ホンマタカシさんと平倉圭さんの狂気

「ホンマタカシ ニュードキュメンタリー」を見てきた.もともとホンマさんの写真が好きだったこともあるし,講義で東京に来ているので,ついでにということもあったけれど,一番は,平倉圭さんのこの展覧会のレヴューを読んでとても刺激を受けたからです.

見た感想.ここには「ホンマタカシB」もいなければ,「5層のレイヤー」も見つけられなかった.それは僕の頭の中でということですが.それらを見つけて,テキストに書く平倉さんの力はすごいなと改めて思った,それらの語句だけが頭の中で繰り返さえられるだけで,それを実感として感じ取れなかった自分の不甲斐なさに絶望した.

「5層のレイヤー」は理解はできるし,分析もできるのだけれど,それが「目眩い」とともに出てくるような感覚はなかった.あるいはこのレイヤーで「等質化」された目眩いであるから,それでいいのかもしれないが,「等質化」という言葉が示していることも体験できずにいたと思う.しかし,平倉さんの言葉が的を得ているという考えはゆるがなかった.この理解と感覚のズレはどこからくるのか.

なんか,写真というメディアがもつ「すべて」という感覚,この考え自体間違っているのだが,写真は「すべて」を写しとるということが自分の頭の中にあって,この「すべて」ということが,写真を感じることを邪魔しているように思われた.「すべて」はいらない「一部」でいいというのが,今の僕の感覚なのだと改めて思った.身体全体ではなく,手の一部を,さらに「↑」にしてしまうことに,ある種のリアルさを感じている僕としては,写真はなんか「すべて」すぎたのです.

「5層のレイヤー」も「すべて」が「すべて」すぎて,べったりとひとつになっている感じ.それを引き剥がして,そこから5つの層を抽出した平倉さんはすごいなと思いつつ,ホンマタカシさんの作品に,写真がもつ「すべて」という性質ゆえに,まったく寄り添えない自分がいたことに気付かされた.ホンマさんは「すべて」を引き受けてから,それを分析して,操作する.平倉さんがその操作を見つけ出し,「すべて」から「層」をひとつひとつ引き剥がす.「すべて」を引き受けるということが狂気ならば,そこに「ホンマタカシB」はいたのかもしれない,と観終わって,文章を書き始めて,やっと思う.その「すべて」を見て,そこからリバース・エンジニアリングのように「層」を剥がして,層を剥がし切ったところで,またそれをもとにもどすことで「ホンマタカシB」を出現させた,平倉さんにも狂気を感じる.

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