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慣れた世界に関するメモ

コンピュータという論理機械を通して,物質を再構成して行く.もちろん,その物質は物理法則の中に置かれる.私たちは物理法則には慣れているが,コンピュータの論理世界には慣れていない.しかし,人間は何にでも直ぐに慣れる.私たちは,コンピュータが作り出した論理世界とその物理世界への介入に慣れてきている.慣れの具合に個人差があったとしても,あとは程度の問題である.

慣れた世界は,コンピュータの論理世界でも,物理法則に単に則った世界でもない.そこは,人間の世界である.人間の認識によって,モノの輪郭が与えられる世界.いくら天板が薄くても,テーブルはテーブルなのだ.プロジェクションされているとはいえ,トランプはトランプはなのだ.そして,テーブルはテーブルのモノとしての輪郭があり,トランプにはトランプの輪郭がある.それは論理で決まっているわけでもなく,物理法則で決まっているわけでもない.ただ,人間の認識において現れるのだ.この慣れ親しんだ世界に,コンピュータは介入する.モノを支配している物理法則を,コンピュータは巧みに操作することで,今までにはなかったようなモノの輪郭を作り出す.私たちは,この新たな輪郭と今まで慣れ親しんだ世界の輪郭との対比させて,新たな輪郭に新しい認識を与える.

キーボードにおける「薄さ/平面」という切断

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2007年に発表されたアップルのキーボードを見ていると,平面の上に平面を重ねている感じがしてくる.重ねられた平面がキー/ボタンなわけでだが,キー/ボタンという言葉から感じられるモノとして質感が,このキーボードから感じられない.平面の重なりという印象が強い.キー/ボタンがモノから平面になっている.そして,上の平面が引き剥がされてひとつの平面としてトラックパッドがでてきているような.この見方は,1984年からのキーボードを順々に見てきても思い浮かばない.2010年のトラックパッドから,2007年のキーボードを見たときに思い浮かんだ.2007年のキーボードと,それまでのキーボードのかたちとのあいだにには,「薄さ/平面」という切断がある気がする.

「薄さ/平面」以前のキーボードは,どこまでもキーボードであり続ける.「薄さ/平面」以後のキーボードは,平面の重なりを変えればキーボードにもなるし,トラックパッドになるというように,何にでもなることができると考えることはできないだろうか.

カフェで平面についていろいろと考えたメモ

カーソルがあるGUIとカーソルがないタッチにおける平面の差.これは単にインターフェイスの問題だけなのだろうか.

カーソルを動かし,スクロールバーを上下させて,平面を上下させる.スクロールバーを手で動かしている感じ.対象を掴むという感覚.対象は,平面から独立している.

タッチの場合は,対象が載っている平面自体を動かすという感覚.平面が動くから,その上に載っている対象も動くという感じ.平面の上に載っている対象は,対象として独立していない.載っている平面に結びつけられている.

平面に対する感覚の違いは,インターフェイスの問題だけにとどまるものであろうか.ここからアートやアニメの問題に広げて行けば,ひとつの平面論が構成できるのではないだろうか.

石上純也のとても薄い天板を持つ《テーブル》における,極限にまで薄い平面とそれを支える構造との関係.
藤幡正樹のインタラクティブではない作品《未成熟なシンボル》におけるプロジェクションが作り出す極限にまでに薄い映像世界とモノの厚さとの関係.
藤木淳の《無限回廊》における二次元と三次元とのあいだの関係.
パターンがはめ込まれたアニメにおける平面.(このパターンが二次元と三次元とのあいだにある次元を作り出していると指摘する論考があるらしいので読んでみる.)

これらは二次元と三次元とのあいだに漂う新しい平面の問題を提起しているような気がする.

カーソルをもつGUIの平面は,二次元でもなく三次元でもない新たな平面を作り出したと言われるが,タッチのインターフェイスは,とても二次元的な気がする.どこまでも二次元だけで成立している平面.これはこれで今までとは異なる仕方で,平面が構成されている気がする.

GUIが一般化して,それがタッチに変わろうとするときに,建築やアート,ゲーム,アニメの領域でそれぞれ新しい平面を示すような作品が生み出されていること.ここに共通する何かを見つけ出すことはできるであろうか.コンピュータによって可能になったGUIが示してた新たな平面.そして,その新たな平面を自ら更新するコンピュータ.

二次元と三次元とのあいだに漂う新たな次元を探る一方で,二次元であり続ける平面が生み出されてきていること.

石上純也「建築の新しい大きさ」から考えた「薄さ」の構築のメモ

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できるだけ薄く,軽やかに,広く,できるだけぼやかしてゆく.すべてが,量子の揺らぎのなかに,ゆっくりとひろがってゆくように.ぼんやりした概念,ぼんやりした機能,ぼんやりした領域,ぼんやりした集まり,ぼんやりした方向.あらわれつつあるあたらしい環境のなかに建築が溶け込んでゆき,同時に,建築があたらしい環境をかたちづくるようになる.

建築の新しい大きさ,石上純也




石上さんの建築はたわんでいる.ゆらゆらしている.ちょっと間違えると倒壊してしまう.でも,危ういバランスという印象はない.鋭くない.ぼんやりしている.

石上さんの建築はとても薄い.今の自分の興味から,この薄さに惹かれている.薄いから,ゆらゆらしているが,しっかりと立っている.《雲を積層する scale=1/1000》で,眼の前のゆらゆらとしたものが自立してることに気づいたときは,ちょっとした驚きがあった.

薄くてゆらゆらしている平面を支える構造.「支える」という感じではない,平面に構造が密着している.眼の前にあるのは確かに三次元の立体なんだけれど,ぺらぺらした二次元の平面のように感じられる.三次元でもあり,二次元でもあるような不思議な次元が広がっている.

たわんで,ゆらゆらしている立体でもあり,平面でもあるようなモノ.あるいは,単に「薄さ」.「薄さ」の構築.この展覧会に展示されている作品は,どのようにすれば「薄さ」が作られるのかを実験しているかのようにもみえた.物理的に薄いというよりも,薄さを生み出す「スケール」を作ること.

愛おしい指紋/カラフルな指紋

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佐藤雅彦さんがディレクションした「これも自分と認めざるをえない」展の書籍『属性』を買って読んだ.展覧会は既に体験していて,そのときの体験も前に書いた→「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ

『属性』とともに,美術手帖も佐藤さんの特集しているので,少しずつこの展覧会について考えられたらいいなと思っている.今回は《指紋の池》.と言っても,これはもう佐藤さんの文章がいいと思う.

この『指紋の池』という作品では,指紋認証のセンサーに指をつけると,自分の指紋が池に放流されて,まるで魚のように泳ぎだします.そして,一旦泳ぎだして他の人の指紋と群れ合うと,自分の指紋がどれか分からなくなります.これが普段の私たちの状態です.しかしもう一度センサーに触れると,その群れの中から一つの指紋が抜け出して,一目散に自分の方に近寄ってきます.その時,初めてあなたは自分の指紋に対してある愛おしさ,あるいは慈しみを感じるのです.自分の指紋にこのような感情を覚えるのは,これが人類において初めてのことです.この『指紋の池』は,自分が実際には同定できない自分の属性に対して,新しい慈しみを表象させる装置です.(p.10)
自分の指紋に対して「愛おしみ」「慈しみ」の感情を抱くこと.この作品を実際に体験すると,佐藤さんのこのテキストを読んでいるかどうかにかかわらず,きっとほとんどの人が,「愛おしみ」や「慈しみ」の感情を抱くと思う.テキストの作品の仕組みのところだけ読むと,センサーを使って人の行為に反応するだけの作品の思える.けれど,多くのメディアアートが示す無機質さとは異なる感情をこの作品は呼び起こす.それは,指紋が生まれ,旅立ち,再び戻ってくるときの動き,アニメーションの力によるものだと思う.

ディスプレイに映っている指紋の大きさであったり,そのちょっとした動き方が,とても細やかにデザインされている.このアニメーションの力と指紋認識センサーとが組み合わさることで,「新しい慈しみを表象させる装置」が生まれているのだと思う.アニメーションも古くからある装置であり,指紋認識センサーも最先端の技術ではない.でも,これらを組み合わせることで,「人類において初めてのこと」が起きてしまう.


「これも自分と認めざるをえない」展とは関係無いが,これもまた指紋を今までにない方向で意識させ…

二重肯定の世界のコピペ

もうひとつのブログに書いた文章.気になったのでこちらにもコピペ.
ディスプレイは見ているときには,単なる平面で,
触れてた時には,モノ,立体的になる.
でも,モノになっても,やはり平面なんだよな.
触れていても,見ているから.
触れてもいるし,見てもいる.
平面でもあり,モノである.
Aでもあり,Bでもあること.
二重記述の世界.しかも二重肯定の世界.

二重肯定の世界?
またまた無責任だけれど,自分的には面白い言葉.
どんどん世界が,二重肯定の世界になっていっている.
Aでもあり,(同時に)Bでもある.
同一性が前提とされない世界.
マルチモーダルな世界.
ちょっと違うか.
同時に複数の存在でありえる世界.
多が多であり続ける世界.
当たり前のようだけれど,なんかひっかかる. 平面が平面のまま,立体であること.または,その逆.ディスプレイの中の出来事.机の薄さ.アンフラマンス.次元のあいだの移行.半透明.あいまいさの境界.

コピペして,もう少し考えようとしたらけれど,こちらではあまり考えがまとまらない.まだ,そういう段階だということかもしれない.

再びの .review

.reviwe にアブストを書いてみた.http://dotreview.jp/abst/

iPhone と  Apple wireless keyboard の組み合わせで比較的長い文章を書いてみる実験.そこから見えてくるかもしれない,新しい平面の感覚の輪郭をなぞれればいいなという試み.

「側面」についてカフェで書いたメモ

側面が気になる.
横の「平面」.平面を支える側面.
同じ「面」なのに,側面と平面では扱いが違う.
平面をはだいたい,というかほぼ正面からみた面.
メインの面.でも,側面は横にあって,普段は目立たない.
でも,側面がなければ平面はなりたたない.
それが水平であっても,垂直であっても.
モノとしある時点で,平面には側面がある.
でも,コンピュータのなかには,側面がないような.
デスクトップメタファーには平面しかない.
側面がないのではないか.これが面白い点.
自分で勝手に面白がっているだけなのかもしれないが.
側面が薄いと,それは側面とは呼ばれなくなる.
面という意識がなくなるから.
側面がなくなって,単なる平面になる.
実際には極薄の側面があるのだけれど,
ヒトはその極薄の側面を無視する.

側面.デスクトップではカーソルを横から眺めたらどうだろうという疑問を思い浮かべる.こんなことを思うのヒトは少ないかもしれないが,確実にいるはずです.では,iPhone とかのディスプレイの中を横から眺めるということを思い浮かべるヒトはいるだろうか.少なくとも,これを書く今のいままで,そんなことを思ったことはなかった.iPhone のディスプレイの中には側面を想像させる,側面というか,横から眺める・覗くという発想を呼び起こすモノや出来事がないのかもしれない. カーソルが作る半透明な層みたいなものがないからかもしれない.平面は重なると側面を作る.

緑の風景

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すべてがグリーンに囲まれた世界がひとつあって,そこに様々な別の世界が当てはめられていく映像のほとんどがコンピュータを用いた合成で出来てることを知ってはいても,このクロマキーについての映像を見ると,とても不思議な気分になってくる.世界そのものが平面で構成されているという感覚.レイヤーの重なりというのものとも違う.ただ平面の組み合わせで出来ている.世界が平面になっているという感覚.重なりもない.
撮影している時は,緑の壁があってその先がないのに,編集・合成時に緑の壁に道路が現れる.壁の先があるようにみえる.でも,実際には道路の先がない.この映像で東洋人の人がタイムズスクウェアの中心にいる映像があるけれども,実際は緑の壁に取り囲まれているだけ.その先には何もない.
























緑の薄い壁が組み合わされて,世界が出来上がる.「薄い」といっても実際は薄くはないけれど,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.出来上がった映像に映し出されている,しっかりと厚みをもった世界と比べると,緑の壁は「薄い」.このような緑の壁は,コンピュータの中では「レイヤー」として扱われている,まさに厚さをもたない極薄の層なのであろう.しかし,現実には確かな厚みをもつ平面的なモノである.

緑の「薄い」壁が組み合わされて世界が出来上がる.「薄い」といっても実際には薄くはない.しかし,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.その「薄い」緑の壁を撮影して作り出されるのは,しっかりと「厚み」をもった世界である.映像という「平面」的なイメージの中で緑の「薄い」平面から「厚み」をもった立体の世界が生じる.[2010.11.14 書き直し]

クロマキーに関する映像を見ていると不思議な感じが残り続けるのだけれど,それが何なのかはまだはっきりとしない.少し書いてみても,まだはっきりとしていない.
この緑の風景は,コンピュータの中で起こっていることを,現実の世界に持ち込んだような風景なのかもしれない.

ドイツには行けなかったけれど……

ドイツでの「翻訳」をテーマにしたシンポジウムに応募したアブスト.ここに上がっているということはボツ.この大元の文章をここまで修正してくれた mzkawa さんに感謝.いっしょにドイツで発表したかった…….

これを頭の中で反芻しつつ,.review のアブストも別のテーマで書いてみようと思っている今日この頃.
ーー
藤幡正樹の作品における行為と出来事(仮)

日本を代表するメディアアーティストとして知られる藤幡正樹の作品は,多くの人がインタラクティブ、即ち人とメディアとの相互作用性/対話性に特徴があると思っている.しかし,藤幡は「インタラクティブ」という概念自体に疑問を投げかけている.最近の藤幡の作品は,インタラクティブなものではなく,ループするアニメーション作品であったりする.しかし,アニメーション作品であっても,そこにはインタラクションがあると,藤幡は考えている.本発表は,藤幡作品におけるインタラクションを,行為と出来事という観点から考察するものである.ここでは、ドナルド・デイヴィドソンに代表される分析哲学の言語観に依拠し, 人間とメディアとの間で生じる一種の「コミュニケーション」の問題としてインタラクションを捉える.そして,人間とメディアという非対称な関係において生じるコミュニケーション成立の可能性の要件――言語一般で言うところの「翻訳」の問題――について考えることになるであろう.

薄さの閾値

2014年の日常を描いた動画.主役は,タッチ型インターフェイス. デバイスが薄い.もうディスプレイしかない.この薄さがとても気になる.ちょっとしたことで,壊れてしまうような薄さである.動画の最初,目覚ましがなっているところがあるのだけれど,昔ながらのベルの目覚まし時計のモノとしての存在感と,その手前に置かれた薄いデバイスとの対比が面白い.
デバイスの操作は,iPhone から変わっていないみたい.ディスプレイに手を伸ばす.歯を磨きながら,鏡に映し出された映像を操作するところは大袈裟にも見えるけれど,みんなやりだすのであろうか.鏡,机の上とありあらゆる平面に情報が映し出される.
オフィスで使われているディスプレイは半透明で,向こう側が見えるようになっている.これは,おそらくディスプレイの透明度を自由に変えられるようになっているのであろう.
この映像を見ていると,私たちがこれほどまでに「平面」を意識することがあっただろうかというくらい,薄い平面が生活に溢れている.鏡は今もある,でもそこに情報が投影されることで,透明な鏡の上に薄い膜がかかっているようで,鏡が平面であることを意識してしまう.壊れないように手でもっているデバイスは厚みを感じさせない.持つことできる薄い平面.机の上のディスプレイも平面である.しかも,半透明でその存在感は限りなく薄い.しかし,これらの平面は確かに薄いけれど,それは持つことが,あるいは操作することができる「厚み」をもっている. 
まだよくわからない.iPhone や iPad で行っていることの延長なのか.それとも,これらのデバイスが薄さの閾値を超えたときに,全く異なる体験が生まれるのか.デバイスが「薄く」なっていって,そこに映し出されているイメージ,情報があたかもそれだけで存在しているような感じなっているのか.でも,それは夜にiPhoneをいじっているときにも感じる.しかし,そこには確かにモノとしての厚みを感じてもいる.モノとしての「厚み」はどこまで感じるのであろうか.モノをモノとして感じないで,単なる平面,あるいはカードと感じてしまう閾値はどこにあるのか.カードもモノであると言えばそうであるが,モノをたんなる平面だと感じてしまう薄さの閾値はどこになるのか.
もしかしたら,これらかのインターフェイスはモノと平面(イメージ)とのあいだを自由に行き来できる「薄…

「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない

インタラクションデザインは人間と論理的世界のせめぎ合い、それが与える経験、便利とか役に立つという日常からより精神的な世界へ。論理的な健全性を持ちながら、生身の身体とインタラクションをして精神性を与える。美学と倫理と論理の世界だ。カント的宇宙を超えて、この3者の融合は可能なのか? http://twitter.com/NaohitoOkude/status/22943134116 慶應大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)の奥出直人さんのツイート.インタラクションデザインがすべてを総合する学になるという宣言.私はこのツイートを読んだとき,そう思った.
私はヒトの身体がどのようにコンピュータが作り出す論理的世界に入り込んできたのかをGUIで考えてきた.そこでは「メタファー」が大きな役割を果たしていると,自分では結論づけた(→メタファーと身体との関係).ヒトはコンピュータと共同でひとつの世界を作り出した.そのときに必要であったのは,コンピュータ科学だけではなく,ヒトがこれまで世界に対処してきた言語,身体から生まれた能力であった.
今まで,そのひとつの世界の生成は,ディスプレイの表面だけの出来事であった.ディスプレイ上だけでも「ひとつの世界」を作ることは,とても大きな意義があったけれど,それが画面を飛びだしてきた.KMDはヒトとコンピュータとが作り出す新しい「ひとつの世界」を作り出そうとしている.大きなヴィジョンである.

しかし,私は「ディスプレイ」に留まりたい.インタラクションが起こる表面に留まりたい.タッチ型インターフェイスになった「メタファー」が画面から消えたと言われる.多くのメタファーが陳腐化して,死喩となっていくように,「デスクトップ」からはじまったヒトとコンピュータとを結びつける「メタファー」はなくなっていっているのかもしれない.「メタファー」がなくなることは何を意味するのか.と同時に,コンピュータの論理的世界がディスプレイの外にも飛び出してきていること.「メタファー」がなくなっても,「ひとつの世界」がディスプレイを飛びだしても,それでもディスプレイ,インタラクションの表面は残る.「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない.インタラクションデザインは,もっと立体的な出来事なのかもしれない.

これまでも,そしてこれからもディスプレイの表面で,コンピュータ…