GoogleのGlassについて考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまう


GoogleのGlassについて考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまうのは,僕が古い人なのかもしれない.「映画は反射光,テレビは透過光」という区分け.Glassは透過光なのか,反射光なのか.Glassのページには「Welcome to a world through Glass.」とあるから,僕たちが経験するのはGlassを「透過=through」した世界であるらしい.でも,よく考えるとここは複雑なものがあって,ガラスを通るして映像が投影されているとすれば「透過光」だけれども,映像以外の部分は世界のオブジェクトからの「反射光」なわけです.ということは,Glassを通して「反射光+透過光」という組み合わせで世界を認識していくということでしょうか.

このことが意味するのは,マクルーハンが提唱した枠組みでは捉えることができない「メディア」が登場してきたということになります.これは今ままでの考え方を超えて,あるいは捨てて,考える必要があるものなのかもしれません.

理解できないものの価値を感じることは難しいですし,何か新しいものを理解してもらうためには,いずれにしろ古い価値体系の何かを動員してメタファー的方法で説明するなど過去あったものとの接続作業が不可欠ですね。.
グーグルグラスもテレパシーワンも大きな壁に阻まれている.その2 - ウェアラブルの時代 - 

これは,Glassと同じメガネ型のウェアブルインターフェイス・テレバシーワンを開発している井口尊仁さんのブログからの引用です.Googleが「インターネットとのシームレスな接続」や「スマートフォンの拡張」を前面に押し出してGlassを売り出すのは,今の価値観の延長にあるから理解されやすいからだと井口さんは指摘しています.でも,Glassやテレバシーワンが持ってい力は,理解できないほどのあたらしさを持っていると井口さんは考えています.井口さんが考える「あたらしさ」は,彼のブログに書いてありますが,僕としては,Glassを通して見る世界,それがGlassという「メディア」を通して見る世界だとすると,それは今までのメディアを大きく区分けしたマクルーハンの枠組みが崩れるという意味で,そこには「あたらしさ」があるのではないかと思うわけです.
あと,もうひとつGlassで考えられるのが,スクリーンというかディスプレイとヒトとの位置関係が,これまでとは全く異なることになるわけです.今まではスクリーンと向い合っていたのが,Glassだとスクリーンを通して世界を見るわけです.ケータイやスマートフォンは.僕たちとスクリーンとの関係を変えたわけだけれども,それはいつでも手元にあるということだけで,ヒトがスクリーンとの位置関係までは変えはしなかったと思います.強いていえば,前向きでスクリーンを見るのではなくて,下向きに見るということになった.UIEvolutionのチーフソフトウェアアーキテクト中島聡さんは「スマートフォンの次に来るもの」で次のように書いています.

人類が誕生して以来,人々は何万年もの間,歩く時は常にまっすぐ前を見て生活して来た.ところが,スマートフォン(もしくはiモードケータイ)の登場以来,スマートフォンの画面を見て過ごす時間が長くなってしまった.その分,自分の身の回りに注意を払わなくなり,ある意味「外界とのインターフェイスを遮断」した状態で暮らす時間が長くなってしまった.「常時接続ライフスタイル」の副作用である.
その意味でも,私は「スマートフォンの次に来るもの」は「外界とのインターフェイスを遮断せずに常時接続ライフスタイル」を満喫出来るようなものであるべきだと私は思っている.

中島さんが指摘するように,ヒトは今まで前を向いて行動してきたわけです.だから,身体には前を向いえて行為を行うことのスキルが多く蓄えられていると考えられます.でも,ケータイやスマートフォンはヒトの視線をやや下に持ってきている.しかも,歩きながら下を向いている.さっきは捨てるといったマクルーハンをもってくると,見ている画面は100年前には見つめることもなかった「透過光」によるディスプレイ.私たちは「下向き」と「透過光」という未知の体験をしているわけです.それは,まさに「外界とのインターフェイスを遮断」でしょう.以前,テレビ番組で,目が見えない方が,「スマフォを扱っているヒトにぶつかるとヒトではなくロボットとぶつかった感じがする」と言っていた.「外界とのインターフェイスを保ったヒト」は,ぶつかる直前で回避行動をとるけども,スマフォなどで外界とのインターフェイスを遮断したヒト」はそのままぶつかってくるということでした.ロボットだって,今は,モノに衝突するときに回避行動をとるので,ヒトはロボットでもない別の何かになっているのでしょう.で,この状態を回避して,「外界とのインターフェイスを遮断せずに常時接続ライフスタイル」を楽しめるのが,前を向いて使えるGlassだいうのはとてもわかります.
でも,「下」向きの姿勢がどのような問題,もしかしたら今までにない利点を持っているのかを一度考える必要もあるのかなと思います.考える間もなく,次は「前」というこれまでの姿勢にもどり,これまでにない「スクリーン越しの世界認識」が試みられ始められるわけです.身体が今ある技術を取り込む暇もなく次々に進んでいっているような感じもします.そこでは,あたらしい技術を手にして嫌でも自分の身体を意識することになるでしょう.でも,ヒトの身体はナメてはいけないので,すぐにその不透明化した身体を透明化していくのかもしれません.「不透明化」と「透明化」のあいだに身体が置かれることで,本当にあたり前すぎて考えてこられなかった「前を向く」や「下を向く」といったことの意味が考えられ始められるのかもしれません.いずれにしても,スマートフォンからGlassへの移行が起るとすれば,ここには大きな転換が,それは技術的なものではなくて,世界認識の部分で起るような感じがします.メディア論的には,「ポスト」マクルーハンになるのではないのかな.

このブログの人気の投稿

Poi vol.1 featuring Nukeme

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_16

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」(追記:2017/09/07)

授業ノート:ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

「スピリチュアルからこんにちは」にこんにちは

「Generated X [生成されたX]」の気配