出張報告書_20151030 もしくは,「みえないものとの対話」の対話



福岡県福岡市の三菱地所アルティアムで開催されている「みえないものとの対話」展を見た.「みえないものとの対話」展は,1980年代生まれの久門剛史,ラファエル・ローゼンダール,谷口暁彦,渡邉朋也によるグループ展である.

展示は久門剛史の《after that.》(2013年)からはじまる.細長い通路のような空間にミラーボールのようなモノに光があたり,壁や床に無数の反射が映し出されている.「ミラーボール」に近づいてみるとそれは無数の時計を組み合わせてつくられていた.一目見たときに「きれいだ」と感じた作品であった.

通路を抜けた空間にはラファエル・ローゼンダールの《looking at something.com》(2013年)が展示されていた.この作品はタイトルからもわかるようにウェブサイトであるから,ChromeやSafariなどのブラウザによって誰もがいつでもどこでも自由に見られるようになっている.その作品が今回はインスタレーションバージョンで展開されている.壁面にプロジェクションされた3つの画面に《looking at something.com》が映し出され,トラックパッドでカーソルを動かすと,画面上の天気が晴れから雨,そして雷雨と変化していく.鑑賞者はコンピュータの「窓」から自身の行為に即応する「天気」を見ることになるが,タイトルの《looking at something.com》は,そこで見ているもの「何か」としか言っていない.そこで見ているものは自然なものでもなく,人工的なものでもなく,単に「何か」なのである.

[《looking at something.com》を考察した記事→そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か?

次の部屋には,谷口暁彦によるiPadやiPod touchを組み合わせた連作《思い過ごすものたち》(2013年)が置かれていた.サーキュレーターの風に揺れている天井から吊り下げられたiPadのディスプレイには「風」に揺れるティッシュペーパーの3DCGが映し出されていたり,iPadの画面に水が流れることでメモに文字が入力されていたり,2台のiPod touchがビデオ通話アプリFaceTimeでつながれていたりする.私はこの作品を過去に何度か見ている.今回興味深かったのは,ソフトウェアがアップデートされたことでメモアプリの見え方が変わっていた点である.作品のハードウェアの構造は変わらないが,ソフトウェアが変わることで印象が異なったように感じた.人工的につくられた「薄い板」というハードウェアのなかにソフトウェアというもうひとつ人工物が入っているという単純な事実に気付かされた.

最後の部屋には再び久門の作品《Quantize #1》が展示されていた.明滅する電球や蛍光灯,スピーカーから聴こえる雨音や自動車の音,扇風機やその風に揺れる布.これらの現象がコンピュータによってプログラムされていて,ランダムに組み合わせられている.電球や蛍光灯,扇風機などから伸びるケーブルを追っていくと,その先にはMacBook Airを見ることができたのが興味深かった.現象を制御するコンピュータは作品から隠されていることが多いが,今回はそれが隠されていなかった.各々の現象がランダムに自律的に動作しているようではあるが,それらはすべてコンピュータで制御されている.谷口の作品もiPadやiPodといったコンピュータを使っているが,それらは各々センサーをもち外界をセンシングしていて,自律的に動くモノとしても機能しているのに対して,久門の空間に配置するモノは外界を感覚するのではなくコンピュータで制御されているこの対比は興味深いと感じた.

展示を順路に沿ってみていき出口に行くと,最後にまた久門の《after that.》を見ることになる.この展示は「ループ」するようになっている.そこで再び《after that.》を見ると,無数の時計の意味がよく分かった気がした.この世界には様々なパラレルワールドがあって,それらは普段は見えていないが,互いに影響しあい「対話」しているのではないだろうか.そのように考えると,ローゼンダールの作品の3つの画面をすべて雷雨にすると,谷口のFaceTimeを使った作品がその雷の音に共鳴することは必然であって,そのiPodが映し出す電球の明滅が久門の《Quantize #1》で使用されている電球の明滅に応答しているようにしか見えなくなってくる.

渡邉朋也の《荒んだ食卓を極力なおそう》(2015年)はアルティアムの展示空間にはなく,アルティアムが入る商業ビル「イムズ」館内に設置されている.渡邉の作品は荒んだ食卓で失われた割り箸の片割れを3Dプリンターで補填するものである.華やかな商業ビルの片隅に黒いテープで結界のようなものがつくられ,そこに赤のPLA素材で出力された割り箸の片割れとそのペアとなるオリジナルの割り箸がカップ麺の容器とともに置かれている.カップ麺の容器も割り箸と同じくオリジナルもあれば,3Dプリントされたものもあった.

渡邉の作品はタイトルから考えると割り箸の片割れというこの世にひとつしかないモノをデータ化してプリントして補填した時点で荒んだ食卓がなおされているので,そこに大量生産の既成品であるカップ麺のカップをプリントする意味があるのかなと思った.しかし,カップ麺のカップをデータ化して,それを3Dプリントすることは,この世界の有り様をシュミレートしているような気もした.いまいちよくわからないままだが,割り箸の片割れとともにカップ麺のカップが3Dプリントされていることが重要なのではないかと感じている.なぜなら,その割り箸はカップ麺を食べるために割られたのだから,その食卓にはカップがあるはずであって,そこに3Dプリントされたカップがある世界もあっていいはずなのである.

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