Z0xiUFl0clE オブジェクト - 不可知なもの - イメージ 「オブジェクト‐不可知のもの‐イメージ」の三項モデル 実際,「オブジェクト‐イメージ」という古いバイナリモデルは,「オブジェクト‐不可知なもの‐イメージ」の三項モデルに置き換わってきている.「不可知なもの」では,物理世界の出来事をイメージとして認識できる何かへと変換する処理操作が行われる可能性がを引き起こす.この考えはアナログイメージにもコンピューテーショナルイメージにも同等に当てはまる.(Location 890) Daniel Rubinstein and Katrina Sluis, The Digital Image in Photographic Culture: Algorithmic Photography and the crisis of representation   入力と出力とのあいだの非連続性 すべてのプログラムされたオブジェクツはデジタルコードで構成され,アルゴリズムによる操作の対象である.アルゴリズムはアナログイメージをデジタルイメージに変換するのに必要な転換点である.アルゴリズムは抽象的であり,シンボル化されており,通常は擬似コードやフローチャート図で描かれたステップバイステップの指示の集まりである.(p.189) Eyvind Røssaak, Algorithmic Culture: Beyond the Photo/Film Divide 『The Virtual Life of Film』において,ロドウィックはアナログとデジタルとの違いを存在論的に分析している.アナログの光化学プロセスは入力と出力とのあいだの連続性の原理に基づいているのに対して,デジタルイメージの情報処理過程は,存在論的に言うと,入力と出力とのあいだの分離と非連続性に基いている.この根本的な非連続性がなければ,コンピュータのアルゴリズムは機能しない.「情報処理の存在論は…その出

京都精華大学集中授業「メディア論」

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メディアが融けたあとのメディア論 ───モノとディスプレイとの重なり合いから考える スライドと授業のメモ > メディアとメタメディア篇 (PDF) 誰もが使えるようになってはじめてメディア それゆえに,エンゲルバートはコンピュータをメディア化したとは言えない メタメディアと身体の縮小 外爆発の結果の内爆発というベクトルの変化 内爆発=知能の拡張=メタメディア メタメディアによって外爆発で拡張した身体自体が内爆発にベクトルを変化させる アラン・ケイのタブレットのイメージとプログラミング プログラミングで内爆発を記述する? > 融けるデザイン篇 (PDF) 表層と深層 深層をプログラミングで記述するからこそ,メディアは溶けだす. 二層構造が前提となっているからこそ,コンピュータはメタメディアである モノとメタファー 電話のようなもの 電話線が光回線になって,インターネットのもとで「電話のようなもの」となっている 深層の記述と表象の古さ=過去のメディアの流用 「メタファー」というモデルに惹きつけられるヒト? 物理層から離れて,アプリという独自の地位を与えられる 物理層,プロトコル層,インターフェイス層 > ポストインターネット篇 (PDF) Artie Vierkant Image Objects 写真という3次元のものを2次元平面で見せる視点をコピースタンプツールで破壊して,2次元にしか見えない平面を3次元にみえる2次元平面に混入させる 紐 レイヤーを貫通して,ゆるやかにつなぐ紐 実際のレイヤーはあるけれど,そのように考える小林さんの思考が興味深い リンク集 4日目 Introduction - Material design - Material design guidelines material.google.com Rafaël Rozendaal – Official Website newrafael.com Rafaël Rozendaal - Shadow Object 15 12 14  http://www.newrafael.com/s

「テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶」の進捗状況&シンポジウム再告知

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8月20日に「 第3回 新/視覚芸術研究会 」で発表する「 テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶 」の進捗状況です.興味深い発表に仕上げていきますので,お時間がある方は,是非,シンポジウムに来てください! -- 第3回新視覚芸術研究会公開シンポジウム テーマ:「デジタル時代における記憶と伝達」 日時:8月20日土13時〜17時半 場所:海外移住と文化の交流センター内5階( 神戸市中央区山本通3 ) 登壇者:谷口暁彦(作家、多摩美術大学),水野勝仁(甲南女子大学),飯田豊(立命館大学),馬場伸彦(甲南女子大学).無料.

告知:第3回 新・視覚芸術研究会 「デジタル時代の記憶と伝達」

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8月20日に「第3回 新/視覚芸術研究会」で「 テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶 」というタイトルで話します.研究会のタイムスケジュールや趣旨が書かれたPDFは こちら からダウンロードしてください.私の発表の概要は以下のものです. 発表の概要 谷口暁彦の《私のようなもの/見ることについて》に登場するアバターやオブジェクトに貼り付けられたテクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶を考察する.テクスチャーの記憶は表と裏とで異なる意味を伝達するのであろうか. そして,現時点での発表メモです. 谷口さんから提供してもらったアバター同士が「貫入」しているスクリーンショットから考える. 「見る」ことの集積として写真・画像があった.それは複製することはできても,3Dモデルに貼り付けられたテクスチャーのように互いに貫入することはなかった.写真や画像はレイヤーのように重なることはあった,けれど,テクスチャーのように貫入することはなかった.3Dモデルに貼り付けられた「見る」こと=テクスチャーでは,写真や画像が前提としてきた平面の概念が更新されている感じがあるのではないかのではないか. 3Dモデルに貼られたテクスチャーが「見る」ことの集積だと考えると,アバター同士やオブジェクトが「衝突」した際にあらわれるテクスチャーの「穴」,もしくは,消去されるテクスチャーは何を示しているのであろうか.過去に「見る」ことが,現時点のコンピュータの演算によって消去されて,「穴」のようなものとして示される.その「穴」は何なのか? テクスチャーは記憶や見ることの集積としてあったけれど,「穴」は演算の結果として示されるのかもしれない. マテリアルがそれ自体を示すのではなく,マテリアル同士の関係性を示すものであるとすれば,アバターとオブジェクトの「衝突」「貫入」という出来事が起きた際に,その表面=テクスチャーの関係性が変化する.そのときにテクスチャー=マテリアルの性質が顕わになる.それは「見る」ことの変化であり,「記憶」の変化にもつながっているのではないだろうか. それは,今では当たり前のことを確認することにつながるだろう.「見る」ことにも,「記憶」することにも,コンピュータが関わっており,その計算から生み出される表象が「見る」ことと「記憶」のあり方を更新して

MASSAGE連載04_モノと光とが融け合う魔術的平面

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第4回「 モノと光とが融け合う魔術的平面 」が公開されました. エキソニモ の《Body Paint - 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》について書きました.この2つの作品はともにICCで開催中の「 オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス 」に出品されています.是非,リアルに体験してみてください.光とモノとが融け合いながら,ヒトと絵具のビンとが飛び出してくるのを体験できます.これは実際に体験すると,まさに認識がバグります😖 Giuliana Brunoの『 Surface:MATTERS OF AESTHETICS, MATERIALITY, AND MEDIA 』を読んでいるのですが,ここでの「Surface(表面)」」はスクリーンや建築のファザードがメインで「ディスプレイ」はあまり出てきません.でも,「ディスプレイ」の表面もまた,今の時代,考えるべき平面のひとつとなっているはずです.手付かずではないが,あまり考えられていない「ディスプレイ」というモノと平面を考えつつ,平面の向こう=情報との関係も捉えていきたいです. 次回は,いつもカバー画像を提供してもらっている 谷口暁彦 さんの作品を取り上げる予定です. 次回もがんばります😊😊😊 修正情報 2017/06/12 結論部分を10回目までの議論に引きつけたかたちで修正しました.

メモ:須賀悠介の《Empty window》を見て

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須賀悠介さんの個展が7月24日まで原宿のBLOCK HOUSEで開催されています.そこに展示されていたディスプレイをモチーフにした作品が興味深ったので,会期が終わる前にメモを残しておこうと思います. 後日,改めて,出張報告書(別紙)にまとめようと思っています. 須賀悠介の割れたディスプレイを木彫で表現した作品《Empty window》を見て,最初に気になったのは,スマートフォンの前面のディスプレイ以外の部分,iPhoneで言えばホームボタンやフロントカメラなどは排除されていることであった.確かに,ホームボタンなどのところはディスプレイではないから,当たり前である.しかし,「ディスプレイが割れた」という言うとき,実際に割れているのはスマートフォンの保護ガラスであって,それはホームボタンやフロントカメラの周囲を覆っている.だから,「割れたディスプレイ」というとスマートフォンの前面の保護ガラスが割れるのであって,ディスプレイが割れるということはないのではないか.保護ガラスが割れるだけだから,ディスプレイは機能している.しかし,ヒトは保護ガラスの割れをディスプレイの割れと思う.恐らく,須賀はこのような問題を回避するために,ディスプレイ部分のヒビのみを彫ることにしたのだろう.そうすることによって,ヒビはよりディスプレイに密着する.保護ガラスはディスプレイの一部になる.ディスプレイの上に位置して,スマートフォン前面全体を覆っていたものが,ディスプレイの一部となる.これは保護ガラスが割れたディスプレイを操作している時にも感じる.ヒビによる凹凸によって,普段は意識しないガラスの存在が顕わになる.ディスプレイは普段は画像表示装置であって,画像の支持体としてその存在を画像のもとにひっそりと隠している.しかし,保護ガラスというディスプレイ自体を保護するガラスが割れることで,ディスプレイは保護されているひとつのモノとして強く存在するようになる.だからこそ,それは木彫として表現することできる.

出張報告書_2016/07/1-3(別紙)あるいは,私のようなものを見ることは行くと来るをほぼ同時に意識することかもしない

ICCで開催されている「 オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス 」に出品されている谷口暁彦《 私のようなもの/見ることについて 》には,この作品の制作者である谷口暁彦を3Dスキャンしてつくられたアバターが2人存在している.ひとりは自律したアバターであり,もうひとりのアバターは体験者が操作できるようになっている.ふたつの画面が投影されていて,ひとつは自律型アバターからの視点で,もうひとつは操作型アバターからの視点である. どちらも過去のある日に撮影・スキャンされた谷口暁彦であって,見た目はどこも異なるところがない.自律型アバターは過去のある日に谷口暁彦が操作した記録を再生するものである.操作型アバターはその都度,体験者が動かす.体験者がいなければ,あるいは操作をしなければ,操作型アバターは動くことがない. アバターはどこまで過去か? 操作型アバターを動かして,自律型アバターにぶつけると,衝突が起こらずにすり抜けてしまう.すり抜ける直前の状態にすると,自律型アバターの谷口の顔の大半がなくなってしまう.かつてあった谷口の顔は,衝突判定のプログラムのなかで見えなくなってしまう.操作型アバターと自律型アバターとをピッタリと重ねるようにすると,自律型アバターのなかが空洞になっていることに気づく.3Dスキャンはある日の谷口暁彦の表面のみをスキャンしているのであって,そのなかまではデータ化していない.そのなかを埋めることはできるであろうが,モデルのデータを軽くするために空洞になっているのだろう.とにかく,谷口暁彦のかたちをした自律型アバターは空洞を抱えている.でも,その空洞は外からは見えない.だとすると,下を向くと足が見える操作型アバターもまた空洞を抱えているのであろう.しかし,空洞を抱えていてもいなくても,そんなことは関係ないと言うべきなのだろう.自律型・操作型ともに見た目は谷口暁彦なのだから.単に3Dスキャンは表面しかスキャンしないということで,ある日の谷口の表面のみが記録されているだけにすぎないのだから.けれど,その表面を表から見るのと裏か見るとで感覚が異なるならば,表面の裏は表面の表とはまた別の意味を示しているのではないだろうか.撮影された時間にコンピュータの演算時間が足されて生まれたアバター

ÉKRITSへの寄稿:絵文字😹😸🙀は空白をつくり、感情🔥を区切る

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ÉKRITS に「 絵文字😹😸🙀は空白をつくり、感情🔥を区切る 」を寄稿しました. 絵文字🙉について絵文字💩を使いながら書いてテキストの後編🎱です. 前編は「 絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む 」です.前後編合わせてよんでいただけたらうれしいです😺😺😺 絵文字って,何かのメタファーなのだろうかと思いつつ. メタファー云々というよりも感情を区切るものなんだろうなと思いつつ. 前回のÉKRITS ÉKRITS への寄稿:メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路  ÉKRITSへの寄稿:絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む 

ÉKRITSへの寄稿:絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む

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ÉKRITS に「 絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む 」を寄稿しました. 博士論文「 GUI の確立にみる「ディスプレイ行為」の形成過程 」でデスクトップ上のアイコンを考察しました.そして,今回,コンピュータにおけるあたらしい「絵」として絵文字😋を考えてみました.指差されて機能するアイコンとは異なり,テキストフィールドの流れのなかで意味をドライブさせる絵文字とは何なのか,ということを書いています🌞 来週,後編がアップされる予定です🚅 絵文字🚀についてなので,テキストの流れの絵文字🌈を使っています.絵文字🍺の流れを感じながら,読んでいただけたらうれしいです🙇 前回のÉKRITS ÉKRITS への寄稿:メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路 

MASSAGE連載03_光を透過させ、データとは連動しないディスプレイのガラス

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第三回「 光を透過させ、データとは連動しないディスプレイのガラス 」が公開されました. Houxo Queさんの 《16,777,216 view》 シリーズ とEvan Rothの 《Dances For Mobile Phones》 シリーズからあらたな平面について書きました! ディスプレイは普段は光,モノ,データとがぴったりと重なり合っているけれど,それをあえて引き剥がし,また重ねると,そこにあらたな平面が現れるということを書きました. 谷口暁彦 さんが作成してくれたイメージに「手」がでてきたのと呼応するように,ディスプレイに対するヒトの意識や行為が考察のなかに入ってきました. 次回もがんばります😊 😊😊

MASSAGE連載02_「光の明滅」というディスプレイの原型的性質

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第二回「 「光の明滅」というディスプレイの原型的性質 」が公開されました. 渡邉朋也さんの《 画面のプロパティ 》を,gnckさんの テキスト を経由して考えつつ,たかくらかずきさんによってtoggetterにまとめられた「 メディウム・スペシフィシティを巡って 」を参照して,ディスプレイで光が明滅していることについて書きました. 今回のテキストは書き進めて,修正を重ねていくなかで, 谷口暁彦 さんが作成してくれたイメージのように,自分がディスプレイとともに荒野に投げ出された感じがあります. 次回もがんばります😊

出張報告書_2016/04/15-17(別紙)あるいは,モノの「意思」の情報化/ヒトの意思の情報化

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15日は東京・神保町の SOBO Gallery に 渡邉朋也 の「科学と学習」展を見に行った. 3階にあるギャラリーに階段を登っていくと,クレヨンで描かれたようなドローイングが壁一面に展示されているのが見えた.近づいて見てみると,ドローイングはドラえもんやディズニーのキャラクターの塗り絵の上にされていた.ドローイングの反対側の壁には,同じように折られた5枚のレシートとその折りを指示する折図(=折り紙の設計図)とを一組にしたものが,3つ展示されていた.さらに,床にはカップラーメンの空き容器,食べたものの包装がゴミとしてまとめて入られたコンビニの袋,コンビニに売っている焼きそばか何かの空き容器の3つが薄い金属製の台座に置かれていた.これら3つのモノに共通してあるのが食べたときに使われた割り箸であり,割り箸の片割れは3Dプリントされたものに置き換わっている. レシートと3Dプリントされた箸は,渡邉が参加したグループ展「マテリアライジングⅡ・Ⅲ」や「みえないものとの対話」で見たことがあった作品であった.はじめて見た塗り絵の上にドローイングを行った作品には,レシートと箸の作品とは異なる感じを受けて,見ているときに,それが何を意味しているのかがわからずにモヤモヤした.渡邉はレシートの作品を《ツナとマヨネーズ》というタイトルで出品したマテリアライジングⅡ展のときに「情報と物質と私」というタイトルのエッセイを書いている.しかし,渡邉はこれまでの割り箸やレシートの作品で「情報」と「物質」との関係を処理していく過程に「私」が出てくることを極力抑えていたのではないだろうか.割り箸の3Dプリントであり,折図に基づいて折られたレシートにおいて,「私」は「物質」を計測して「情報」にし,その「情報」を具現化して「物質」をつくる処理装置に徹していた.けれど,塗り絵の作品においては「私」が「情報」と「物質」とのあいだに入り込んできている.その「私」が,作品を見ている私にモヤモヤを引き起こしたのではないだろうか. レシートの作品と割り箸の片割れを3Dプリントした作品とは構造が似ていると考えられる.割り箸の作品の値段はその割り箸で食べたものの値段なので,作品価格のつけ方はレシートとは少し異なるけれど,作品自体のつくられかたは似ている.割り箸が割られる,レシートが