「インターフェイス」に意識を向ける(1)

面から界面へ
今敏監督の「パプリカ」のオープニング映像は,プロジェクション・マッピングのようにスタッフの名前が様々なモノに映し出されています.名前が映し出されるのは,ビルの壁面,自動車のドア,横断歩道,ハンバーガー屋の柱などで,あらゆる平面に文字が映し出されます.ここで使われている手法は,厳密にはプロジェクション・マッピングではなくて,平面にただ文字を投射しているにすぎません.プロジェクション・マッピングのように面の凹凸を計算して,それに合わせて映像を生成して,映像とモノの面とを一体化してしまうような厳密さはないのです.

プロジェクション・マッピングのような厳密さをもたないオープニングのスタッフロールは,どこか別のところから投射された映像という感じがします.「パプリカ」自体がアニメーションという描かれた映像ですが,スタッフロールの名前はそこで描かれたモノと一体化していません.どこか別のところから来た存在という感じがあります.何が言いたいのかというと,ここには「映像」と「モノ」があり,それぞれが「面」を介して向かい合っているということです.つまり,ひとつのように見えるのですが,よくよく観察してみるとふたつであり,そして実際にふたつの存在があるということが,オープニングで示されているのです.このことは何を示しているのでしょうか.

ひとつがふたつ.ひとつに見えるかもしれないが,ふたつであること.ここには私たちとテクノロジーとの関係が示されているのです.映像とモノとのあいだに「面」が出現しています.あるいはは,「面」を介して映像とモノというふたつの存在が接しています.モノ|映像のあいだにある「面」,ふたつのあいだにあるそれらを出会わせる「面」.それは「界面=インターフェイス」と呼ばれる特別な面なのです.ここでいくつかこの「界面=インターフェイス」について書かれたテキストを引用してみたいと思います.

この段階[シミュレーション映像が日常に入り込んできた]に至って,私たちはイメージと現実との関係に大きな変化が起きていることに気がつきはじめている.それは「見る」という行為が,感覚信号を受動的に処理する,一方的な経験であることを超えて,見ている対象を直接的に動かしてゆくような,物理的な意味で能動的な経験の領域へとシフトしているからだ.そこで重要な役割を果たしているのは,通常インターフェースと総称されている部分である.もともと「界面」を意味するインターフェースは,今日あらゆる電子機器と人間との接点としての「操作面」において使用されているが,シミュレーション映像にとって,インターフェースは単なる付帯機器ではない.絵画と額縁との関係とは異なり,(歴史的にも,あくまで額縁は絵画の後に取り付けられたものである)インターフェースは映像という「界面」と人間も含む現実世界とのあいだに置かれた「交換器」として重要な意味をもっている.
イメージと現実はこの「交換器」を通して連続的に変化するひとつの回路をなしているのである. 
(港千尋「未来の光と影」,『情報デザインシリーズ Vol.4 映像表現の創造特性と可能性』173頁)

アクチュアルとヴァーチャルは雀蜂と蘭であり,「なる」という生成変化は,植物と昆虫,アクチュアルとヴァーチャル,この界と界の間,その「界面[インターフェイス}」での両者の識別不可能性を生み出すことである.コンピュータのスクリーンはこれが行われる界面であり,コンピュータは「なる」ことの操作子として,このアクチュアルとヴァーチャルの界面での生成変化を操り実行する.それは,ヴァーチャルのアクチュアルへの組み入れ,アクチュアルのヴァーチャルによる侵食であり,アクチュアルを可視的なヴァーチャルにもとづいて再構成するとともにこれをコントロールし,ヴァーチャルをアクチュアルな事柄の中に着生させ生きられるものにすることだ.
(北沢裕『視覚とヴァーチャルな世界 コロンブスからポストヒューマンへ』175頁)

このような時間空間の通常概念の変貌に伴い,表面あるいは面という古い概念にまで,相対性原理が適用されるようになる.つまり,従来の面は,媒介関係で規定される界面(インターフェイス)という概念(その重要性が理解されているとは言い難いが)によって「対座」あるいは「対面」させられ,面は界面に置き換えられるようになるのだ.こうして,全ての面は,大きさの大小にかかわらず,もはや客観存在ではありえず,ある一人の観察者から見た観察との関係でのみ,言い換えれば,観察の中でのみ存在するものとなる.
(ポール・ヴィリリオ『瞬間の君臨 リアルタイム世界の構造と人間社会の行方』95頁)

これらのテキストはとても難しいことを言っている感じです.「界面」は「交換器」であったり,そこで「生成変化」が起こったり,果ては相対性理論が適用された結果として「面」が「界面」になるとも言われています.しかし,これらのテキストは言い方はそれぞれであっても,言いたいことの根本はひとつであると思われます.それは「面」から「界面」に変化することで,私たちはその「面」に対して作用を及ぼすことができる,もっと簡単に言えば,「面」をコントロールできるようになっているということです.そして,「界面」のコントロールを介して,私たちともうひとつの存在とが識別不可能な状態,つまり「ひとつ」になっていくということです.

例えば,ヒトとコンピュータが接する部分は,ユーザ・インターフェイスと呼ばれていますが,これは私たちがコンピュータをコントロールする部分です.逆に,コンピュータが私たちをコントロールしているところとも言うことができます.どちらにしても,ヒトとコンピュータというふたつの異なる存在のあいだの情報の流れを整え,ひとつの回路をつくり出すのがユーザ・インターフェイスと呼ばれる界面の役割なのです.私たちは,今まで主にディスプレイとキーボード,そしてマウスとカーソルという組み合わせのユーザ・インターフェイスで,コンピュータを使ってきました.ところが,近頃では,画面に直接触れてコンピュータを操作するタッチ型のインターフェイスが出てきました.コンピュータそのものの根本的な部分はまったく変わりはないのですが,ユーザ・インターフェイスが変わることによって,コンピュータを操作するという体験が変わってしまいました.そして,コンピュータそのものが「スマートフォン」というあたらしい存在に変わってしまったかのような印象が生まれています.インターフェイスがヒトとコンピュータとのあいだの情報の流れを整えることで,その関係を「ひとつ」の存在として規定していると言うことができます.つまり,インターフェイスがヒトとテクノロジーとの関係を決めていると考えられるのです.

(問い:インターフェイスの変化に伴う体験の変化について,自分の経験から考えてみましょう)

しかし,インターフェイスでは,ふたつのものは一体化しましせん.それはできるだけひとつになるように接しているけれども,決してひとつになりません.なぜなら,もともとが異なるふたつの存在だからです.当たり前のことです.しかし,この当たり前の前提を忘れさせようとするのがインターフェイスなのです.インターフェイスは,向かい合っている別の異なる存在とひとつになれる/なっているかのような「幻想」を作りだすようにデザインされます.だから,優れたインターフェイスを備えたコンピュータや機械を使っていると,ヒトはそれらと一体化しているかのような感覚を抱きます.しかし,ここではっきりと自覚しておかなければならないのは,一体感はあくまでも幻想であって,実際は異なるふたつの存在がインターフェイスを介して向かい合っているということです.このことを忘れてしまうと大変なことが起こります.なぜなら,ヒトとテクノロジーの関係において,ヒトはヒトであり,テクノロジーはテクノロジーだからです.ヒトはテクノロジーとともにあることで,何かしらのプラスαを得ています.ですが,それはあくまでもプラスαです.けれども,そこでヒトがヒトでありながら,何か別のものになっているかもしれないという幻想を作り出すのが,インターフェイスの役割なのです.この関係はヒトとコンピュータとの立場を入れ替えても成り立ちます.コンピュータはヒトとともにあることで,何かしらのプラスαを得ているとも言えるのです.なぜなら,それらはインターフェイスを介してあたかも「ひとつ」になっているのですから.

ここで「面」と「界面」について簡単に定義しておきましょう
面:私たちを取り囲んでいる(物理的な)「面」
界面:私たちを「面」で起こっている出来事に関与させて,その「面」との一体化を促すような幻想を作り出すもの

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