投稿

2月, 2014の投稿を表示しています

展覧会「逆シミュレーション音楽の世界」のアーカイブページができました!+次の告知

2013年10月10日から岐阜県美術館で行われた三輪眞弘さんの展覧会「逆シミュレーション音楽の世界」のアーカイブページができました→ http://www.iamas.ac.jp/af/01/index.html 会期中に行なわれた三輪さんと私との対談「コンピュータがもたらした世界」も「映像」と「テキスト」という2つのかたちでアーカイブされています→ http://www.iamas.ac.jp/af/01/html/talk/talk1.html 対談がテキスト化されると参照がしやすくなり,とても良いことだと思います.特にメディアアートの分野は日本語で参照できるものがそれほど多くありません.だからこそ,今回のアーカイブのように話したことをテキスト化していくことが「次に」つながていくために重要になってきます. トークのテキスト化をしていただいたIAMASの水野雄太さん,全体をまとめていただいた前田真二郎さん,本当にありがとうございました. 「次に」という点でいうと,私は三輪さんとの対談のなかで「今まで人間が複雑な行為をし過ぎていたのかなという気がするんですね」[ 07. テクノロジーと人間の関係性 ]ということを言いました.この対談までは明確には意識してきてこなかったのだけれど,対談後にとても気になっていることのひとつです. そしてこのことを考えていると,アーティストの齋藤達也さんから大阪の dddギャラリー で開催される「 指を置く 」展のギャラリートークに誘われました.齋藤さんとのメールのやりとりなかで,三輪さんのトークから得たことをつなげて以下のように書きました. そこでひとつ考えたのは「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎていたのではないだろうか?」ということです.それはどういうことかというと,例えば本を読んでいるときにする「ページをめくる」という行為.これは本を読んでいれば当たり前にする行為ですが,タッチパネルの電子書籍ではその行為が単に画面の端をタップするだけになります.それで本=文字列が読める.「めくる」という行為をしなくても,タップをすれば「めくる」という行為をコンピュータが行ってくれて,その先の文字列が読める.これは行為が楽という意味だけではなくて,今までヒトが「めくる」という行為に割いていた「演算処理」をコンピュータという

ucnvさんのアーティストトークとともに考えた「サンプル」と「顕在化」

【今回のテキストはTumblrに書いた memo とそれへの付け足しでできています】 ucnv さんのトークをICCで聞きました.ICCの オープンスペース2013 で展示されている 《Tab. Glitch》 をずーっと見ていると,何を見ているのかわからない状態になっていたのですが,トークを聞いてその謎が自分的に解けてきたような気がしました.それは,僕は「写真」とか「画像」という形式・メディアにとても引っ張られているなということです. 《Tab. Glitch》はグリッチした「画像」がプリントされた「写真」状のものが整然と並べられています.どれも「グリッチ」されたと感じられる「画像」であり「写真」です.「画像」「写真」という言葉を使った時点で,そこに「オリジナル」を探したり,どれも「コピー」なのかなと思ったりします.また「グリッチ」という言葉から,今見ている「画像」なり「写真」なりの「下」というか,ここには見えていない「文字列」の操作がこの今見えているものをつくりだしていると考えてしまう. もちろん目の前にあるものは「画像」であったもので,それをプリントした「写真」みたいなもので,そこに写しだされているものには「グリッチ」という名前が与えられているのだけれど,ucnvさんとゲストの谷口暁彦さんの話を聞いていると,それはほんの少し違うように思えてきました.ucnvさんがしきりと《Tab. Glitch》の展示を「昆虫採集」に例えていました.「グリッチ」という現象を採集して,標本化するということです.ここで比喩をあえて文字通りに受け取ると,昆虫採集で採集され,ピン止めされて標本化されるのは「個体」です.「個体」にはオリジナルもコピーもなく,ただそこにいて,採集されて,標本化されているサンプルにすぎません.それは「画像」とか「写真」とかがもつ「オリジナル/コピー」といった意味がなく,単に「サンブル」でしかないのです.このように考えると,《Tab. Glitch》を見ているときの「分からなさ」が少しなくなっていったような気がしました.僕が見ていたのは「グリッチ」という現象のサンプル集だったわけです.それは「画像」や「写真」という形式で定着されているから,そこに意味が引っ張られることがあるのですが,そこには大きな意味はなくて,あくまでもグリッチという現象の「サ

「短絡のスイッチ」が押された後の「有限/無限」

2月13日に日本映像学会中部支部2013年度第3回研究会・特別企画トークセッション「幸村真佐男の情報と芸術」で「 ポスト・インターネットのなかに「幸村真佐男」を置いてみる 」という発表をしてきました. 幸村真佐男さんはメディアアートの歴史をめぐる記述には必ず登場する「 CTG 」のメンバーで,まさにコンピュータとアートをむすびつける「レジェンド」です.幸村さん本人を前にしての発表,そして私の次の発表者が指導教官であった茂登山清文さんという状況はかなり緊張しました.そんななかでの発表は,「歴史」のなかに「幸村真佐男」を置くという作業は多くの人がやってくれていると思うので,思い切って,今のネットをめぐるアートの状況に「幸村真佐男」を置いてしまおうというものでした. また,発表を打診されたメールを読んでいて, 幸村先生の作品は[昔−最近]では区分けできないのではないかと思いました. それは継続してずっとやっている作品が多いということもあるし, この前の幸村先生の4つの個展と講演から感じたのですが, 作品が「人格」的なのかなーと考えた次第です. 「人格」的ってなんだ,という話しですが… こんなことで30分話せるのかは不安ですが… ということを思った点も今回の発表につながりました.でも,発表は「ポスト・インターネット」な状況のなかでの作家紹介になってしまった感が強く幸村さん自身に結びつけることが難しかった.ましてや「人格」的という話までは全く考えられなかったです. ただ発表のあとに幸村さんと茂登山さんの応答を聴いていたときにデジタルワールドを巡る「有限/無限」という言葉の捉え方がどこか,私の感覚とは異なるところがありました.幸村さんはアートはデジタル化されると「有限」 な存在なると言っていました.それに対して,茂登山さんも何かを切り返していたのですが忘れてしまいました.でも,何かふたりのやりとりのあいだで交わされる「有限/無限」という言葉が,どこか手の届かない感じとともに,その言葉に多くの意味を負わせているような感じがしました. 私が感じていた「有限/無限」というのは,何かもっと軽くて,ネットにはごろごろとあって,そのような言葉自体を考えないというものでした.この感覚のちがいを考えていたときに,佐々木敦さんの「 未知との遭遇:無限のセカイと有

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_20

記事を書きました→ ロッテルダムのMAMAがラファエル・ローゼンダール氏によるJODIの解説ページを開設 ネットアートのパイオニアJODIの作品について,ネットアートの革新的良心(?)ラファエル・ローゼンダールが「実況」している映像についての解説を書きました. 記事にはうまく書けなかったけれど,ラファエルさんのこの試みはアーカイブ的にも興味深いと思います.ということでボツテキスト. ネットアートのアーカイブに関しても,ローゼンダール氏のJODI実況は興味深い.ローゼンダール氏はゲームを題材にした《http://www.untitled-game.org/》にアクセスするのだが,そこ書かれていたのは「mac OS9」という文字である.それはこの作品が現状のMacOSでは動かないことを意味する.そこでローゼンダール氏はYouTubeにいき「jodi untitled game」と検索して,その作品が撮影された動画を探すことにする.ここでの彼の行為が示しているのは,作品がOSのバージョンの違いによって動かなくなることであり,同時に,その作品が「映像」としてYouTubeやVimeoなどの動画共有サイトに残っている可能性があるということである.ローゼンダール氏はJODI実況をJODIのアーカイブページを探すところから始めたのだが,最後になってJODIのアーカイブページである「http://joid.org/archive/」を見つける.そこにはJODIの作品だけではなく,作品に関する動画・画像を含んだあらゆるページヘのリンクがある.そして,ローゼンダール氏は見つけたアーカイブページをWikipediaのJODIのページに「Full archive of Jodi」というリンクを追加する. そして,考えれるほど興味深いということで,ボツテキスト.「実況」が映し出す行為の連鎖みたいなものがあるのかなーと思います. 実況の最後の方で,ローゼンダール氏は《http://x20xx.com/》を体験しながら,映像作品のようにリニアに決定されているように見える作品もプログラムから生成されたものであることを指摘する.作品そのものではないが,ローゼンダール氏のJODI実況も決まった順路で作品を巡っていくのではなく,彼がリンクを行きつ戻りつしながら作品を見ていく様子をスクリ

ポスト・インターネットのなかに「幸村真佐男」を置いてみる

イメージ
幸村真佐男→youpy/ライダー・リップス/パカー・イトー/Tumblr/JOGGING/reretlet→幸村真佐男? 幸村真佐男とyoupy 幸村真佐男 幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー 幸村がこれまでに日常的に撮り溜めてきた 300万枚 に及ぶ写真.その全ての写真を秒30コマのフレームに落とし込み,約27時間30分間の映像化を目指す. http://n-mark.com/projects_kohmura.html  http://www.flickr.com/photos/fomalhaut/ 幸村真佐男 は「写真」を撮り続けているのか? LIFE LOGー行雲流水ー のトークで「 デジタル写真はコンピュータ・グラフィックス 」と言われていたのが印象に残っている. 「世界」をプログラム可能な画像へと置き換える. 2014.2.11(祝) 愛知芸術文化センター主催. AACサウンドパフォーマンス道場特別公演「The SINE WAVE ORCHESTRA」撮影:Yuichi Okazu Ito 「 幸村真佐男 glitch 」展 youpy http://www.flickr.com/photos/youpy/ youpy:(約)1600万色を入れる予定で.でもいまは500万色ぐらいかな. 渡邉:まあこういうかたちで,1色1色って言ったらいいんですかね…… youpy:そうですね. 千房:RGBの数値を一個ずつずらして,全部上げてくっていうことですよね. 渡邉:256の3乗(=1,677,216)色ってことですね.Flickrという写真共有サーヴィスの上で,そういうことをやっている.いま,世界で一番写真がアップロードされているんでしたっけ? youpy:Flickrでたぶん一番上がってる. (一同爆笑) youpy:これって実際のプログラムは10行ぐらいなんですよ.でも,そんな簡単なものでこれだけインパクトあるものができるのが,インターネットのすごいところだと思って.   座談会「インターネット・リアリティとは?」  かれは,自分と写真機を区別することがもはや無意味