「動詞から名詞へ,名詞から動詞へ」という感覚の切り替え

「それは「場所」ではない,もしくは,それは「選択範囲」ではない」という記事で論じたJan Robert Leegteの《Selection as an Object》(2013)から《The Act of Selecting Objectified》(2013)という作品が派生していた.


前作は予め描かれた選択範囲を示す点線の明滅とその影を見るだけだったが,今作は選択範囲を自分で決めることができる.カーソルを対角線上に引っ張ることで明滅する点線の四角を描くことでき,その下に影ができあがる.画面上でもう一度クリックすると選択範囲が消えるので,選択範囲とその下の影を何度でも描ける.

選択範囲を描くもしくは決めているときは,「選択範囲」そのものをつくりだしているという感覚が強くなるように感じた.それはPhotoshopなどで選択範囲を決めているときに感じるいつもの感覚にとても近いものである.そこには《Selection as an Object》で感じた「機能」が突如ひとつの「画像」及び「実体」になってしまうような感覚がなく,機能としての「選択範囲」を使っているという感じである.実際は何ひとつ選択していないし,選択範囲には不必要な影が示されるにも関わらず,そこで行われているのは「選択行為」でしかない.けれど,選択範囲を描き終えてしばらく明滅している点線の四角を見ていると,徐々にそれが実体化してくる.自分の手から離れるとそれは突如して影をもった実体としてそこに存在し始めるのである.

もう少し詳しく見てみると,選択を決めた最後のクリックの後にカーソルを動かさなければ,選択範囲の四隅のどこかにカーソルが残り続けて行為の痕跡を残している.だから,カーソルをその隅から動かさないあいだは機能として描かれた選択範囲と選択範囲の実体化とがせめぎあっている感じを受ける.カーソルをその隅から離すとそれを合図にしたかのように選択範囲が実体化する.

前作が《Selection as an Object》という名詞によるタイトルであったとのに対し,今作は《The Act of Selecting Objectified》となっており「実体化される」ものを選択していくというような動きとともにある行為を示唆している.このタイトルの変化からも今回の作品は,ヒトがコンピュータ上の画像とともに遂行する行為の一連の流れのなかでどこでそれが動詞的なものから名詞的なものに変わるのかを体験できるものになっていると考えられる.

「動詞から名詞へ,名詞から動詞へ」という感覚の切り替えのなかで,私たちはディスプレイ上の画像を操作しつつ選択やコピーなどの行為を遂行しているのである.それはGUIの議論で以前あったような「選択範囲をカーソルで決める」という動詞的行為のあとに「コピー」という行為の名詞を選ぶということではない.Jan Robert Leegteのふたつの作品が示すのは,これまでは動詞的行為及び名詞的選択と一括りされていた行為のなかでもカーソルや画像の動きに基づいた「動詞↔名詞」感覚の切り替えが行われているということである.

《Selection as an Object》と《The Act of Selecting Objectified》はヒトとコンピュータとが画像ともに行なっている行為に対して,私たちの感覚解像度がひとつ上がったことを教えてくれるのである.

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