「カーソルとは何なのであろうか」についてのメモ

吉岡洋はペンと比較して,カーソルのことを次の様に書いている.
書くとき,眼は動くペンの先を注視する.それに対して,パソコンに向かって仕事をする時,眼は表示装置の中のカーソルやポインタを見ている.車のアクセルに置かれた足が意識されないように,そこではマウスの上に置かれた現実の指先は意識されない.指先は電気信号となってケーブルを通り,コンソールの上の(矢印や指の形として示される)アイコンとして経験されるのである.(p.168)
スタイルと情報:メディア論を越えて,吉岡洋
このようにカーソルを自分の手だと感じている人たちは多い.自分の手のように扱えるから,手を普段意識しないように,カーソルも意識せずに扱える.長谷川踏太も「もうそこに自分の指先として存在しているので,気にしている人はあまりいないかもしれません」と指摘する.

GUIを視覚文化の中に位置づけて考察したボルターとグロラマは,マウスによってカーソルを2次元的に動かせることがCUIに慣れた人たちに驚きを与えたとしている.GUIではあたりまえのカーソルの自由な動きはCUIでは当たり前ではなかった.2次元的な動きの自由さは,カーソルを手の代理だとみなすために必要なことだといえる.カーソルを自由に動くからこそ,ユーザの多くはこの映像を自分の指だと感じるのだ.

須永剛司はカーソルを手の代理ではなく,「視線の代理の記号」だと考える.さらに須永はカーソルをことを次の様に書く.
それらは,スクリーン上にある「自己の存在・場所」に近似するものと言える.スクリーン内のカーソルやキャレットは,ユーザがもっているであろう関心の場所を表示している.英語のプロンプト prompt には,文字通り「人を促す」の意味がある.しかし,それはシステム側の期待するユーザの思考の「存在・場所」であり,その時のユーザ自身の関心場所とずれていることも多々ある.(p. 129)
インタラクションに関する考察.須永剛司
「視線の先」が「関心の場所」になるのだが,ここで注目したいのは,それがユーザのものであると同時に,システムの側のものでもあるということだ.カーソルをヒトの手や目の代理というだけではなく,コンピュータ側からユーザへの働きかけを行う記号でもあると考えることは重要である.

久保田晃弘はカーソルのことをマウスの「分身」と称している.そして,この「分身」がユーザに画面を見ることを要請していると考えている.ここで須永の考えから,この「分身」が私たちのものであると同時に,コンピュータのものでもあるということを考えなければならない.

カーソルをヒトの「分身」と考えるならば,それはヒトが属している大きな秩序,つまり現実世界であったり,物理法則に則っていなくてはならない.カーソルは,現実世界の机の上を模したデスクトップ・メタファーと共に一般化した.しかし,デスクトップ・メタファーには「メニュー・バー」などがあり「実際の事務机をただ真似たものではない」(ボルター&グロラマ)のである.長谷川も次のように面白い指摘をしている.
Windows も Mac OS もユーザーインターフェイスはデスクトップメタファに則っているけど,実生活にカーソルってものは存在しないなぁ.確かにフォルダやファイルなどは,実際にあるものだけれども,このカーソルってなんだ? そもそも,デスクトップを真横から見たら,カーソルは浮遊しているのか? フォルダをドラッグする時は,銛で川魚をとるみたいにブスッと刺してズラすということなのか? それとも先端に餅みたいなものがついていて,くっつけて引っ張るのか? その方がファイルも破損しないなぁ・・・・.
コトバ/デザイン/アソビ:メディアの実験集「モノサシに目印」,長谷川踏太
カーソルをめぐる言説を集めてみると,それはヒトの「分身」として「手の代理」であったり,「視線の代理」であったりしながら,コンピュータがヒトの意識を我が物にする記号であったりする.さらに,デスクトップ・メタファーの中で,現実世界にないのに存在している記号であって,まさに「カーソルって何だ?」という状況になってくる.
ここでカーソルを動かすことを考えてみよう.哲学者のフレッド・ドレツキは次のように書く.
私のコンピュータのキーボードにあるバックスペース・キーを叩くことは,カーソルを左へと動かす.運動の原因は,バックスペース・キーへの圧力であり,この出来事およびそのコンピュータの完全な機械的電気的条件ではない.もちろんもし我々がコンピュータの配線を変え,プラグを抜き,ソフトウェアを変え,接触を腐蝕させるなどすれば,そのときバックスペース・キーを叩くことはもはやカーソルを動かさない.確かにそうだろう.しかしながら,これが示すのは,バックスペース・キーを叩くことがカーソルを動かさない,ということではなく,それが常に動かすわけではない,ということである.そうするのは特定の条件においてのみ,すなわち背景条件が正しいときのみである. (pp.67-68)
行動を説明する:因果の世界における理由,フレッド・ドレツキ
「特定の条件においてのみ,すなわち背景条件が正しいときのみ」カーソルは特定の動きをする.に従うことは背景条件の正しさのひとつだがそれ以外の条件もある.カーソルを現実世界にないものであるから,カーソル自体は物理法則に従う必要はない.マイケル・ベネディクトは次のように書く.
実際にはボタンでもスライダでもなく,自分がどこにいるのかにはとんと無頓着でありながら,それでもちゃんと機能するボタンとスライダ.自分がいる場所に応じて,自身の存在と行動を変化させるカーソル.ストリッピング,スキッピング,スクローリング,フライング,ポッピング,ゴブリング・・・こうした"効果"のすべてが多大な効果を発揮し,現実世界に帰結するのは確かだが,しかしそれでもなお,現象のレベルで物理的に理解される場合には,物理学の法則の大幅な書き換えが要求されることになる.(p. 140)
サイバースペースの空間原理と可視化モデル.マイケル・ベネディクト 
カーソルは独自の法則に従っている.ベネディクトによれば,カーソルがサイバースペースにあるからだということが.独自の法則の理由になる.同じような指摘を永原康史はしている.
たとえば,マウスを動かしますね.マウスを右に動かすとカーソルも右に動きます.マウスを動かしてカーソルが動く,というのは普通のことと思えるかもしれませんが,ペンを持って物理的に線を引いているわけではないので,実は不思議なことです.マウスとカーソルに物理的な因果関係は何もなく,単にマウスとカーソルの間にプログラムが介在し,マウスに追従してカーソルが動くように計算されているだけなのです(いうまでもなくカーソルは映像です).そのようにインタラクションが仕組まれたことによって,マウス操作が自然なもの,空気のように存在するものになってきました.ウェブブラウザを使っていて,リンクの張ってある箇所に来ると,矢印カーソルがぱっと指先の形に変わったり,ボタンがハイライトするといったようなこともそうです.なんだがそれがあたりまえのような,春になったら花が咲くぐらい当然のように感じる現象が日常にあって,インタラクション自体が何でもないものになってきました.(pp.175-176)
インタラクションをどのようにデザインするのか,永原康史
カーソルは「映像」なのだ.しかも,サイバースペースにある.そこでは物理法則も関係無い.そして,それが当たり前として,私たちの世界に入り込んでいる.だから,カーソルは意識されない.しかし,今まで見てきたように,カーソルは何だかわからないのだ.だからこそ,カーソルを考えなければならない.

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