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コントローラの問題 for touch-touch-touch

「コントローラに関するメモ」を書くきっかけになった講義のためのスライドのブログヴァージョン.コントローラの問題 for touch-touch-touch
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ゲームのコントローラに関するメモ

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薄型のゲーム&ウオッチにジョイスティックを納めて,なおかつ確実に押している方向がわかるということから考案したんです. 橫井軍平ゲーム館:ゲームボーイを生んだ発想力,橫井軍平・牧野武文講義の準備をするために読んだ本からの引用.近頃考えている「薄い」という言葉がでてきている.考えてみれば,ファミコンのコンピュータは薄かった.それに十字ボタンが貢献していることを知る.ファミコンの二次元の世界には,「十字ボタン」というジョイスティックを平面化したデバイスが 有効であった.ディスプレイ上の世界が二次元なら,それを操作するコントローラも平面的な「薄い」ものであった.二次元と平面/薄さの対応関係.

家庭用ゲームに「奥行き」が出現し始めたとき,その空間を操作するインターフェイスも「3D化」が迫られた.ニンテンドウ64の3Dスティックは形としてはジョイスティックを小さくしたものだが,それをコントローラの中央に大きく据えたことで,左右どちらかの「親指で操作」することを可能にしたのだ.「テレビゲームのインターフェイス」,桝山寛 in BIT GENERATION 2000ゲームの世界が立体化していくと,コントローラも厚みを帯びて立体化していく.このコントローラは,ファミコンのように「平面的/薄い」ものではなく,立体的なオブジェである.握りやすさを考慮したひとつのオブジェ.オブジェは言い過ぎかもしれないが,少なくても平面的なものではなくなっている.

NINTENDO64の1年半前に発売された,3Dグラフィックスの描画を特長としたプレイステーションのコントローラには「3Dスティック」はついていないが,これももはや「平面的」ではない.

スーパーファミコンのコントローラは,真上からみれば「平面的」であるが,上面にLRボタンがついたために『立体化』の兆しが見える.

コントローラを「平面/立体」で考えてみると何か見えてくるだろうか.アタリ 2600 のジョイスティックも考えると,ファミコンのコントローラが示す「平面性」は家庭用ゲームのコントローラでは異質なものかもしれない.

「接触|感知|表示」という3層構造

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iPhone4などに使われているこの3層構造で何か考えることができないかと思っている.3層構造がマルチタッチを実現していることには,何かしらの意味があるのではないか.フロイトのマジックメモも3層構造なので,何か考えるヒントがここにはあるような気がしている. iPhoneは大きなマルチタッチディスプレイと革新的なソフトウェアを搭載しているので,指先だけですべてをコントロールできます.その仕組みをちょっとだけご紹介しましょう.まず,ガラスに貼付けられたパネルが,電界を利用して指先の接触を感知します.さらに複数の指による接触を識別し,ピンチして拡大,2本指でタップなどの高度なジェスチャーも読みとります.このパネルで収集した情報が,その下にあるRetinaディスプレイに伝達され,思いのままの操作をできるようにするのです.http://www.apple.com/jp/iphone/design/保護層としての「ガラス」,接触層としての「電解を利用して指先の接触を感知する」パネル,その下にある表示層としての「Retinaディスプレイ」. パネルを「接触層」としてみたけれど,実際に指と接触しているのは「ガラス」である.しかし,指の接触を感知する層として機能している.接触層としての「ガラス」,感知層としての「パネル」となるのだろうか.「接触|感知|表示」という3層構造が,マルチタッチを可能にしている.これが,ディスプレイ上のイメージに「直接」触れているという感覚をつくり出している.

仕組みを説明する図では,感知層が盛り上がったりように表示されていることから,「層」というよりももっと柔軟な感じがする「膜」といったほうがいいのかもしれない.そして,図では3つがそれぞれ離れているが,実際は密着している.3つの層が密着して一枚の薄い膜として機能することで「直接」という感覚をつくり出しているのであろうか? 

何がマジックで,何がマジックではないのか?

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アップルTVが出る前に妄想されたアップルTVのリモコン(この記事を翻訳された藤シローさんのページ→MACLALALA2).

このリモコンに対してのコメントで興味深いのが以下のもの. たしかにおもしろいアイデアだ.でもどうかな.iPhone/iPad のユーザーインターフェイスのマジックは,平らな表面に指をのせて,タップ・スライド・ドラッグすることではない.直接に操作すること,スクリーン上の目に見える対象物に実際に触れるという点がマジックなのだ.抽象的なレイヤーは剥がれ落ちてないのだ.だからこそマックで使う Magic Trackpad は iOS デバイスのような感じがしないのだ.こんなリモコンがあったら… 私たちがiPhone/iPodで行っているのは,指をスクリーンの上で滑らせることで,見えているイメージを「直接」触れることであるという指摘.確かに,Magic Trackpadを使っているときの感覚とiPhoneを使っているときの感覚はかなり違う.行っている手の行為はほぼ一緒なのにもかかわらず,視覚との関係で与えられる感覚が異なったものになるのは面白い.

イメージと手とが一緒に見えているiPhoneは,イメージに「直接触れている」として,マジックと言わる.対して,イメージと手とが離れているために,手を見ることなくイメージを操作するMagic Trackpadは,イメージに「直接触れている」感覚を与えないためにマジックとは呼ばれない.Magicという言葉を使うならば,バラバラの場所のものが対応して動くMagic Trackpadの方が,マジックのような気がするが,ここで「直接触れている」という,ヒトが古来から行ってきたことのほうがマジックと呼ばれている.だが,ここで商品名に注目するならば,「マジック」・トラックパッドである.

ヒトとコンピュータとのあいだでおこるインタラクションでは「何がマジックで,何がマッジクではないのか?」.もちろん本当に意味では,すべてがマジックではない.個人の感覚によるところが大きい問題ではあるが,ヒトとコンピュータとのあいだに生じる「マジック」とは何かは考えてみると面白かも知れない.

限りなく薄く柔らかい膜

清水穣氏がリヒターの「ゼロ面」と呼ぶものと,フレキシブル有機ELによって「柔らかさ」を与えられたディスプレイは何となく似たものがあるようなと考えている.

映像の物質化と物質の映像化のあいだに生じる「ゼロ面」.「柔らかさ」を与えられたディスプレイは,文字通りに映像の物質化を可能にする支持体かもしれない.と同時に,物質の表面を映像がぴったり覆うことで物質が映像化する.「あいだ」なのだが,ゼロ面はどちらでもないことから生じるのに対して,「柔らかさ」を与えられたディスプレイは,どちらでもあることを生じさせる.ゼロ面はもともと存在を認めることができないで,どちらでもないことから,あとからその存在が認められる.対して,ディスプレイはもともとその存在が認められる.そこから,「柔らかさ」が認められて,映像の物質化と物質の映像化のどちらもが生じることになる.

あと気になるのは,ゼロ面が「限りなく薄い膜」のようなものであること.ここには「柔らかい」という形容詞はない.もしかしたら,「膜」という語が「柔らかさ」をほのめかしているのかもしれないが,「柔らかさ」と明示して考える事で,新しい何かが見えてくるかもしれない.「限りなく薄く柔らかい膜」と,それを現実にモノにするフレキシブル有機ELディスプレイとのあいだを考えてみること.

モノの「柔らかさ」に貼りついた映像

ディスプレイに関して,「薄さ」「軽さ」はよく聞くけれど,「柔らかさ」はあたらしい感覚だと考えられる.未来のコンピュータを考えるときによく出てくる「丸められる紙のような」ディスプレイを実現するには,「柔らかさ」が必要である.しかし,私たちはまだ「柔らかい」ディスプレイというものに慣れていないのではないか.たとえば,プロジェクターから映像が投影されるスクリーン.これは柔らかいので,丸めることができる.しかし,丸めると,当たり前だが,映像はスクリーンの表面からなくなってしまう.フレキシブル有機ELでは,丸めても映像はしっかりと映っているはずである.見えなくなっても,ディスプレイの表面にしっかりと存在し続ける映像.ディスプレイがどのような形になろうとも,それに適応してディスプレイに留まり続ける映像.

プロジェクターからスクリーンの投影された映像は,自らの存在のためにスクリーンの表面を一時のあいだだけ借りているだけである.映像がスクリーンの表面を借りているのだが,映像が映っているあいだ,スクリーンは柔らかさを失い,硬直する.プロジェクションではない映像に関しては,ディスプレイの硬さが映像を成立させてきた.いや,映像は自らが成立するために,モノが持つ「硬さ」を利用して,「垂直」「水平」「直線」を生み出し,そこに貼りついてきたともいえる.

しかし,フレキシブル有機ELは「柔軟」である.映像がモノの表面にまさに貼りついている.ここでは,ディスプレイというモノと映像とが一体化している.モノの「柔らかさ」に貼りついた映像と言えるかもしれない.今まで映像に硬直させられてきたモノが自らの存在を「柔らかさ」でアピールしている.「薄さ」「軽さ」とモノは存在を消去する方向で映像を支えてきたのだが,フレキシブル有機ELは「柔らかさ」を示すことで,モノは映像の支持体でありながら,その存在を前面に押し出すことが可能になったといえる.
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(メモ)
私たちは,まだモノとしての映像にはまだ慣れていない.写真がそれに近いかもしれない.親しい人の写真をくしゃとしたり,破いたりしたときに,私たちは単にモノのしての紙を破いているにも関わらず,奇妙な感覚を覚える.写真は静止画である,それが動画だったらどうだろう.くしゃくしゃにされたり,破かれたフレキシブル有機ELのディスプレイで,延々と人が微笑み続けたりする…

「影|映像|薄さ」に関する朧げなメモ

ブログを,10月になって全く書けていないことに気がついた,というか確認した.ということ,歩きながら思った.

そのとき,フト,「影」について考えみようと思った.「影」と「薄さ」について,二次元と三次元との変換装置としての「影」というか,この場合,変換装置は「光」になるのかな.「影|光|薄さ」,三つの項目が揃ったのかもしれないが,これで何か考えられるのかというと,難しいかもしれない.「影|光/映像|薄さ」として考えて見たらどうであろうか.「影|映像|薄さ」で考えられること.

行為についても考えたいというか,「行為を二通りの仕方で記述すること」を考えたい.これを「影|映像|薄さ」との関連で考えてみること.映像という次元変換装置と,それによって捨象される「影」,及び,それによって付与される「薄さ」.そこで起こる「行為」,及び,行為の記述の二重化.

「次元間移行」に関するメモ

今行っている論文修正で出てきた言葉「次元間移行」.平面と立体とのあいだの「次元間移行」ということとから,出来事の「次元間移行」を考えるべきかもしれない.ディスプレイ行為は,出来事の「次元間移行」と関係しているのではないだろうか.出来事がディスプレイ上のイメージの次元とモノの次元とのあいだで,なめらかに移行するようになったから,新しい行為が発生した.

そして,今までは「次元間移行」の「移行」をカーソルが担ってきた.iPhone ではどうか.カーソルがない.「移行」が起こらない.本当に「移行」は起こっていないのか.本当に「移行」は起こってないような気がする.そこが今までのパソコンとは,全く異なる感じを与えるところなのではないか.「次元間移行」を感じさせないということ.現実と仮想と,モノとイメージとがひと続きになっていること.

「現実世界|カーソル|仮想世界」に関するメモ

現実世界とは,物理法則に則った世界の在り方を指している.仮想世界は,コンピュータで作られた世界の在り方を指している.この二項対立的な世界の捉え方は単純すぎるかもしれない.カーソルは,このふたつの世界の在り方に対する認識のモードを切り替え,移行させる存在として,私たちの認識の最前面に位置しているのである.カーソルが世界の在り方自体を変えることはない.だが,カーソルは世界の在り方を,人間の側での認識のモードで移行可能なものにしてしまうのである.
「現実世界|カーソル|仮想世界」に関するメモを非常勤先の大学に行くときに書いていて,そのメモと似ているというか,念頭に置いていたのが,下の文章.そして,下の文章を読んで,さらに書き直したのが上の文章.
繰り返されない変化に関わるモードを物語と呼び,繰り返される変化に関わるモードのことをゲーム,とここまで呼んできた.この二つのモードは世界のありよう自体に関わるものではない.世界のありよう自体についてではなく,世界のありようについての認識のモードなのである.それゆえに,ある状況がゲームでありうるか,物語でありうるのか,ということは容易にスイッチしうるのだ.(p.263) 井上明人「ゲームと物語のスイッチ」in PLANETS VOL.07

「平面|カーソル|薄さ」に関するメモ

「薄さ」を考えると,すぐに思い浮かぶのがマルセル・デュシャンの「アンフラマンス」.避けては通れないけれど,触れると火傷するような概念でもある.けれど,もしかしたら,アンフラマンスとテクノロジーという関係が成り立つのではないだろうかと思う.いや,アンフラマンスではない言葉,概念を見つけるというか,成立させることが求められている.コンピュータの世界と物理法則の世界との関係に回収されない概念を見つけること.このことを考えると,カーソルというのは,コンピュータの世界にも物理法則の世界にも回収されないひとつの概念ではないだろうか,と考えたくなる.どちらの世界にも属し,どちらの世界にも属さないあいまいな存在・概念としてのカーソル.カーソルが作り出しているディスプレイ上の薄い平面.カーソル自体が活動するために必要な「薄さ」.横から眺めることができない「薄さ」.横からも,斜めからも眺めることができないできない平面.それゆえに,そこの「薄さ」は確かめることができない.けれど,「薄さ」を感じてしまうような平面.ひとつの動く記号自体が,平面であること.平面の上に記号が乗っているのではなく,記号自体が平面であること.地も図もなく,それらがあいまいなっている平面.斜めからも,横からも,その存在を眺めることができないがゆえに,平面と認めざる得ない平面であり,それを構成する記号とその薄さ.ひとつの埃が動くことで,半透明な薄さを作り出すようなものであろうか.埃は積もることで,半透明な感覚を作り出す.カーソルは,それ単体で半透明な感覚を作り出す.埃という集合体のヴェールの薄さと,カーソルという単体の記号による薄さ.埃に指で触れると,埃がなくなる.埃がなくなった指のあとは,なんとなく落ち着かない.せっかくの埃のヴェールを壊してしまったという後ろめたい感覚.薄さを突き破ってしまったという感覚.カーソルは,薄さを作っているという感覚.カーソルを動かすことで,ひとつの薄さが生じる.薄い平面が,ひとつの平面の上に重ねられる.カーソルが動いた箇所に,埃の上で動かした指の跡のような居心地の悪さはない.いや,カーソルが風車になっているときの,何もできなさ感じの居心地の悪さはある.下の平面上にある記号にアクセスできなくなる,これもまた記号であり,平面を作り出すカーソル.自らが作った平面の薄さを突き破ることができなく…