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2013の投稿を表示しています

2013年の振り返り

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2013年にはこの投稿を含めて95本の記事を書いています.そして,この投稿がブログ全体で499本目の投稿になります!

2013年は新津保建秀さんの写真集『\風景』への考察21_21 DESIGN SIGHTで行なわれたセミトランスペアレント・デザインとのトークからはじまり,GIF BOOK及び恵比寿映像祭への寄稿,インターネット・リアリティ研究会の座談会「[インターネット アート あれから]つづき」への参加と,最初の3ヶ月に多くの活動していました.

また,メディア芸術カレントコンテンツで月1でメディアアートの紹介してきました.

[2012年度]
新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催(1月11日更新)書評『イメージの進行形───ソーシャル時代の映画と映像文化』(1月11日更新)制作者から見た「GIF」:『GIF BOOK』と「GIFアニメ再起動!」(2月8日更新)The World's First Tumblr Art Symposium がニューヨークで開催(3月15日更新)《Data Centers Grand Tour (This Data Belongs Here)》が示す地球の上の「データの場所」(3月29日更新) [2013年度] 作品をコピーしあう仲間たちのクラブ:《The Copy Companion Club》(6月26日更新)リアクションが全く生じないメッセージアプリ「ETHIRA」(7月24日更新)オリア・リアリナ氏が新作GIFアニメ《Summer》を公開(8月21日更新)OKFocusが顔文字ジェネレーター「Newmoticons」を発表 ლ,ᔑ^人^ᔐ.ლ(9月19日更新)デジタルアートのオークションPaddles On!が開催中(10月9日更新)アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催(11月13日更新)「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催(12月11日更新)
メディア芸術カレントコンテンツでも取り上げたけれども,エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」は,三輪眞弘さんとのトークとともに今年後半の大きな出来事でした.
エキソニモの個展に関しては,このブログにテキストを書くだけではなく,上記のメディア芸術カレントコンテンツ,そして,CBCNETにもテ…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_18

記事を書きました→「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催

12月7日、8日に渋谷ヒカリエ 8/ COURTで開催された東京藝術大学大学院映像研究科オープンラボ「いま、映像でしゃべること? – Orality in Moving Image -」presented by GALAXY Lab. について書きました.

記事のなかで「私はここ1年くらいのあいだ,スマートフォンを使った作品に対して言語化できないモヤモヤしたもの感じていた」と書いていますが,このモヤモヤのキッカケは今回も出品していた谷口暁彦さんの個展「思い過ごすものたち」でした.この展示を見てブログを書いたのですがそのタイトルが「ユラユラフラフラしているモノ」なので,ユラユラフラフラしたモノに対してモヤモヤをずっと抱いていたといことになるでしょうか.

「いま、映像でしゃべること?」ではサムスン電子のGALAXY というスマートフォンが使われていました.タッチ型インターフェイスを備えたデバイスですが,今回は「タッチ」という部分ではなく,その板状のかたちがフィーチャーされていました.板状のデバイスがつくることができる映像の可能性を探るという感じです.ただその際に「映像」だけが取り上げられていることが気になりました.1日目のトークに出ていた徳井直井さんは私とは逆の観点ですがこのことを上手く指摘してくれています.

モバイル端末を使った映像表現というとどうしてもOSが取り込んだ映像データをソフトウェアの上でごにょごにょすることを考えがち.  一方で開発者でない芸大生はまず端末を設置するフレームをレーザーカッターで作ったり,カメラにつけるアタッチメントを作ったり,端末をのせて走らせるラジコンを作ったりと、 OSがデータとして取り込む前の映像,そしてディスプレイに表示され出力される映像の見せ方,端末の「外」を最大限に利用していました.Nao Tokui loves to write. 
私は徳井さんとは逆に端末の「外」を利用したものよりも,「センサーをハックする」というテキストを会場で販売されていたブックレットに書いていた谷口さんの作品のように端末の「内」も最大限に利用したものに惹かれました.それは目の前にある一枚の板状のデバイスのなかには種々のセンサーが入っているもの…

CBCNETにテキストが載りました!

CBCNETにテキストが載りました!→『エキソニモの「猿へ」』を読み解く 〜 水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ

ずっと読んでいた媒体に自分のテキストが載るというのはうれしいものです! 力を抜いて書いていたら,あらぬ方向へ着地した感じなりました.でも,エキソニモが投げかけられた「猿へ」に対して,何かしらの応答ができているのではないかと思います.

上のテキストではコンピュータが「間違える」ということについて,三輪眞弘氏の逆シミュレーション音楽と絡めても書きたかったのですが,うまく書けなかったのでまた挑戦したいと思っています.

そして,
『エキソニモの「猿へ」』に関して,これで5本目のテキストになります.その他のテキストは以下になります.

メディア芸術カレントコンテンツに書いた展覧会全体のまとめ的なテキスト
アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催
上のテキストの告知→お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_17 

自分のブログで「1999」「2005」「2009」と展覧会のセクションごとに書いた3つのテキスト
「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた 
「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(2):見えているからこそ,よりわからない 
「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(3):あとはPCにまかせた 

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(3):あとはPCにまかせた

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「2009」セクションは,「あとはPCにまかせた」とキャプションに書かれた《DesktopBAM》(2009)から始まる.「あとはPCにまかせた」という言葉の通りこの作品ではカーソルがプログラムされた通りに動くことによって,QuickTimeのファイルが再生・停止を繰り返しビートを刻み,ボイスオーバー機能によってMacが歌う.その演奏はコンピュータ単体で行っているからこそできる高速かつ正確なカーソルの動きで可能になっている.カーソルは動いているが,そこにはヒトが介入する余地はない.周りの音を取り入れる箇所があるので,そこでヒトは自らの声を演奏に介入させることができるのみで,普段は自分の手の延長,もしくは分身として動かしているカーソルとのつながりは切れている.ヒトとの関係を絶ったまま,カーソルはコンピュータを「再起動」させる.画面上の画像にすぎないカーソルが,それ自体を動かす基盤となっているモノに作用する.画像とモノとのあいだの情報の流れのなかから,ヒトは完全に放り出された状態で,ただただ演奏を聴くのみである.

「2009」セクションの大半は連作「ゴットは、存在する。」(2009−)で占められている.このシリーズについてはICCや国立国際美術館での「世界制作の方法」展のときに一度論じている(→イメージを介して,モノが「祈る」「情報機器に在るはずのない精神を感じさせる」存在としてのカーソル )「ゴットは、存在する。」の作品には「お手を触れないでください」マークがつけられている.ここでも「あとはPCにまかせた」状態である.

今回特に気になったのはGoogle日本語入力の「かみ」の変換候補を示し続ける情報彫刻《迷》(2010)である.《迷》では変換候補をループし続けるためにキーボードのスペースキーのところに「りんご」が置かれている.以前この作品を見た時にはアルスエレクトロニカのトロフィーがスペースキーを「押し」ていた.今回は「リンゴ」.キーボードの上にあるMac miniにも「りんご」が描かれている.これは洒落だろうか.コンピュータにとってはキーボードを押す存在がヒトである必要はないわけで,りんごもキーを「押す」ことができて,そのことによってコンピュータが「迷う」.ヒトも変換候補をどうしようかとスペースキーを押して迷うけれど,りんごも迷える.りんごというひとつの決定を…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_17

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記事を書きました→アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催

ブログでは個別の作品紹介をしないで書いているので,今回は短いですがひとつひとつ紹介していくかたちにしました.記事を書いていて,最後にポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」というタイトルの絵画のことを思いました.いつもよりも長くなっていますが,読んでください.そして,展示を見に行ってください.



「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(2):見えているからこそ,よりわからない

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「エキソニモの『猿へ』」2回目.「2005」の謎を解明しに行くためにというか,ひっかかりを探しに.あと「2005」セクションでの《断末魔ウス》のあり方を考えてみた.


「2005」セクションにあった《Object-B VS》(2006)[参考:WORLD B / 意識を裏返し、B面をPLAYせよ]を結構長いあいだやった.銃を撃ちまくって,相手となる(?)転がっているヒトも何度も撃った.撃ちまくっているとスクリーンの向こうにある「オブジェクト」が動きだす.唸りだす.ずっとやっていくなかで感じる気持よさと,銃を撃っていることとオブジェクトの唸りが重なり「あちらの世界」との関係を感じたりする.なんとなく感じる「あちらの世界」.ヒトではないものが存在するあちらの世界.そんなあちらに向かって銃を撃ち続ける.実際の銃は撃ったことはないけれども,ここではあちらに向かって銃を撃ち続けている.と言っても,銃からでてくるのは「弾丸」ではなく,様々なオブジェクトであって,これはこちらの世界では絶対に体験できない.

その後,《DEF-RAG》(2008)を見続けた.時間操作されたスクリーン.連続して流れる時間から切り離されたコンピュータの時間とそれを映し出す映像.この時間の「切り離し」を強調する時計と時間のズレなど関係なく存在していうような全く動かない自動車の衝突試験用のダミー人形.そして,映像にはかつていた自分が映しだされている.これは「メディアアート」と呼ばれるものにはよくある作品である.では,エキソニモの独自性はどこにあるのか.それは「見せている」ことなのかなと思った.スクリーンの映像をつくりだすコンピュータ,そこから伸びるケーブルの類がすべて隠されていない.コンピュータの基盤までは見えないけれど,ケーブルが見えるだけでも,ここから映像がつくりだされるということが分かるし,電源ケーブルで電気の流れも可視化される.作品を作り出している部分が露わになっており,映像に写り込んでいる.時計の裏を覗くと,時計を動かしている機構も見える.「あちらの世界」をつくりだすものがすべて「こちらの世界」にあることを示す.ケーブルで結ぶばれたかたちで「こちらの世界」にある様々な機械が「あちらの世界」をつくりだす.そして,ダミー人形は全く動かないことで「こちら」と「あちら」の双方の世界に「同時」に,あるいは「…

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた

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「エキソニモの『猿へ』」を見てきた.考えるべきところはたくさんあって,ひとつひとつ潰していくと次の「風景」が見えてくる感じがする.

最初の狭い通路.期待感を持たせるし,「ナローバンド」という言葉とも結びつけられる.狭く長いからこそ「ネット」のオリジナリティが今よりもあったのかもしれない.狭い通路の先で回り続ける「地球」はネットがよりネットだったときの象徴としてあるのかもしれない.そして,そこで語られるエキソニモのステートメント.インターネットを手に入れた人類とその急激な進化は,ネットそのものの変化でもあった.



ステートメントの先には「1999」という文字が床にある.今から14年前の風景.次のセクションは「2005」で,その次が「2009」.「1999−2005」のあいだで,ネットは一般化していってひとつの風景になった.このセクションにはみんながつくったRGBのきらめきがプロジェクションされ,ネット上の構造=意味が剥奪された画像が飛びかっている.このあたりはとても「今」を感じさせる.それは集合知やその反対といってはあれだけれどもタガが外れてしまった「集合愚」にもなりうるような麻薬のような効果をもった「インターネット」を感じさせるという意味での「今」.



そして,Googleの検索窓がひとつの風景だった時代を示す絵画の展示.ブラウザのアドレスバーが検索窓になってしまった現在では,Googleの検索窓の風景は誰もがよく見る風景ではなくなっているとともに,絵画に描かれた「Internet Explorerの窓枠を含めた風景」そのものも,ブラウザのアップデートとGoogleのデザイン変更によってなくなってしまった.なので,この絵画に描かれた誰もが同じデザインを見ていた時代が懐かしい.風景は消滅したが,それを「撮影」したスクリーンキャプチャーの画像は存在し,その画像が中国に送られ人力APIとしての絵師によって「絵画」に変換され展示されている.だがこの絵画は「レプリカ」である.この作品でオリジナルとされる絵画はGoogleに所蔵され,一般の人は余程のことがない限り見ることができない状態にある.しかし,もともとが誰もが見る風景の「スクリーンショット」であり,それを「絵画」にするということでは,オリジナルもレプリカもないのではないだろうか.もともとインターネットを介してディスプレイに…

グリッチの表と裏:「幸村真佐男 glitch」展を見て

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名古屋のギャラリーノイボイで開催された「幸村真佐男 glitch」展を見てきた.ギャラリーの壁面に大きくプリントされたグリッチの画像が展示されていた.そのなかで特にガラス面に展示された作品が興味深かった.ガラス面のほうにグリッチ面=印刷された面を向けているので,展示室内からみると印刷面の裏を見ることになる.単に印刷の裏面なんだけれども,グリッチの「裏」を見ている感じがして面白かった.「グリッチの裏」ってなんだろうという疑問自体が面白い.

ヌケメさんのグリッチ刺繍の裏側とかも面白いかもしれない.見たことはなけれども,表はグリッチで,裏もグリッチぽい感じでも1本の糸がつながっている感じではないだろうか.

幸村さんのは画像をプリントしたものだから,表と裏とではズレがないというか,表の画像が裏に透けているだけなのだけれど,裏から見たグリッチは異質な感じがした.

作品を見ていて,幸村さんが「デジタル写真はCGだ」と言っていたことを思い出した.今回のグリッチの展示はその「CGさ」が際立っていた.データの不具合が表出されたことによって,データを具現化していく演算との関係が見えてくる.不具合を起こすことでそこに「演算」が見えてくる.グリッチの裏側を見ることは「演算」の裏を見るということには直に結びつきはしないけれど,表が「演算」を強く意識させればさせるほど,裏の意味を考えてしまう.


印刷されたものの表と裏.データの印刷の表と裏.グリッチの印刷の表と裏.データの表と裏.グリッチの表と裏.表があったら裏があるのか? 表もなければ裏もない.そんな世界もあるのではないか?

メモ:コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない

「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきたのではないだろうか?」というようなことを三輪さんとのトークで言った.行為の複雑化と思考との関係.思考をコンピュータに担ってもらう,演算部分だけでもやってもらうとしたら,身体は複雑な行為をしなくてもいいのではないだろうか.複雑な行為をすることがヒトのヒトらしさではないことに,コンピュータは気づかせてくれたのではないだろうか.

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』を読む.タイトルと「中途半端さ」の哲学というところに惹かれた.

タイトルの言葉からヒトとコンピュータとの関係を考えた.

コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない.動きすぎるとコンピュータになってしまう.いや,コンピュータのような論理演算を身体にインストールされる/してしまう.そうしたら,もうヒトではない.ヒトがヒトでありつつも,コンピュータをうまく組み入れていくためには,ヒトは動きすぎてはいけない.マウスで操作するくらいが丁度いいのかもしれない.ジェスチャーは動きすぎているのかもしれない.それは一見ヒトの自由をコンピュータに組み込んでいるようであるが,それはコンピュータがヒトの自由を利用しているにすぎないのかもしれない.

「考え」というか「演算」はコンピュータにやってもらおう.それでいい.思考の外在化を押し進める.そのためには身体を動かしすぎてはいけない.演算を完璧に組み込まれた身体はマシーンとなる.それではいけない(ような気がする).「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきた」と考えるならば,コンピュータを手に入れて演算を引き受けてもらうことで,ヒトは複雑な行為を行わなくてよくなるはずである.より単純な行為を行うなかで,単純だからといって動きすぎてはいけない.単純でいて,動きすぎない行為をしていく身体をコンピュータによる演算の外在化とともに考えていく必要がある.

三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(4)と告知_身体とオリジナル/リミックス

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三輪さんとのトークが近づいてきた.「コンピュータがもたらした世界」というタイトルのもと考えをまとめようとしているのだが,どううまくまとまらない.身体とコンピュータ,身体と演算,身体とテクノロジー.音楽とオリジナル,アルゴリズムとオリジナル,三輪作品におけるオリジナル.音楽だからリミックスといったほうがいいのかもしれない.三輪さんがリミックスされる可能性.あるいは,ブラッド・トルメルが言う起源・オリジナルを失うことを良しとするプログレッシブ・バージョニングが三輪作品に適用される可能性.

身体
三輪さんの作品における身体は極めてシンプルな行為を行っている.コンピュータが登場するまで身体は複雑な動きを行うように訓練されてきた.しかし,コンピュータとともにある身体は,ボタンを押すというシンプルな行為のみを要請される.その要請はカメラが出てきた時から行われてきた.ヒトがボタンを押し,コンピュータが演算する.この「最小の行為と組み合わされた演算」によって複雑な情報がつくられる.普段,コンピュータを使っているときは「演算」はヒトの外部にあるコンピュータに委託されている.けれど,三輪作品ではヒトが「演算」を行わなければならない.行為自体はシンプルかもしれないが,そこで同時に演算が行われている.しかし,それは外から見たときには,その行為が演算でその都度決定されているものなのか,あるシーケンスが予め決まってそれに沿って行われているのかが,わからない.三輪さんの作品の意図を知っている人は演奏を「演算」の結果として聴くだろうが,そうでない人はどうだろうか.さらに,演奏者が熟練者であり,演奏がスムーズに移行していけばいくほど,三輪さんの作品意図を知っていても,そこに「演算」を聴くことは少なくなっていくのではないだろうか.アルゴリズムによって規定された行為を自ら演算して次々に行っていく身体は,その行為自体はシンプルかもしれないが,これまでの演算なしで行為していた身体とは別のものに変化している.しかし,ヒトは演算とともにある世界で生活をしていながら,演算をコンピュータという外部に委託しているので,多くのヒトには演算そのものを看取する能力がまだほどんどないと考えられる.

オリジナル/リミックス
三輪作品のリミックスというのはどういうものになるのであろうか.アルゴリズムが決まっていて,それは論理という…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_16

記事を書きました→デジタルアートのオークションPaddles On!が開催中

この記事に入れると長くなりそうだったので入れなかったのが「インターネットヤミ市」と「Paddles On!」との対比.この対比からは英語圏と日本におけるアートをめぐるインターネット・リアリティのちがいが見えてくるのではなないかと考えています.インターネットヤミ市についてはつい先日,ドキュメンタリー映像がYouTubeにアップされています.


[ヤミ市や開催団体であるIDPWについての雰囲気を伝えるギズモードの記事→
「インターネットヤミ市」や「どうでもいいねボタン」を生んだ秘密結社IDPWドキュメンタリーフィルム公開(動画)
デジタルアートやネットアートを扱ったオークション「Paddles On!」に関する記事を読んでいくと,ネットアートという「変わり者」が現代美術界というビックリーグへ参入しだしたという流れがあります.アーティストであり批評家としても鋭いテキストを書いているブラッド・トルメルはTumblrなどで活動しているアーティストの集団を「マイナーリーグ」と呼んでいました.彼ら・彼女らが「アートワールド」の一軍に昇格できるかどうかの試金石が今回のオークションになりそうです.
対して,日本ではインターネットの初期から活動しているエキソニモも参加しているIDPWが,ネットに関する面白いものをアンダーグラウンドに集めて「インターネットヤミ市」を開催しました.そこにはインターネットはアンダーグラウンドな場所で自由だったけれども,近頃,その自由がなくなってきているよねという意識があって,だったら,さらなるアンダーグラウンドとして「現実の地下」的な場所に行こうという流れがあります.
英語圏には「アートワールド」がしっかりと存在しているので,ネットアートの人たちはそこにどう入り込むか,あるいは逆にアートワールドも虎視眈々と「次の」作家を探しているので,今回のように双方の思惑が一致することもあるわけです.そのなかで「データ」といういくらでもコピーできるものにどのような価値づけができるのか,ということをアーティストとオークション会社がそれぞれの立場で挑もうとしていると思われます.今回のオークションにおいては,あとはコレクターがどのような判断を下すのかという状況にあります.
でも,日本には「アートワールド」という…

三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(3)_ヒトとコンピュータとの共進化

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三輪さんとのトークとのために自分の立ち位置を確認する必要があるのではないかと思いつつ,なかなかできないでいるのでとりあえずのメモを書く.

インターフェイス研究で知ったエンゲルバートのヒトとコンピュータとの「共進化」というのが,僕の基本的的スタンスを決定している.コンピュータという「種」が出てきたことによって,人間が「ヒト」という生物種として進化する可能性がでてきた.もちろんコンピュータがなくても進化するものだけれど,「知的」というか「論理」を扱うもうひとつの種が出てきたことで,それまで唯一の種であったヒトにこれまでとは異なる進化の可能性がでてきたということ.

ヒトがコンピュータをつくったと考えるのが普通だが,コンピュータがヒトに自らをつくり出させたと考えても面白いのではないかと思う.現時点ではヒトがコンピュータをつくったということになっているけれども,1000年後には立場が逆になっているのかもしれない.コンピュータがつくられるためにヒトが存在したというふうに.

生物種の「ヒト」ということになると,今朝,エキソニモのセンボーさんが「理解できないほど複雑すぎるものは生物と呼んでいい」という感じのツイートしていて,なるほどと思った.コンピュータが複雑になればなるほどそれは「生物」と見なされる.生物種となったヒトとコンピュータとは共進化していく.インターネットも生態系と呼ばれているから,ここにも生物が生まれている.

昔、EXONEMONSTERとかAnimal Festivalとか作品とかバンドやってた時に考えてたのが、とにかく理解できないくらいに複雑にしていくと、それはもはや生物と同じことなんじゃないかということで。生物と非生物を分けるのは、理解できるか出来ないか、みたいな
— センボー (@1000b) October 5, 2013 ICCでEXONEMONSTERを見せてた時に、初めて鈴木健さんと会って、打ち上げでそういう話をして盛り上がった記憶がある。理解できないくらい複雑だったらそれは生物と呼んでもいいって切り口はちょっと面白い。初音ミクとかも、もはや全体像が把握出来なくらい複雑で、それが生物
— センボー (@1000b) October 5, 2013
トークのタイトルにもなっている「コンピュータがもたらした世界」とは,ヒトが生物種として改めて進化していく…