モノの「柔らかさ」に貼りついた映像



ディスプレイに関して,「薄さ」「軽さ」はよく聞くけれど,「柔らかさ」はあたらしい感覚だと考えられる.未来のコンピュータを考えるときによく出てくる「丸められる紙のような」ディスプレイを実現するには,「柔らかさ」が必要である.しかし,私たちはまだ「柔らかい」ディスプレイというものに慣れていないのではないか.たとえば,プロジェクターから映像が投影されるスクリーン.これは柔らかいので,丸めることができる.しかし,丸めると,当たり前だが,映像はスクリーンの表面からなくなってしまう.フレキシブル有機ELでは,丸めても映像はしっかりと映っているはずである.見えなくなっても,ディスプレイの表面にしっかりと存在し続ける映像.ディスプレイがどのような形になろうとも,それに適応してディスプレイに留まり続ける映像.

プロジェクターからスクリーンの投影された映像は,自らの存在のためにスクリーンの表面を一時のあいだだけ借りているだけである.映像がスクリーンの表面を借りているのだが,映像が映っているあいだ,スクリーンは柔らかさを失い,硬直する.プロジェクションではない映像に関しては,ディスプレイの硬さが映像を成立させてきた.いや,映像は自らが成立するために,モノが持つ「硬さ」を利用して,「垂直」「水平」「直線」を生み出し,そこに貼りついてきたともいえる.

しかし,フレキシブル有機ELは「柔軟」である.映像がモノの表面にまさに貼りついている.ここでは,ディスプレイというモノと映像とが一体化している.モノの「柔らかさ」に貼りついた映像と言えるかもしれない.今まで映像に硬直させられてきたモノが自らの存在を「柔らかさ」でアピールしている.「薄さ」「軽さ」とモノは存在を消去する方向で映像を支えてきたのだが,フレキシブル有機ELは「柔らかさ」を示すことで,モノは映像の支持体でありながら,その存在を前面に押し出すことが可能になったといえる.
--
(メモ)
私たちは,まだモノとしての映像にはまだ慣れていない.写真がそれに近いかもしれない.親しい人の写真をくしゃとしたり,破いたりしたときに,私たちは単にモノのしての紙を破いているにも関わらず,奇妙な感覚を覚える.写真は静止画である,それが動画だったらどうだろう.くしゃくしゃにされたり,破かれたフレキシブル有機ELのディスプレイで,延々と人が微笑み続けたりする.これは,写真よりも奇妙な感じを与えるのではないだろうか.

このブログの人気の投稿

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

美術手帖(2017年9月号)にHouxo Que個展「S H I N E」のレビューを寄稿

新視覚芸術研究会第4回シンポジウム「デジタル時代の次元の折り重なり」の個人的振り返り

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(1)

「テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶」の進捗状況&シンポジウム再告知

デジタル時代の物質性 あるいは 単にPhotoshopのブラシ あるいは 単にブラシ

授業ノート:ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

能動と受動の間,具象と抽象の間にある←,カーソル

小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトーク:本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか